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第208話:数日後の来訪者

 封印室を出る時、ゼルヴォードは一度だけ振り返った。


 台座の上に眠る巨大な書――エイグラムは、また静かな闇の中へ沈みつつあった。

 本なのか武器なのか、今なお一言では言い切れない。だが、ただの遺物ではないことだけはもう分かっている。


「戻るぞ」


 ゼルヴォードが言うと、ラズネリアは無言で頷いた。


 石扉が閉じる。

 その重い音が、封印室の静けさに蓋をするように響いた。


 長い階段を上り始めてしばらくは、二人とも口を開かなかった。


 下りる時よりも、上る時の方がやけに長く感じる。

 古い術式灯の青白い光が、壁をかすめて流れていく。足音だけが乾いた空間の奥へ反響し、そのたびに封印室で見た本の姿が頭の中で組み直された。


 歪んだ背軸。

 焼きついた綴じ。

 死んだ歯車列。

 それでも残っていた、かろうじて生きた構造。


 ゼルヴォードは階段を上りながら、頭の中で何度もそれを分解していた。


 外装と背の補強。

 綴じの再構成。

 歪んだ軸の矯正。

 歯車列の差し替え。

 そこまでは、ある程度道がある。


 だが、あれはそこから先が厄介だ。


 頁ごとの機構はまだしも、そこに刻まれた術式となると話が変わる。

 器として同等のものを作ることは考えられる。だが、刻まれていた中身そのものは、鍛冶だけでは埋められない。


「何を考えておる?」


 前を歩いたまま、ラズネリアが言った。


 ゼルヴォードは数段遅れてから答える。


「どこまで残せるかだ」


「直せるか、ではなく?」


「今はまだそっちの方が先だ」


 ラズネリアは少しだけ首を傾ける。


「全部は無理だと思うたか」


「思うじゃない。無理だ」


 即答だった。


「少なくとも、今見た範囲じゃな」


 ラズネリアはそれ以上は問わなかった。

 ただ、わずかに鼻を鳴らしただけだった。


 少し上ったところで、ゼルヴォードは続ける。


「機構と装丁には手が入れられるかもしれん」


「ほう」


「背の芯は死んでない。綴じも全部が焼けたわけじゃない」

「歯車も半分以上は形を保っていた。作り直せる部品はある」


 そこまで言って、ゼルヴォードは小さく息を吐く。


「ただ、頁の中身は別だ」

「術式の方は俺じゃどうにもならん」


「当然じゃな」


「堂々と言うな」


「魔法はわしの領分、器はおぬしの領分。それだけのことじゃ」


 その言い方は妙にあっさりしていた。

 だが、そう切り分けてもらえる方がゼルヴォードとしてはやりやすい。


「資料がいるな」


「うむ」


「現物だけじゃ足りん。設計図、欠損記録、当時の組み方の癖……見られるものは全部見たい」


 ラズネリアはそこで一瞬だけ足を緩めた。


「そこまで言うか」


「見立てるなら、そこまでいる」


 ゼルヴォードは壁の術式痕を見ながら言う。


「一人で組んだもんじゃないんだろ。お前の設計に、当時の工匠どもが噛んでる」

「なら、魔法側の理屈だけ追っても片手落ちだ」


 ラズネリアは小さく頷いた。


「その通りじゃ」


「その工匠の技まで全部追う気はない」

「だが、何を前提に組まれてたかくらいは知りたい」


「では資料を見せよう」


「今からか?」


「いや」


 ラズネリアはそこで振り返った。

 淡い藤色の髪が、青白い灯りを受けて淡く揺れる。


「資料は屋敷にある」


 ゼルヴォードは眉を寄せた。


「ここにはないのか」


「ここに残してあるのは器だけじゃ」

「設計も記録も、全部ここへ置くほど愚かではないのでな」


「それもそうか」


「今日はここまでじゃ」


 ゼルヴォードは鼻を鳴らす。


「相変わらず勝手だな」


「資料を持って、数日後に行く」


「……俺のところへか」


「他にどこがある」


 その言い方があまりにも当然で、ゼルヴォードは一瞬だけ言葉に詰まった。


「いや、あるだろ。学園でもギルドでも」


「面倒じゃ」


「それが本音か」


「大体そうじゃ」


 そんなやり取りをしているうちに、ようやく階段の終わりが見え始めた。


 石扉のこちら側へ戻ると、地下深部の圧のような重さは少しだけ薄れていた。

 それでもまだ、遺構そのものが持つ古さは肌にまとわりつくように残っている。


 地上へ出るまで、二人はもうほとんど喋らなかった。


 遺構の外へ出た時には、日はかなり傾いていた。


 薄い夕方の光が石壁を撫で、長く伸びた影の中に二人を置く。地下にいたせいで、外の空気がやけに軽く感じられた。


 ゼルヴォードは肩を回す。


「さて」


 その一言に、ラズネリアは外套の裾を整えた。


「では、数日後じゃな」


「本当に来るのか?」


「来ると言うておる」


「いや、来るんだろうとは思うが、あんたの場合はそのまま忘れてても驚かん」


「忘れぬよ」


 そう言うと、ラズネリアの周囲に淡い魔力が揺れた。


 ゼルヴォードの目が細くなる。


「今ここで帰るのか」


「屋敷が遠いのでな」


「便利なもんだな」


「百年生きておると、それなりに便利にもなる」


 その言葉を最後に、ラズネリアの姿は揺らぎ、薄い光とともにかき消えた。


 あとには、夕風だけが残る。


 ゼルヴォードはしばらくその場を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。


「……本当に帰りやがった」


 いちいち言うことでもないが、口に出さないと妙に収まりが悪かった。


 ともあれ、数日ある。

 その間にできることはある。


 工房へ戻ったゼルヴォードは、その日のうちに倉庫へ入った。


 普段は素材や古い部材、実験用に残してある失敗作を放り込んである場所だ。

 だが奥には、冒険者時代から持ち帰った用途不明の古道具や奇妙な機構物も少なからず眠っている。


 箱をいくつかひっくり返し、布に包まれた細長い塊を引っ張り出す。


「……これか」


 作業台へ置いて布を剥ぐと、出てきたのは本に見えなくもない奇妙な器物だった。


 エイグラムほど大きくはない。

 外装も粗い。

 だが内部に通る軸や、頁めいた板を噛み合わせて開いていく構造は、どこか近い。


 昔、遺跡の奥で見つけて持ち帰った機構書じみた代物だ。

 当時は何に使うのかも分からず、ただ妙な形だと思って取っておいただけだった。


 今なら、少し分かる。


「似てる、ってだけだが……」


 ゼルヴォードは綴じ部分を軽く押さえる。


 完全に同じものではない。

 だが、綴じの荷重配分や、内軸の支え方、板構造の逃がし方を見るには十分だ。


 数日あれば、もう少し頭の中を整理できる。


 三日後の昼。

 工房の戸を叩く控えめな音に、ゼルヴォードは手を止めた。


 開ける前から誰かは分かっている。


「来たか」


 戸を開くと、案の定ラズネリアが立っていた。


 今日は前よりも落ち着いた濃色の外套を羽織っている。

 見た目だけなら、どこぞの貴族の幼い娘が供もなく立っているようにしか見えない。だが両手に抱えているものが、その印象を壊していた。


 古い紙束。

 細長い筒。

 布で包まれた分厚い記録冊子がいくつもある。


「……その姿で全部持ってきたのか」


「持てるから持ってきた」


「そういう問題じゃないだろ」


「入るぞ」


 ゼルヴォードは呆れたように息を吐いたが、追い返す理由もない。

 そのまま道を空ける。


 ラズネリアは当然のように工房へ入り、作業台の方へ向かった。

 そして途中でふと視線を止める。


「……ほう」


 その先には、三日前に倉庫から引っ張り出した古い機構書もどきが置かれていた。


 ラズネリアは数歩寄り、じっとそれを見る。


「似た構造じゃな」


「完全には違うがな」


 ゼルヴォードも隣に立つ。


「昔拾ったガラクタだ。開き方も役目も違うだろうが、綴じと内軸は参考になる」


 ラズネリアは小さく頷いた。


「悪くない」


「で、持ってきた資料はどこまである」


「設計図、欠損記録、展開構造の写し、術式目録」

「おぬしが読めぬものも多いがの」


「魔法の方は最初から期待してない」


「潔いの」


「その代わり、器の方は俺が見る」


 ラズネリアは机へ資料を広げ始める。


 ゼルヴォードもその向かいに立ち、設計図が開かれるのを待った。


 工房の中に、鉄の匂いと古紙の匂いが混じる。

 百年前に止まっていたものが、今度はゼルヴォードの土俵の上で、ゆっくりと再び動き出そうとしていた。

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