李貴妃の宮
まるで戦場へ向かう武将のように鋭い眼差しとなり、つられて仙霞の背筋も伸びた。
宮殿の門前では、すでに侍女が待ち受けていた。
楊胤は親しげな笑みを封じ、まるで仮面を貼りつけたかのような、うすい微笑を浮かべる。
それでも侍女は頬を染め、うっとりとした顔で門の中へと案内した。
(……楊胤様は顔がいいからな)
仙霞ならば睨み返して警戒するような軽薄な笑みに、普通の女たちは容易く心を許してしまう。
(そういえば、初めて会ったときは腹黒そうな男だと思ったっけ)
あのときも、きっとこの“仮面”を被っていたのだろう。
だが、なぜか仙霞の前ではそれを脱ぎ捨て、素の顔を見せるようになった。
軽薄さも腹黒さも、いまではもう感じられない。
むしろ──仙霞がつい妙なことを口走っても、呆れ顔で受け流してくれるような安心感すらある。
(案外、いい人なのかもしれない)
出会って日は浅い。けれど、妙な親近感が芽生えている。
もしかすると楊胤もまた、同じような感覚を抱いたからこそ、早々に仮面を外したのかもしれなかった。
庭園は紫の桔梗に彩られ、華麗さのなかにどこか静謐な影を落としていた。
広大な敷地には池が広がり、朱塗りの太鼓橋が優美な弧を描いている。
宮殿の扉に辿り着くと、先ほどの侍女よりも位の高そうな女官が現れ、華やかな衣装をまとって内へと案内した。
李貴妃に仕える女官たちは皆、艶やかで整った顔立ちをしており、その場に立つだけで宮の格式を示している。
仙霞の装いは途端に地味さを際立たせたが、本人は気にするふうもなく、ただ『皆、派手ね』と心中で呟くだけだった。
長い廊下を抜け、ようやく客間へと至る。
そこは広々とした空間で、絨毯は深紅に輝き、壁や柱には花鳥風月の精緻な彫刻が刻まれていた。
中央には大卓子が据えられ、あらゆる視線がその一点に集まるよう設えられている。
上座の象牙細工をあしらった長椅子には、一人の妃が静かに腰掛けていた。
上品にして華麗。歳月が刻んだ皺さえ、その美を損なうどころか深みを与えている。
──このお方こそが、李貴妃に違いない。
彼女に促され、楊胤は正面に座る。
仙霞と敬宋はその背後に控え、拱手の礼をとって頭を垂れた。
顔を隠す影の奥から、仙霞はじっと長椅子の妃をうかがった。
礼に疎い仙霞だが、敬宋の真似をしていれば事足りた。
あとは彼のように口を閉ざし、ただ空気のように立っていればよい。
やがて毒見を終えた茶と菓子が配される。
互いを持ち上げ合うような、仙霞にとっては退屈で眠気を誘う時間がしばらく続いた。
──だが、不意に貴妃の言葉に棘が潜んだのを感じた瞬間、仙霞の眠気は一気に霧散する。
「科挙に及第した秀才とお聞きしましたわ。ご立派なことね。……文官として、新しい帝を支えてくださるのかしら」
「はい。官吏としてお仕えしたく存じます」
(……まだ皇太子は決まっていないというのに)
李貴妃の長子は皇嗣であり継承権第一位。だが、正式に皇太子に任じられてはいない。
楊胤も本来なら候補であるはずなのに、まるで端から除外するような言いぶりだ。
しかも「ご立派」と褒める口調に、奇妙な険が混じっている。
表の笑みとは裏腹に、心底では歓迎していない──そんな本音が透けて聞こえた。
「亡き梅昭媛の死の真相を探る任を賜ったとか」
「はい。その件で本日、お伺いしました」
本題が切り出された。
仙霞は身じろぎもせず、ただ耳を澄ませた。
「何を聞きにいらっしゃったの。わたくしは梅昭媛とは会ったこともないのよ」
「どこまでご存じか分かりませんが、実は梅昭媛は蠱毒によって呪殺された疑いがございます。こちらに伺いましたのは、蠱毒の猛威が李貴妃様に降りかからぬよう、くれぐれもお気をつけいただきたいからです」
「まあ……」
李貴妃をはじめ、周囲の侍女たちも袖で口元を押さえ、小さな悲鳴を漏らした。
(上手い。罪人探しに消極的だった貴妃が、我が事となれば途端に態度を変える)
「造蠱し、他人を呪い殺した者は、三年以内に再び誰かを呪わねば、自ら蠱に呪われると申します。罪人を見つけ出さなければ、次の犠牲者が出るのです」
楊胤の言葉に、侍女たちは大きな悲鳴を上げ、すすり泣く者まで現れた。
(楊胤様は蠱毒に関しては無知に等しかったのに……よく調べたものね)
楊胤の言葉はおおむね事実だ。
呪い殺すという行為は、それだけ自らを危険に晒す。
誰かを呪殺したが最後、蠱師は死ぬまで悪事を重ねねばならないのだ。
一週間、仙霞を放っておいた楊胤だが、決して何もしていなかったわけではない。
自分なりに蠱毒について調べていたのだろう。真面目なことだ。
「早く罪人を見つけてちょうだい!」
李貴妃は甲高い声で叫んだ。
無理もない。次は自分が呪殺される番かもしれないとなれば、冷静ではいられない。
もっとも、李貴妃自身が蠱師でなければの話だが。
「そのために私が参ったのです。どうでしょう、梅昭媛の事案について、何かご存じのことはありませんか?」
楊胤の問いかけに、李貴妃は恨めしげな眼差しを向け、それから外壁が剥がれ落ちるように、ぽつりぽつりと口を開いた。
初めこそ「何も知らない」と取り繕っていたが、意外なほど詳しい情報を持っていた。
梅昭媛の出身や素性、好んだ食べ物や色──まるで一度も会ったことがないとは思えないほどだ。
もっとも、それらは人となりを知るには役立つが、決定打にはならなかった。
李貴妃に丁重に別れを告げ、宮殿をあとにする。
「一発目から、なかなか詳しい情報を聞き出せましたね」
歩きながら仙霞が声をかける。
「ああ……だが、どれもすでに調べのついていたことばかりだ」
どうやら楊胤は、ここに来る前に梅昭媛についての身辺を徹底的に洗っていたらしい。
それもそうか。被害者の身辺捜査をするのは当然だ。
「仙霞は、何か分かったか?」
「私は梅昭媛についてほとんど何も存じませんでしたので、参考にはなりました。ただ……何か分かったかと問われれば、何も分かりません」
正直な感想を述べると、楊胤は「そうか」とだけ呟き、押し黙った。
策を練っているのか、険しい表情で思考を巡らせている。
仙霞もまた、考え込む。
このまま四夫人を順に訪ねても、李貴妃から得た程度の情報しか出てこないのでは意味がない。
闇雲に探すのではなく、罪人へと繋がる糸口──決定的な手がかりが欲しかった。
(予知で罪人の姿が見えれば、どんなに楽か)
おそらく楊胤も、それを期待して仙霞を連れてきたのだろう。
だが、未来の映像は自分の意思で呼び出せるものではない。それがもどかしい。
しかも望まぬものまで視えてしまうことがあるのだ。
仙霞は、ふと楊胤の横顔を見つめた。
「……どうした?」
「いえ、なんでもありません」
視界に焼きついた、あの映像を思い出す。
だが仙霞はかぶりを振った。
あの映像のことはさっさと忘れてしまいたい。
仙霞には関係のないことだ。
「次はどなたの宮殿に伺うのですか?」
「揺淑妃のもとだ」




