夜の密談
正殿に住むことになっていたら、周囲の目が気になって気の休まる時がなかっただろう。
そう考えると、正直ほっとする。
その棟はほとんど使われておらず、人影はないのに、建物だけはやけに立派だった。
平屋をひとりで独占してしまうのは少し申し訳ない気もしたが……離れで暮らせることに安堵する。
おそらく元は廟堂だったのだろう。
外観は装飾的な本瓦葺きで、中央部分には鳳凰の文様が刻まれている。
内部は梁が露出した高天井で、開放的で広々としていた。
柱や棟木には蓮の花や雲文様など繊細な装飾が施され、がらんどうな空間にも高級感が漂っている。
出会って間もないというのに、楊胤は仙霞の性格をよく見抜いて別棟を提案してくれたのだろうか。
……そうだとしたら、案外気の利く、良い人なのかもしれない。
がらんどうの広い部屋で、何をするでもなく座っていると、楊胤が姿を現した。
「生活に必要そうな物を持ってきたぞ」
その声に続いて、たくさんの女官や宦官たちがどやどやと入ってくる。
あれよあれよという間に寝台や箪笥、文机が運び込まれ、部屋はたちまち生活の場らしく整えられていった。
二、三着しかなかった衣装も一気に増え、鏡台の棚には簪や化粧道具まで種類豊富に並べられていく。
「……使うことはないと思うのですが」
「皇子の女官なのだから、化粧くらいしておかねば怪しまれるだろう」
楊胤は、せっせと働く女官や宦官たちに聞こえないよう、仙霞の耳元で囁いた。
──なるほど、そういうものか。
華蠱宮では、下級妃なのに化粧もせず身なりに気を遣う必要もなかった。
あの気楽な生活は、案外恵まれていたのだなと仙霞はしみじみ思った。
「ああ、それと──好きかもしれないと思って持ってきたのだが……」
楊胤がおもむろに布包みを開くと、中から分厚い冊子が現れた。
科挙の試験に出題される『論語』や『孟子』といった儒教経典である。
「もう中身は暗唱できるほど覚えている。だから、お前にやろう」
「いいのですか⁉」
叫ぶような声を上げ、本に飛びついた仙霞。
その勢いに、楊胤だけでなく女官や宦官たちまでぎょっと振り返る。
「おい……皆が見ている前だ。せめて表面上だけでも取り繕え」
楊胤が慌てて耳打ちするが、興奮した仙霞の耳には右から左へと抜けていく。
巻物が主流で、製紙本は貴重だというのに──その高価な冊子が目の前にある。思わず涎が出そうになるのを必死で堪える。
「荷物の中に衣より巻物の方が多かったから、本好きかと思ったが……予想以上の食いつきだな。もはや異常だ」
「楊胤様、感謝いたします!」
仙霞は思わず楊胤の手を取り、深々と感謝を述べた。
「お、おう……」
楊胤は引き気味の苦笑を隠そうともせず、困惑した顔を見せるのだった。
勘違いされがちだが、仙霞は呪術や共食いといった気味の悪いものが好きなわけではない。
単に知的好奇心が強いだけだ。
たまたま学ぶ対象が蠱毒だった──それだけのことである。
「まだまだ本を持ってきていただいてもいいですからね! 部屋はこんなに広いのですから」
「……なかなか遠慮のない女だな」
そうして楊胤や女官たちが去った後の棟で、仙霞は心置きなく本に耽ることができた。
夜は蝋燭も使ってよいらしく、贅沢ではあるが読書のために惜しみなく灯す。
食事は女官が運び、食べ終わった膳は片づけてくれる。
別棟にある湯殿まで使わせてもらえ、なにげに至れり尽くせりだ。
夜もすっかり更け、そろそろ寝ようかと思ったその時──玄関扉が叩かれた。
こんな時間に誰だろうと首をかしげながら開けると、そこに立っていたのは楊胤だった。
「こんな時間に……なんの用ですか?」
「とりあえず中に入れてくれ。話は後だ」
入れてくれと言われて、入れないわけにもいかない。
仙霞は仕方なく彼を中へ通した。
楊胤は絹の長袍を帯で締め、その上に薄手の衫を羽織っていた。
仙霞も中衣に長裳の裙を合わせた寝衣姿だったので、少しばかり気恥ずかしい。
部屋には文机と箪笥、そして布団が敷かれているだけ。
客を通すような別室はなく、この部屋に迎えるしかなかった。
文机の上に立てた蝋燭の明かりのそばで、楊胤は胡坐をかく。
仕方なく仙霞も、その灯りに入るよう隣に座った。
「こんな時間に来たら、女官たちに余計な勘違いをされますよ」
「むしろ都合がいいのだ。出自も不明の女官を自分の宮殿に住まわせるなど、普通では考えられぬ待遇だからな。それに、会話を聞かれては困る。夜に逢瀬を重ねていると思われれば、女官たちも納得するだろう。……まあ、勘違いされるのは不本意だが」
「私も大変不本意です」
ただありのままに思ったことを口にしただけなのに、楊胤に睨まれた。同意しただけなのに、なぜだろう。
「さっさと片をつけよう。こんな面倒なことは早く終わらせるに限る」
「ええ、もちろんです。私も早く華蠱宮に戻りたいです」
「では──知っていることを話せ」
「は?」
仙霞は間抜けな顔で聞き返した。




