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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

夏のホラー2025 人魚

作者: キシケイト

 指先に、水が触れた。

 冷たい。

 火照った体にはちょうど良かった。


「飲み過ぎたかな……」


 俺は池のほとりでつぶやいた。

 酒に酔っているせいか、頭がふわふわしている。

 なんとも心地よい気分だった。


 サンダル履きの爪先が濡れる。

 鏡のように凪いでいる水面は、暗く静まりかえっていた。

 夏の湿った空気が、肌にまとわりつく。


 ——ぱしゃん——


 水面すいめんが揺れ動いた。

 それは俺が口にした、ひとりごとの返事のように聞こえた。


「誰か……いるのか?」


 酒の酔いが、一気にめた気がした。


「なんだ。鯉か」


 ——驚かせるんじゃないよ。


 水の中で何かがうごめく。

 白とあかが入り混じった、透けるような尾びれだった。


 立ち上がり、目を凝らす。

 水面をすべるように、優雅な動きで尾びれが近づいてきた。

 レースを全身にまとった、人のように見える。


「え?」


 声が、こぼれる。

 俺の声に反応をしたのだろうか。

 それは尾びれを大きく跳ね上げ、水面から飛び出した。


「……!」


 思わず息をのんでしまう。

 夜空に浮かんだのは、人魚だった。

 ——いや、人魚に見えた()()だったかもしれない。


 目が合う。

 瞳に俺の顔が映される。

 彼女に必要とされている気がした。

 その瞬間、大切な何かが壊れてしまった。


 ——ばしゃん!


 彼女が再び水面へ潜る。

 静かだったみなもが、激しく揺れる。

 同時に俺の心も、激しく揺さぶられた気がした。


「あっ……。ま、待ってくれ!」


 俺は池に、飛び込むように入っていく。

 無我夢中で、濡れるのもお構いなしだ。


 追いついた。

 水の中に手を入れる。

 彼女の白い腕を掴む感触がした。


 腕を掴み、体を引き寄せる。


「……」


 目が合い、見つめあう。

 彼女は黙ってこちらを見つめていた。

 もしかして、声が出せないのだろうか?


 その顔に、表情というものは無いように見えた。

 ——何を考えているのだろう、俺にはわからない。


 改めて彼女を観察する。

 思っていた通りの姿が、俺の腕の中に現れた。

 ——美しい——

 一瞬にして心を奪われた。


 水に濡れ、体に張り付いた長い髪。

 細くしなやかな上半身は、女性特有の柔らかな線をしている。


「魚だ」


 これは……幻なのだろう。


 想像よりもずっと、魚の様な見た目に俺は驚いてしまう。

 下半身は、宝石を散りばめているようにきらめいている。

 よく見ると、それはうろこだった。

 大地を踏み締める足の部分は、大きな尾ひれがついていた。


 その姿にどうしようもなく、惹かれてしまう。

 これは運命だ。

 そう思うと同時に体が動いた。

 唇を奪う。

 彼女の腕に力がこもる。

 嬉しい。俺自身が受け入れてもらえた気がした。


 酒がまだ抜けきってはいないらしい。

 まだ——俺は酔いしれていたい。

 この心地よい夢の底に、身をたゆたえていたい。


 ふたりはそのまま、池の水に溶け合うように抱き合った。

 俺はこの時初めて、自分の中にある()()が満たされる感覚がした。





「——! あにさま! 起きて!」


 ……この声は妹の声だ。

 うっすらと目を開ける。

 目の前には、濡れ羽色の黒髪を肩で切り揃えた少女が見えた。

 頭がボンヤリしていて、何かを考えることはできなかった。


「ああ、お前か。大丈夫だよ——」


 妹の名を呼ぶと、意識がはっきりしてきた。

 全身が重くてじっとりする。

 濡れているのだろう。


 ゆっくりと体を起こす。

 腰から下は水に浸かっていて、ゆらゆらと揺れて見えた。

 まるで夢うつつのようだ。


「あにさま、いったい何があったの?」


「んー……あー。子どもにはまだ話せないかな」


 俺は返事をはぐらかした。

 先ほどの出来事が脳裏をよぎる。

 記憶にある通りだとすれば——。

 何かあったのかは、口が裂けても妹には言えない。


「ふーん……。まあ、いいわ。屋敷に戻りましょう」


 そう言うと妹は、俺を置いてスタスタと歩き出す。


「耳が真っ赤よ。……こんな場所で()()()きり。いったい何をしていたのかしらねえ」


 途中で振り向くと、ニヤリと笑う。

 羽織っているベールのような、真っ赤なショールが、舞うように揺れた。


 ……こいつ、全部知っていて言っているな。


 俺は水から上がる。

 そのまま屋敷へ戻るためにを進めた。





 太陽が地平線へ沈んでいく。

 辺りが夜の色に染まっていくのを、ボンヤリと眺める。

 翌日の夕方。


 俺はふたたび池のほとりに立っていた。

 足が向いた理由は、自分でもわからない。

 同時に、ある強い気持ちに支配されていた。


 ただ、あの人魚ともう一度会いたかった。


 ——どんな手段を使ってでも、彼女を手に入れたい!


 その思いだけで、足がこの池に向いた。

 たかぶる気持ちを必死に押さえつける。

 大きく息を吸い、声を出す。


「おーい、いるなら出てこーい」


 声はむなしく消えていく。

 池の水は相変わらず、鏡のように凪いでいた。

 時間だけが流れる。


「暑い」


 額から汗が流れてくるが、気にはしない。

 ちなみに、今日は酒が入っていない。完全なる素面だ。


 しばらくすると、完全に日が暮れた。

 辺りは完全に暗くなり、月と星が頭上に輝きだす。


「俺は戻るからな」


 少々不機嫌な声で言い放つ。

 そのままきびすを返し、立ち去ろうとした。


 ——ぱしゃん——


 背後で水の音が響いた。


「っ……! やっぱり、るんじゃないか!」


 期待に胸を膨らませ、駆け出す。

 ためらうことなく、池に飛び込んだ。

 泳ぐのには少し浅い。

 水が体に巻き付いて、前に進むのを邪魔をする。


 俺と彼女は池の真ん中あたりで再会した。


「お前は、何なんだ?」


 開口一番、ひと晩中思っていたことをぶつけた。

 胸が高鳴る。声がかすかに震えていた。


 彼女は黙ったまま、顔半分だけを水面に出している。


「……」


 ——ちゃぽん——


 人魚の片腕が、水底から浮き出てくる。

 それは青白く、形は人間の物だった。

 しかし、違和感は拭えない。


「どうした?」


 俺の言葉は聞こえていないのだろうか。

 ゆっくりと伸びた腕は、俺の服を引っ張った。

 ——危ない!


「うわっ!」


 バランスを崩し、水の中に体が沈む。

 大きな水しぶきが上がる音がした。


 ——ごぼっ!


 息ができない。音も聞こえなくなる。

 泡の中で必至にもがいていると、ヌルリとした感触が襲う。

 首筋に青白い両手が絡みついてきた。


 針の様な鋭い爪が、俺の肌を突き刺す。

 ブチブチと皮が裂け、血が滲んできた。

 苦しい。


 ——ヤバい! このままだと、殺される!——


 体が思い通りに動かない、力が出ない。

 目の前には恋焦がれたはずの、美しい姿をした彼女がいる。

 しかし、今()()は化け物にしか見えなくなってしまった。


 俺の流した血は、水中を舞う花となって散っていく。

 赤いひとひらが、口の中に入ってきた。

 その瞬間、全身に電気が走った感覚がした。


「っがあ……!」


 それが覚醒の合図になった。


 水中で体勢を立て直すと、目の前の化け物に掴みかかった。


「ぶはっ!」


 俺は勢いよく水面から飛び出した。

 両手には獲物を掴んで、離さないように——。


 息つく間もなく、首筋に牙を立て喰らいつく。

 吹き出した血が、顔面を濡らす感触が心地よい。

 しばらく流れ出る血を必死に啜っていた。


 ——空っぽだった気持ちが満たされていく。


 自分でもよくわからない、不思議な感覚に包まれていた。


 この感情に名前を付けるとしたら——それは『幸福』なんだろうな——


 とろけるような感覚の中、ふと、そんなことを考えた。





「ただいま」


 屋敷の玄関が水に濡れる。

 ずぶ濡れになった俺を、妹が出迎えた。


「おかえりなさい」


 バスタオルを差し出された。

 確かに、このままでは室内には入れない。


「悪いな」


 俺はタオルを受け取ると、したたる水を拭う。


「あら?」


 妹は足元に視線を向ける。

 一瞬だけ、怪訝けげんそうな表情をした。


「あにさま。何を捕まえてきたの?」


 だがしかし、すぐに無邪気な問いに合わせた顔になる。


「これは人魚だよ。今夜のメインディッシュ」


 ニヤリ、と俺は悪い顔する。


「そう。それは楽しみね」


 ウフフ、と妹が同意した。



 その日の夕飯には、魚の煮付けが並んだ。

 丁寧にウロコと内蔵を取って、濃いめの味付けで煮た物だ。


「いただきます」


 箸でとり、口にする。

 しっかりした歯応えに「ん?」と、思わず声が出る。


 しばし感触を確かめ、味わう。

 味が抜けた気がしたころ、ゆっくりと口から出した。


 それは人の指の骨だった。

 何かに納得したように骨を見て、俺はそれを皿に置いた。


 おしまい。



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