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蠱毒の後宮妃  作者: 及川 桜
第五章 後宮の四夫人

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四夫人の宮

鮮やかな青空に、薄い雲がゆるやかに漂っていた。


時折吹く涼風が広葉樹を揺らし、朝日を受けて葉の緑がきらめく。


仙霞が東宮で暮らし始めて、もう一週間。久しぶりに楊胤が離れの棟を訪れた。


「お久しぶりですね」


仙霞は葉の裏に隠れていたナメクジを、手早く籠の中へ入れる。


昨夜の雨で濡れた葉には、まだ水滴が光っていた。


「私の仕事はこれだけではないからな。色々と忙しいのだ」


「でしょうね」


興味のなさそうに顔をそむけ、仙霞はナメクジ探しを続ける。


一週間も放っておかれ、ほんの少しだけふてくされていたが、皇子相手に不満を口にできるはずもない。


「何をしているのだ?」


楊胤が仙霞の横顔を覗き込み、籠の中をのぞき込む。


「ナメクジを集めていました」


「……集めて何を……いや、いい。それ以上は言うな」


仙霞は思わず口をつぐむ。むしろ集めてからが面白いのに──と、心の中で小さくつぶやいた。


「こちらに来たということは、四夫人に謁見できる段取りが整ったのですか?」


「ああ。四人の予定がそろったのは今日しかなかった」


「では、お茶会でも?」


「いや、あの四人は仲が悪い。別々に、それぞれの宮を訪ねることになる」


それはそれで骨が折れそうだ。


けれど、早めに済ませなければ華蠱宮に戻れない。


「では、すぐに行けるか?」


「はい」


仙霞は仕方なく、生け捕っていたナメクジを葉に戻した。


その様子を眺めながら、楊胤がふと仙霞の顔を見つめる。


「……なぜ化粧をしない。それに簪などの装飾品も与えたはずだ」


「面倒くさいんですよ」


身にまとっているのは、楊胤から支給された鮮やかなほう


華蠱宮にいたころよりずっと豪奢で、高級女官にひけを取らない装いだったが、本人に飾る気はさらさらない。


「……まあいい」


楊胤は、以前よりは見栄えがましになったと判断したのか、それ以上追及せず踵を返す。


仙霞は黙ってその背を追った。


後宮の大門をくぐると、宦官の敬宋が控えていた。


いかに皇子といえど、この領域では宦官の付き添いなく歩くことはできない。


「最初に訪問するのは、どなたの宮殿ですか?」


仙霞が問いかける。


貴妃だ。四人の子を産み、今では後宮の実質的最高権力者。……仙霞は四夫人について、どこまで知っている?」


自然に名前で呼ばれていた。


思わず聞き流してしまいそうなくらい耳馴染みがよく、不思議なほど違和感がなかった。


「何も知りません。正直、名前すら覚えていません」


楊胤は『それくらい覚えておけ』と言いたげに目を細め、呆れたように見下ろした。


李珪斉りけいせい様。帝と同い年で、御年四十五。皇太子時代からの正妃で、長子・文曜様は二人が十八歳のときの子だ」


「そこからさらに三人も……。寵愛を一心に受けられた妃様なのですね」


「いや、それが……帝位に就いてから後宮に妃が増えるにつれ、夫婦の仲は冷え込んだ。李貴妃の次男・文慶様と、新たに入宮したよう淑妃の長子・武羅様は、同じ年に生まれている」


──同じ年。


つまり帝は、同じ時期に二人の妃のもとへ通っていたということだ。


後宮の制度上、それは珍しくはない。


「帝はしっかり務めを果たされたわけですよね。嫉妬するなんて、器が小さい」


「おい、言葉を選べ。李貴妃の前でだけは、決して口にするな」


楊胤が慌てて声をひそめる。


(しまった。四夫人の前ではなるべく喋らないようにしよう)


「嫉妬だけではない。よう淑妃は親密国の公主だ。対して李貴妃の父は、地方を巡察する役人にすぎない。身分の差は歴然としている。淑妃が皇后に選ばれてもおかしくはなかった」


「ああ、だから今も皇后がいないのですね」


子の数や寵愛を考えれば、李貴妃が皇后に昇るのは自然なはず。


だが、親密国の公主を差し置くことは、国政において致命的な火種となる。


「それに、長子である文曜様は皇太子に任じられていない。かつて官吏がうっかり“皇太子”と呼んだ時、帝は烈火のごとく怒ったそうだ。文曜様は皇嗣であり、第一位の継承権者。誰もが当然、皇太子だと信じていた。……だが帝は自らそれを否定した」


仙霞の背筋に冷たいものが走る。


「つまり、帝は──貴妃様のお子以外を皇太子に据えるおつもりなのですか」


「それも判然としないのだ。帝が否定した以上、文曜様が皇太子になることはない──そう思いきや、常に最上位の席に据えておられるし、冷遇している様子もない。よう淑妃の立場を立てるために、いまは空位にしているだけで、本命は文曜様だという説もある。……帝の胸中は誰にも読めぬ」


皇太子に選ばれるのは、果たして貴妃の子か、それとも淑妃の子か。


盤石に見える李貴妃もまた、決して安泰ではない。


一瞬、仙霞の脳裏を予知の記憶がかすめた。


だが、それはあまりに重大で、深く考えることを拒んでしまう。


(私には関係のないこと)


自分にそう言い聞かせる。


首を突っ込めば、確実に厄介な渦へ巻き込まれる。──そして仙霞のこうした勘は、なぜかよく当たった。

「そういう事情があるから、李貴妃と揺淑妃は犬猿の仲だ。……同じ時期に生まれた皇子たちも、常にいがみ合っている」


仙霞も建前だけは公主の身分だ。


だが、それは吹けば飛ぶような小国の養女にすぎない。


揺淑妃のような直系の公主とは、天と地ほどの差がある。


無下には扱えない相手なのだろう。


「ところで、帝のお子は何人いらっしゃるのです?」


「皇子が五人、皇女が六人。合わせて十一人だ。本来なら十二人になるはずだったが……」


梅昭媛の腹に宿っていた子。そのことを指しているのだろう。


「いまだ現役、というわけですね」


「ただの好色爺だ」


帝に向かって、なんという言葉──。


仙霞は思わず息を呑み、慌てて周囲を見回した。


誰かに聞かれてはいないだろうな、と。


貴妃の宮殿へ向かう道すがら、立ち聞きされるようなことはない。


だが、仙霞と楊胤の後ろには敬宋が控えている。耳に届いていないとは言い切れなかった。


振り返ると、敬宋は赤とんぼをぼんやりと目で追っている。


(気の抜けた老宦官……いや、もしかすると、こういう者をあえて選んだのかもしれない)


この任務は他言無用の極秘。ならば口の堅い宦官が選ばれて当然だ。


敬宋の場合は、堅いというより、ただ呆けて喋らないだけに見えるが。


「そうしているうちに、着いたぞ」


楊胤が声をひそめる。


「仙霞は……そうだな、話すな。返答は頷くか首を振るだけにせよ。どうしても聞きたいことがあれば、俺に耳打ちしろ」


仙霞は大きく数度頷いた。もとより口を開くつもりなどない。


仙霞の頷きを見届け、楊胤は満足げにうなずいた。


「うん、それでいい。では、行くぞ」


 その瞬間、彼の表情が切り替わる。


まるで戦場へ向かう武将のように鋭い眼差しとなり、つられて仙霞の背筋も伸びた。


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