第207話:封印室の書
封印室は、思っていたよりも広かった。
円形の空間を囲むように、壁一面へ幾重もの術式環が刻まれている。
古い。だが死んではいない。完全に灯っているわけではないのに、足を踏み入れた瞬間、部屋そのものがまだ役目を覚えているのだと分かる。
中央に置かれていたそれは、祭壇のような低い台座の上にあった。
ゼルヴォードは目を細める。
最初に思ったのは、本、だった。
だが、数歩近づいたところで、その認識はすぐ揺らぐ。
「……本、か?」
思わず漏れた声は、半ば独り言だった。
閉じたままのそれは、書物と呼ぶにはあまりにも重々しい。
普通の本より遥かに大きく、両手で抱えてようやく運べるほどの大きさがある。表紙は革でも木でもなく、鈍く光を返す金属装丁だ。縁には細かな噛み合わせのような意匠があり、背の厚みも異様だった。
だが、ただの古い書物ではない。
鍛冶師の目で見れば分かる。
背の内側には、綴じるためではなく、何かを通し、支え、動かすための軸が入っている。綴じ目の隙間からは、ごく小さな歯車列が覗いていた。紙の束ではない。薄い板を幾重にも重ねたような構造だ。
「……いや、違うな」
ゼルヴォードはさらに目を凝らした。
「本には見える。だが、本じゃない」
その瞬間、ひどく古い記憶が引っかかった。
国家図書館。
まだ鍛冶に興味などほとんどなかった頃、冒険者の仕事の流れで入る機会があった。珍しい資料を面白半分でめくっていた中に、こんな奇妙なものの図版があった気がする。
異様に大きな書。
中に機構を抱えた魔導書。
本なのか武器なのかも分からぬ、与太話じみた挿絵。
「見たことはある……」
ラズネリアが横目で見る。
「現物は初めて、という顔じゃの」
「図版でだ。昔、国家図書館で見た」
「ただ、あの時はこんなものに興味はなかった。珍しい本だと思って流しただけだ」
「そうかの」
「まさか本物が残ってるとは思わん」
ゼルヴォードは台座の前で足を止めた。
近くで見ると、なお異様だった。
表紙の表面には細かな術式線が走っている。だが彫られているだけではない。線そのものが何かの導力路として組まれている。背表紙から表紙、そして内部へ、一本の機構として繋がっているように見えた。
「触れてもいいか?」
ゼルヴォードの問いに、ラズネリアは短く頷いた。
「構わぬ。今さら噛みつきはせぬ」
「さっきの兵装があるから信用ならん」
「おぬしも根に持つの」
「当然だ」
言いながら、ゼルヴォードはそっと表紙へ手を置いた。
冷たいが、ただし石や鉄の冷たさとは少し違う。長く封じられていた魔導具特有の、熱を拒むような冷え方だ。
力を込めて持ち上げると、見た目以上に重い。
それでも持てない重さではない。だが、普通の書物として作るには明らかに不自然な質量だった。
「……本のふりをした器械だな、これは」
「本のふり、とはずいぶんな言い草じゃ」
「違うのか」
「違わぬ」
ラズネリアはあっさりと言った。
「本ではある。じゃが、それだけではない」
ゼルヴォードは片眉を上げる。
「やっぱり武器か?」
「武器でもある」
ラズネリアは台座の向こう側へ回り込みながら続けた。
「本来は調律器じゃ。魔力を受け、整え、術式として成立させるための器よ」
「調律器……」
「頁に刻まれた術式構造を、使用者の魔力で立ち上げる」
「流し込んだ魔力量と組み方によって、展開規模も効力も変わる」
ゼルヴォードはそこでようやく、閉じた外見の奥にあるものを想像した。
「中の歯車は、そのためのものか」
「うむ。術式を噛み合わせるための機構じゃ」
「頁ごとに組まれた構造が噛み合い、魔力の位相を整える」
ラズネリアは台座の縁へ指を置いた。
「調律器として使えば、暴れる魔力を受けて整えられる」
「そのまま術式へ流せば、大規模魔法の出力器にもなる」
「整えた力をどこへ向けるかで、道具にも武装にもなるというわけじゃ」
ゼルヴォードは低く唸る。
「厄介な代物だな」
「最初からそう言うておる」
「いや、想像以上にだ」
台座の上へ戻したまま、ゼルヴォードは本の外装を指でなぞった。
綺麗な保存状態に見えたが、それは遠目の話だ。近くで見れば、確かな損傷がある。
まず背の噛み合わせが歪んでいる。
ごくわずかだが、それだけで内部軸の回転に狂いが出る。表紙の縁にも焼け跡のような黒ずみがあり、一部は熱で溶けてから固まったように見えた。さらに中央付近には薄いひびが走っている。
ゼルヴォードの視線が鋭くなる。
「……壊れてるな」
「無論じゃ」
「無論で済ませるな」
ラズネリアは肩をすくめるようにして答えた。
「暴走の中心におったのじゃぞ。無傷で残る方がおかしい」
ゼルヴォードは表紙を少し持ち上げた。
完全には開かない。
途中で内部が引っかかる。
「焼きついてる」
「何枚かはな」
「何枚か、じゃないだろ」
さらに慎重に角度を変える。
無理に開けば壊れる。それが分かる抵抗だった。
「背の軸がずれてる。歯車列も死んでるのがあるな」
「……導力板も割れてるか」
ゼルヴォードは一度手を離し、小さく息を吐いた。
「相当ひどい」
ラズネリアは否定しなかった。
「実験の最後に、受けきれんほどの負荷がかかった」
「それで内部構造の多くが歪み、焼きついた。閉じたまま生き残っただけ、ましな方じゃ」
ゼルヴォードは本を見たまま言う。
「閉じたまま、か」
「開いた状態で潰れておれば、もっと悲惨じゃったろうの」
確かにその通りだ。
展開中の構造物がそのまま壊れれば、どこから直すかの見当すらつかないだろう。
ゼルヴォードはもう一度、今度は別の角度から本の綴じ目を覗き込んだ。
そこにある歯車は、小さい。だが、玩具のようなものではない。細かな歯一つ一つが術式線と連動しており、ただ回るためではなく、噛み合うことで別の構造を起こすために組まれている。
「これを組んだのは、お前か?」
ゼルヴォードの問いに、ラズネリアは一瞬だけ黙った。
「設計はわしじゃ」
やがてそう答える。
「もっとも、一人で全部作り切ったわけではない。術式はわしが組んだが、機構や装丁には当時の工匠どもが手を貸した」
「なるほどな」
ゼルヴォードは本の背を軽く叩く。
「だから図版や記録が残ってたわけか」
「表に出してよい範囲のものだけじゃがの」
「国家図書館に載るくらいだ。完全な秘匿でもなかったんだろ」
「事故の前まではな」
ラズネリアの声が少しだけ低くなった。
「ヴァル=ネストの災害以後、表向きの記録はかなり削られた。あれもおそらく、外形だけ残した図版の類じゃろう」
ゼルヴォードは昔見た頁を曖昧に思い出す。
確かに、内部構造までは描かれていなかった気がする。ただ奇妙に大きな書物の挿絵があり、用途不明の古代機構のような説明がついていた。
「納得だ」
ゼルヴォードは本の正面に回り込み、しばらく無言で見つめた。
壊れている。
それは明らかだ。
だが、完全に死んでいるわけでもない。
そう感じさせるものがまだ残っている。
「直せるのか?」
ラズネリアが問うた。
声音は平静だったが、そこで初めて少しだけ本気が滲んだ。
ゼルヴォードはすぐには答えなかった。
目の前の本をもう一度頭から見直す。背、綴じ、表紙、導力路、ひび、歪み、焼け跡。壊れ方だけではなく、残っているものの位置まで確認してから、ようやく口を開いた。
「全部は無理だな」
ラズネリアは黙って聞く。
「壊れてるだけならともかく、死んでる構造がある。無理に起こせば、その場で砕けてもおかしくない」
ゼルヴォードは本の縁へ指を当てた。
「ただ……」
「完全に終わってるわけでもない」
ラズネリアの目が細まる。
「どういう意味じゃ?」
「噛み合ってない部分は多い。だが、最初から全部駄目になってる壊れ方じゃない」
「残ってる機構がある。導力路も、死んでるところと生きてるところが分かれてる」
「少なくとも、どこまで残ってるかは読める」
ゼルヴォードはそこで一度、視線を上げてラズネリアを見た。
「だが勘違いするなよ。今すぐどうこうできるって話じゃない」
「これは、診るところからだ」
その言葉に、ラズネリアはすぐには返さなかった。
幼い顔のまま、ただ静かに本を見つめる。
「……十分じゃ」
やがてそう言った。
「百年、誰もそこまで言えなんだ」
ゼルヴォードは鼻を鳴らす。
「見れば分かることを言っただけだ」
「それができる者が少ないのじゃ」
ゼルヴォードは返事をしなかった。
その代わり、もう一度本へ手を置く。
本なのか、武器なのか。
今でもその答えは半端だった。だが一つだけはっきりしている。
これは、ただの遺物じゃない。
そしてラズネリアが百年経っても捨てきれなかった理由も、少しだけ見えた気がした。
封印室の冷たい空気の中で、沈黙だけがしばらく続いた。
その静けさを破ったのは、ラズネリアだった。
「名を、まだ言うておらなんだの」
ゼルヴォードは顔を上げる。
「こいつのか」
「うむ」
ラズネリアは本へ視線を落としたまま、静かに告げた。
「エイグラム」
短い名だった。
だが、その響きの奥に、長い時間が沈んでいる。
「わしがかつて組み上げ、未完成のまま失った、もう一つの器じゃ」
ゼルヴォードはその名を一度だけ頭の中で繰り返した。
「……覚えにくくはないな」
「おぬしはもっと他に言うことがあるじゃろう」
「あるさ」
ゼルヴォードは本――エイグラムを見たまま答えた。
「こいつ、どこまで開くんだ」
ラズネリアの目が、ほんの少しだけ見開かれた。
そしてすぐに、いつものように目を細める。
「そう来ると思うたよ」
ゼルヴォードは口元だけで笑う。
「直せるかどうかも大事だが、何を目指してた器なのか見えなきゃ始まらん」
その言葉に、ラズネリアは小さく息を吐いた。
「なら、次はそこじゃな」
封印室の青白い光が、台座の上の古い書を静かに照らしていた。
百年のあいだ閉じたままだった器は、ようやく再び、誰かの視線の中に置かれようとしていた。




