第204話:学園で出会った、小さな賢者
ルナテスト王国王都グランベルグ――魔術学院。
ゼルヴォード・カレグスは、普段ならあまり縁のないその場所を、今日はフェルミナと並んで歩いていた。
鍛冶場の熱気とも、冒険者ギルドの喧騒とも違う。
整えられた石畳の道、規則正しく植えられた木々、行き交う生徒たちのローブ姿。空気の中には、鉄と煤ではなく、インクと羊皮紙の匂いが混じっている。
「なんだか、何度来ても落ち着かないですね」
隣を歩くフェルミナが、小さく肩をすくめた。
「通ってる側の台詞か、それ」
「通ってるのと、先生たちに進路の話をされるのとは別です」
むっとしたように言い返しながらも、その表情はどこか晴れていた。
つい先ほどまで行われていた面談は、ひとまず穏やかに終わったばかりだ。
フェルミナは学院内での成績は良い。基礎課題もきっちりこなすし、魔術理論の理解も早い。だが、本人は別に魔道士になりたいわけではない。学ぶのは嫌いではないが、それをそのまま将来に繋げるつもりも、まだないらしい。
料理の道に進みたい。
そう言ったフェルミナに、ゼルヴォードは特に反対しなかった。
自分で考えて進む道があるなら、それでいい。
誰かに決められた道より、自分で迷って選んだ道の方が、後になって悔いは残りにくい。
「ゼルさん、さっきの言葉、本気で言ってました?」
「どの言葉だ」
「自分で決めるならそれでいい、ってやつです」
「本気だ」
「普通、保護者ってもう少しこう、安定した道とか、役に立つ道とか言いません?」
「言ってほしかったのか」
「言ってほしいとは言ってません」
フェルミナは少しだけ唇を尖らせ、それからふっと笑った。
「でも、ありがとうございます」
その時だった。
「おや、まだいらしたんですね」
聞き覚えのある声に、ゼルヴォードは顔を上げた。
教師棟の方から歩いてきたのは、魔術学院の教師セリア・アルヴェイン。そしてその隣には、見慣れた顔のアステリア・ルーメンがいた。
「話が終わったところだ」
「そうでしたか。フェルミナさんも、お疲れさまでした」
セリアは柔らかく笑い、フェルミナを見る。
「今すぐ全部決めなくても大丈夫ですからね。基礎をきちんと積み上げていけば、それで十分です」
「はい」
素直に頷くフェルミナを見て、セリアは安心したように目を細めた。
そのやり取りを眺めながら、ゼルヴォードの意識は自然ともう一人へ向いた。
アステリアの隣に、小柄な少女がいる。
年の頃は十歳そこそこ。
淡い藤色の髪に、古い意匠を思わせる落ち着いた装い。華奢で幼い姿だが、その目だけが妙だった。
静かすぎる。
子供のものとは思えないほど、揺らぎがない。
ゼルヴォードがわずかに眉を寄せると、アステリアがその視線に気づいた。
「紹介しておこう」
いつもの余裕を崩してはいない。
だが、ほんのわずかにだけ、その声音に張りがあった。それだけでゼルヴォードは察する。隣の少女は、ただの知人ではない。
「こちらはラズネリア・メテオ・ノクサリス。私の師だ」
セリアの目がわずかに見開かれた。
「……え?」
フェルミナもきょとんとした顔で、アステリアと少女を見比べる。
ゼルヴォードは何も言わず、その名を頭の中で反芻した。
ラズネリア・メテオ・ノクサリス。
どこかで聞いたような気もする。気のせいかもしれない。魔導ギルドに妙な研究者がいた――そんな噂を、昔どこかで耳にしたことがあったか。だが曖昧すぎた。確かな記憶とは言えない。
「久しいの、アステリア」
「先生の方は相変わらずですね」
「変わるほど歳は取っておらん」
見た目に似合わぬ老いた口調。
それを聞いた瞬間、ゼルヴォードの中の警戒が一段深くなる。
何者だ。
子供の姿をしているのに、空気がまるで噛み合っていない。
その時、ラズネリアの視線がふと動いた。
フェルミナで止まる。
ただそれだけのことだった。
だが、その場の空気がわずかに変わったのを、ゼルヴォードは感じた。
ラズネリアは何も言わない。
ただ、じっとフェルミナを見ている。
見つめられたフェルミナは、最初こそ不思議そうに首を傾げていたが、やがて小さく瞬きをした。
「……あの、どうかしましたか?」
数拍の沈黙。
ラズネリアはすぐには答えず、フェルミナを見たままわずかに目を細めた。
「ほう」
感心したような、確かめるような、短い声だった。
セリアが怪訝そうにアステリアを見る。
アステリアもまた、ラズネリアの反応を見て、ほんの少しだけ表情を引き締めた。
「先生?」
「慌てるでない」
ラズネリアはそう言ってから、今度は一歩だけ近づいた。
「名は?」
「フェルミナ・カレグス、です」
「そうか」
短く頷き、さらに何かを確かめるように見つめる。
そして次の瞬間、その視線がゼルヴォードにも向いた。
ほんの一瞥。
だが、その目は相手の顔を見ただけのものではなかった。測るような、削ぐような、妙に鋭い目だった。
「……何だ」
低く問うと、ラズネリアは平然と答えた。
「別に。おぬしも妙じゃと思うただけじゃ」
「初対面の相手に言うことか、それは」
「初対面だからこそ、余計なものが見えぬ」
「便利な目だな」
「不便じゃよ。見たくもないものまで見える」
ゼルヴォードはわずかに眉をひそめた。
目の前にいるのは子供の姿をした少女だ。だが、その言葉も気配も、どうにも子供ではない。
「で、俺の何が妙だ」
「削ぎ落ちすぎておる」
「は?」
「戦う者の顔をしておるくせに、もう前には出ぬと決めた目じゃ。じゃが、捨てきれてもおらん」
その言葉に、ゼルヴォードの空気がわずかに冷えた。
「会ったばかりの相手を、ずいぶん勝手に決めつける」
「決めつけてはおらぬ。見えたものを言うただけじゃ」
「それを世間では勝手って言うんだ」
ラズネリアはそこでようやく、ほんの少しだけ口元を歪めた。
「気が強いの。嫌いではない」
「そりゃどうも」
アステリアが小さく息を吐く。
「先生。さすがに初対面でそこまで言うのは」
「選んでおるよ、これでも」
「そうは見えませんが」
セリアが困ったように苦笑し、フェルミナは二人を交互に見ていた。
「えっと……私は何か変ですか?」
その問いに、ラズネリアは今度こそ少しだけ間を置いた。
「変、という言い方は好かぬの」
静かな声だった。
「珍しい。見たことがない。知っておる理に収まりきらぬ。そういう意味なら、そうじゃ」
フェルミナは目を丸くする。
セリアも息を呑み、アステリアは黙ったままラズネリアを見た。
だがラズネリアは、それ以上は踏み込まなかった。
「案ずるほどのものではない。今すぐどうこうという話でもない」
「先生でも、断言できないのですね」
アステリアの問いに、ラズネリアはあっさり頷いた。
「うむ。分からぬ」
その答えは、かえって重かった。
「じゃが、分からぬことだけはよう分かる」
静かな声が、夕方の空気にすっと沈む。
フェルミナは少し不安そうにゼルヴォードを見上げた。
ゼルヴォードは短く息を吐き、その頭に軽く手を置く。
「気にするな」
「でも……」
「分からないものを、今ここで考えても仕方ない」
フェルミナはわずかに迷ってから、小さく頷いた。
ラズネリアはそのやり取りを見て、何も言わなかった。
ただ一瞬だけ、目を細める。
「今日はここまでじゃな」
そう言って、あまりにもあっさりと踵を返した。
「長居すると面倒が増える」
「相変わらずですね、先生」
「面倒は若い者に任せるに限る」
そう言い残し、小さな背が歩き出す。
誰もすぐには呼び止めなかった。
ただ一人、ゼルヴォードだけが、その去っていく姿を黙って見ていた。
名前だけは、どこかで聞いたことがあるような気がする。
だが今、目の前を歩いているあの少女と、曖昧な噂話の中の人物が、うまく結びつかない。
それでも一つだけ、はっきりしたことがあった。
あれはただの子供ではない。
そしてフェルミナを見た時のあの反応も、見過ごしていいものではなかった。
「ゼルさん?」
フェルミナの声に、ゼルヴォードは視線を戻す。
「帰るぞ」
「……はい」
頷くフェルミナの顔にも、どこか落ち着かない色が残っていた。
セリアは生徒を安心させるように微笑んでいたが、その目の奥にはわずかな緊張がある。アステリアに至っては、珍しく考え込んでいる様子だった。
魔術学院を吹き抜ける夕方の風は、静かで、少し冷たかった。
だがゼルヴォードには、その風とは別に、何か見えないものが動き始めたような気配が残っていた。




