第206話:深く続く階段
石扉は、重い音を立てて開いた。
その先にあったのは部屋ではなく、さらに地下へと続く階段だった。
細く、長く、底が見えない。壁面には古い術式灯の名残が点々と残り、かすかな青白い光だけが、暗い足元を途切れ途切れに照らしている。
ゼルヴォードはその先を見下ろし、小さく息を吐いた。
「……ずいぶん潜るな」
「簡単に触れてよいものではなかったのでな」
ラズネリアはためらいもなく階段へ足をかける。
ゼルヴォードは一瞬だけ石扉の縁に残る古い刻印を見やり、それから後を追った。
下へ行くほど空気が冷える。
湿っているわけではない。むしろ乾いている。長いあいだ人の出入りもなく、ただ封じられていた空間特有の冷たさだった。
足音だけが、静かな縦穴に反響する。
「さっきの話の続きだ」
数段下りたところで、ゼルヴォードが言った。
「この先にあるのが、未完成のまま置き去りになった器なんだな?」
「うむ」
ラズネリアは前を向いたまま答える。
「おぬしが持っていた盾が護るための武装だとすれば、こちらは逆じゃ」
「逆?」
「受けるための器よ」
小さな背中は止まらない。
淡々とした声音だけが、階段の闇へ落ちていく。
「昔、わしは魔力位相の調律を研究しておった。揺らぐ魔力を整え、暴れる力を安定した術式へ落とすためのものじゃ」
「位相調律、か」
「そう難しい話でもない。乱れたものを揃え、噛み合わぬものを噛み合わせる。それだけならの」
ラズネリアはそこで小さく笑った。
笑ったと言っても、皮肉のようなものだった。
「扱う力が大きくなれば、それだけでは済まぬ」
ゼルヴォードは黙って続きを待つ。
「当時、わしが相手にしておった魔力は強大じゃった。量も、質も、どちらもな」
「じゃが理屈の上では制御できるはずじゃった」
「……理屈の上では、か」
「そうじゃ」
ラズネリアはあっさり頷いた。
「誤ったのは理屈ではない。見積もりじゃ」
数秒、沈黙が落ちる。
階段を下りる足音だけが続いた。
ゼルヴォードは壁面に刻まれた古い術式痕を眺めながら口を開く。
「その実験ってのは、どこでやった?」
ラズネリアの足が、ほんのわずかにだけ緩んだ。
「ヴァル=ネストじゃ」
その名に、ゼルヴォードの眉がわずかに動く。
「……ヴァル=ネスト暴走災害の、あのヴァル=ネストか?」
「名くらいは残っておったようじゃの」
「名どころか、昔話みたいに聞かされたことはある」
「街が一つ消えた大災害だってな」
ラズネリアは否定しなかった。
「消えた、は少し大げさじゃ。じゃが、壊滅はした」
青白い術式灯が、幼い横顔をぼんやり照らす。
その顔に大きな感情はない。だが、何もないわけでもなかった。
「あれは、わしの実験じゃ」
短いその一言は、階段の冷たさより重かった。
ゼルヴォードはしばらく何も言わなかった。
古い災害の名は知っている。だが、それが目の前のこの小さな賢者に繋がるとは思っていなかった。
「ヴァル=ネスト暴走災害……」
ゼルヴォードは低く繰り返す。
「俺が生まれるより、ずっと前の話だな」
「百年ほど前じゃからの」
「当然、その場は知らん。だが、魔導師連中がたまに口にするのは聞いたことがある」
そこでゼルヴォードは、少しだけ目を細めた。
「禁忌に触れた研究者どもが街ごと消えた、ってな」
「ずいぶん雑な伝わり方をしておるの?」
「大体、昔話なんてそんなもんだ」
ラズネリアはそれに小さく鼻を鳴らした。
「完全に外れてはおらん」
階段はまだ続く。
下へ、下へ。
気圧が変わるほどではないが、空気の重さが少しずつ増しているのをゼルヴォードは感じていた。
「当時、研究に関わっていた者は多かったのか?」
ゼルヴォードの問いに、ラズネリアは少し間を置いた。
「それなりにおった」
「研究者、術者、補助技師、記録係、護衛……形は様々じゃ」
「で、その大半が死んだ」
「死んだ者もおる。消えた者もおる」
声は静かだ。
静かすぎるくらいに。
「記録の上で、生き残ったのはわしだけじゃ」
ゼルヴォードは無意識に息を浅くした。
「唯一の生き残り、か」
「そう書かれておるのなら、そうなのじゃろう」
「他人事みたいに言うな」
「百年も経てば、大体のことは他人事めいてくる」
その返しは、ラズネリアらしかった。
けれど、それで軽くなるわけではなかった。
しばらく下ったところで、ゼルヴォードは改めて口を開く。
「どうしてお前だけ生き残った?」
ラズネリアの足音が、一段ぶんだけ遅れた。
「暴走の瞬間、わしは見てしもうたのじゃ」
「何をだ?」
「核じゃ」
短い答えだった。
「術式の中心に、核のようなものがあった。膨れ上がった魔力の塊の、さらに奥じゃ」
ラズネリアは前を向いたまま続ける。
「本来なら見えるはずのないものだった」
「いや、見えてはならんかったのかもしれん」
ゼルヴォードは黙って聞く。
「あれは少なくとも、この世界のものではなかった」
その言葉に、階段の空気がさらに冷えた気がした。
「この世界のものじゃない?」
「そうとしか思えなんだ」
「魔力の質も、在り方も、理の噛み合い方も違っておった」
ラズネリアはそこで、初めて少しだけ視線を落とした。
「わしはそれに干渉した」
「止めるためにか?」
「……どうじゃろうな」
珍しく、答えが曖昧だった。
「止めるつもりじゃったのかもしれぬ。切り離すつもりじゃったのかもしれぬ」
「あるいは、見てしもうた以上、触れずにいられなんだのかもしれん」
ゼルヴォードは眉を寄せる。
「随分と危うい言い方だな」
「若かったのでな」
「今も見た目は若いが」
「余計なお世話じゃっ」
そこでようやく、ほんの少しだけ空気が緩んだ。
だが次の言葉で、また重くなる。
「その結果、わしは死なんかった」
「代わりに、この有様よ」
ラズネリアは自分の小さな手を見るでもなく、ただ階段を下り続ける。
「若返ったのか、巻き戻ったのか、壊れたのか、作り替えられたのか……正直、今も分からぬ」
「ただ、あの時から身体は成長せず、老いもほとんど止まった」
「核に触れた影響か?」
「おそらくはな」
ゼルヴォードは短く息を吐いた。
「……よく生きてたもんだ」
「死んでおった方が、話は分かりやすかったかもしれん」
「そういうことをさらっと言うな」
「事実を言うただけじゃ」
ラズネリアの言葉に虚飾はない。
だからこそ、重い。
さらに階段を下る。
途中から壁の石材が変わり、刻まれている術式も密になってきた。ここから先は単なる通路ではなく、封印そのものの一部なのだと分かる。
「さっき、もう同じ実験をする気はないって言ってたな」
ゼルヴォードが言う。
「うむ」
「それだけのことがあったなら当然だが……それでも、ここへ来てる」
「来ねばならぬと思うたからの」
ラズネリアはようやく少しだけ振り返った。
「同じことを繰り返す気はない」
「あれは多くを呑みすぎた。死んだ者も、消えた者もおる。わし一人の好奇で触れてよいものではない」
その言葉には、はっきりとした線引きがあった。
「じゃが」
一拍置く。
「未完成のまま埋もれたものを、このまま残骸で終わらせるのも違う」
ゼルヴォードは視線を細める。
「それで俺か」
「うむ」
「買いかぶりじゃないのか?」
「どうかの」
ラズネリアはいつもの調子で言った。
「じゃが、少なくともおぬしは、壊れたものを壊れたまま見る男ではない」
「……大した評価だな」
「大したことをしたから言うておる」
ゼルヴォードは返す言葉に少しだけ詰まり、それから鼻を鳴らした。
「で、その“もう一つの器”ってのは結局なんだ?」
ラズネリアは前を向き直す。
「調律器じゃ」
「調律器?」
「魔力を受け、整え、術式として成立させるための器よ」
「武装の形を取っておるが、本質はそちらではない」
「武器じゃないのか?」
「武器でもある。じゃが、それだけではない」
少し考えるような間。
「おぬしの盾が護るためにあったとすれば、あれは受けるためにあった」
「外へ向けて振るうためではなく、内へ流れ込む力を捉えるための器じゃ」
「だから未完成のまま残された」
「そうじゃ」
ゼルヴォードは数段先を歩く小さな背を見る。
「その器は、今も動くのか?」
「分からぬ」
即答だった。
「百年じゃ。壊れておってもおかしくない。逆に、壊れ損ねておる方が厄介じゃがの」
「お前、俺を連れてくる時にそこまで考えてなかっただろ?」
「考えておったよ」
「信用ならんな」
「それはお互い様じゃ」
階段の終わりが、ようやく見え始めてきた。
長い下りの先に、青白い光の滲む空間がある。
冷たさはさらに強くなり、空気の奥に、長く眠っていた金属と魔力の匂いが混じっていた。
ラズネリアが足を止める。
「着いたの」
ゼルヴォードも、最後の数段を下りきって立ち止まった。
その先には、広い円形の封印室があった。
中央に何かがある。
まだ距離があって輪郭ははっきりしない。だが、武器のようでいて武器には見えない、異様な存在感だけは伝わってきた。
ゼルヴォードは目を細める。
「あれが……」
「うむ」
ラズネリアは静かに頷いた。
「未完成のまま置き去りになった、もう一つの器じゃ」
その声には、百年ぶんの時間が沈んでいた。




