第202話:返すはずだった短剣
モルヴァン商会の一件は、数日のうちに町の噂になった。
街外れの商会が摘発された。
裏倉庫から大量の武具と帳簿が出た。
出所を削られた装備や、再刻印された品まで見つかった。
用心棒にしていた荒くれもまとめて捕まり、逃げた者もいるらしい。
誰が最初に手をつけたのか、そのあたりは曖昧だった。
「警備兵が踏み込んだらしい」
「いや、その前に揉め事があったって話だぞ」
「ギルド筋が裏で動いてたんじゃないか?」
「かなり派手に壊れてたって聞いたが……」
噂は好き勝手に転がった。
だが、そのどれにもゼルヴォードの名は出てこない。
工房の朝は、そんな騒ぎなどどこか遠くのことみたいに、いつも通り始まっていた。
朝の片づけを終えたカリーナが帳面を閉じ、フィルミナは学園へ向かい、工房には金属と炭の匂いが静かに残っている。
ゼルヴォードは作業台の前で、いつものように槌を置いていた。
そこへ、控えめなノックが響いた。
珍しい、とゼルヴォードは思う。
この工房へ来る者は、もっと遠慮がないか、もっと商売人らしい叩き方をする。今の音は、そのどちらでもなかった。
「開いてる」
短く言うと、扉がそっと開く。
立っていたのは、ノクシエルだった。
夜に忍び込んだ時とも、商会の件を追っていた時とも少し違う顔をしていた。
まだ落ち着かない様子はある。だが、前みたいな張り詰め方は少し薄い。
「……来たのか」
「来るよ、そりゃ」
ノクシエルはぶっきらぼうに返したが、その視線は少し泳いでいた。
「返すもんがあるし」
言いながら入ってくる。
カリーナは工房の奥でそれに気づき、わずかに表情を和らげた。
「おはようございます、ノクシエルさん」
「……おはよう」
「ちゃんと正面から来たんですね」
「嫌味か?」
「半分くらいは」
淡々と返され、ノクシエルは小さく顔をしかめた。
だが、それに本気で噛みつく元気はないらしい。
ゼルヴォードは作業台の端へ視線をやった。
「座るか」
「立ったままでいい」
「そうか」
短いやり取りのあと、少しだけ沈黙が落ちる。
その沈黙を切ったのは、ノクシエルのほうだった。
「……モルヴァン商会、ちゃんと押さえられたらしいな」
「ああ」
ゼルヴォードは頷く。
「オルグ経由で少し話が入った。帳簿も、押さえた武具も十分だったらしい」
「そうか」
ノクシエルは息を吐いた。
あの日、半壊した裏倉庫に残ったもの。転がった武具。削られた印。再刻印の痕。帳簿。
それらがちゃんと“流れを歪めていた証拠”として残ったのなら、意味はあったのだと思える。
「……ああいうの、初めて見た」
ぽつりと落ちた言葉は、独り言みたいだった。
「武具を囲ってる鍛冶屋がいるとか、どこかの倉に上物が眠ってるとか、そういう話ばっかり追ってた。けど違った」
拳を握る。
「本当に腐ってたのは、流れの途中だった」
ゼルヴォードは何も言わない。
その沈黙に促されるみたいに、ノクシエルは続けた。
「必要なやつに届く前に、削られて、塗り潰されて、値札だけつけ直される。ああいうのを見たら……もう前みたいには戻れない」
カリーナが静かに視線を上げる。
「では、義賊はやめるのですか?」
あまりにもまっすぐな問いだった。
ノクシエルは一瞬だけ口を閉ざし、それから、はっきりと答えた。
「やめる」
その言葉に、工房の空気がわずかに静まる。
「盗んで動かすのは、もう違う。少なくとも、今の私はそう思う」
「そうですか」
カリーナの返事は穏やかだった。
褒めるでもなく、驚くでもない。ただ、ひとつの結論として受け取っている。
ノクシエルは少しだけ居心地悪そうに視線を逸らした。
「……でも、何するかまではまだ決めてない」
その言葉に、カリーナがわずかに首を傾ける。
「決めていない、というのは?」
「義賊はやめる。けど、じゃあ急にまともな顔して店番でもするかって言われたら無理だし、どこかの商会に入るのも性に合わない。冒険者に戻るつもりもない」
「なるほど」
「笑うなよ」
「笑っていません」
実際、笑ってはいなかった。
ただ少しだけ、何かを考えている顔だった。
やがてカリーナは、研究の報告をまとめるような口調で言った。
「ノクシエルさんには、流れの歪みに気づく力があります」
「……は?」
「隠されたものや、不自然にぼかされたものに敏い。あまり褒められた経歴の中で育った力ではないかもしれませんが、それ自体は才能です」
ノクシエルは眉を寄せる。
「褒めてるのか貶してるのかどっちだよ」
「半分ずつです」
即答だった。
カリーナは続ける。
「冒険者ギルドでは、押収品や回収品、遺失武具の仕分けに手が足りないことがあります。特に今回のような件のあとなら、なおさらです」
ノクシエルは少しだけ目を細めた。
「……仕分け?」
「正式な職員でなくても、外部の協力者として手伝う形なら可能かもしれません」
カリーナの声音はあくまで冷静だ。
「武具の扱いがわかっていて、しかも“何が不自然か”に気づける人は貴重です」
そこでノクシエルは、ようやく提案の意味を理解した。
「それって……盗るんじゃなくて、戻す側に回れってことか」
「はい」
カリーナは頷く。
「盗みに使えば、そのうち死にます。でも、確認や仕分けに使うなら、多くの人を助けられるかもしれません」
工房が静かになる。
ノクシエルはすぐには返事をしなかった。
すんなり頷きたくない気持ちはある。だが、内容そのものは不思議なくらい腹に落ちた。
流れを見張る。
歪んだものを見つける。
それなら、自分がこれまで無駄にしてきた目や勘も、少しはまともに使えるのかもしれない。
「……いきなりギルドの犬になるつもりはない」
「それで構いません」
「外部協力とか、臨時とか、そのくらいなら」
「そのくらいで十分でしょう」
カリーナは当然のように言った。
ノクシエルは頬を掻く。
「なんか、最初からそれを用意してたみたいな言い方だな」
「考えてはいました」
「やっぱりかよ」
思わず漏れた文句に、カリーナは少しだけ目を和らげた。
「死なずに済む方向は、考えます」
その一言だけで、ノクシエルはもうあまり強く返せなくなる。
「……ありがとよ」
ぶっきらぼうな礼だった。
だが、それで十分だった。
そこでようやく、ノクシエルは本題を思い出したように腰へ手をやる。
ヴェルノアだ。
鞘ごと外し、少しだけ迷ったあと、ゼルヴォードの前へ差し出す。
言葉はない。
けれど意味は明白だった。
借り物を返しに来た。
ゼルヴォードはその短剣を一瞥して、受け取らなかった。
「返さなくていい」
ノクシエルが顔を上げる。
「……は?」
「お前にやる」
あまりにもあっさりしていた。
ノクシエルは眉を寄せる。
「いらない、じゃなくて、受け取れない」
「なぜだ」
「なぜって……」
言葉に詰まる。
理由はいくらでもあった。
借り物だから。高そうだから。自分には過ぎた品だから。
でも一番大きいのは、そんなものをもらう理由が自分にない、ということだった。
「私は別に、何か成したわけじゃない」
ノクシエルは低く言う。
「噂に踊らされて、お前の工房に忍び込んで、結局は見当違いしてただけだ。そんなやつが、これを受け取る理由なんかないだろ」
工房に、わずかな沈黙が落ちる。
ゼルヴォードは腕を組んだまま、少しだけ考えるように目を細めた。
「あるだろう」
「ない」
「ある」
「だから、どこに――」
「今のお前には必要だ」
きっぱりと言い切られて、ノクシエルは言葉を失う。
ゼルヴォードは淡々と続けた。
「また余計なものを見る気なんだろう」
「……」
「流れの歪みだの、不自然な武具だの、そういうものを追うなら、せめて死ににくくしておけ」
ノクシエルはヴェルノアを見る。
黒鉄めいた刀身。
静かで、何も語らない短剣。
けれどあの日、この短剣が自分を死なせなかったのは事実だった。
「でも、これは……」
「必要ない相手に渡すつもりはない」
ゼルヴォードの声は低い。
「必要だから持っていけ」
それ以上の飾りはなかった。
褒美でもなければ、餞別でもない。弟子の証でもなければ、情けでもない。
ただ、“必要だから”だった。
ノクシエルはしばらく何も言えなかった。
カリーナが横から静かに口を挟む。
「返されても、たぶんゼルヴォードさんは棚にしまうだけですよ」
「おい」
「事実では?」
ゼルヴォードは否定しなかった。
ノクシエルは思わず力が抜けそうになる。
「……そういう言い方されると、余計に受け取りづらいんだけど」
「では、こう言い換えます」
カリーナは本当に少しだけ考えてから続けた。
「死なれると後味が悪いので、持っていてください」
「もっと受け取りづらいわ!」
反射的に言い返してしまい、カリーナの口元がわずかに緩んだ。
ゼルヴォードは小さく息を吐く。
「好きに解釈しろ。だが置いていくなら受け取らん」
完全に逃げ道を塞がれた。
ノクシエルはヴェルノアを見下ろし、やがて観念したように腰へ戻した。
「……預かりだからな」
「好きに言え」
「返せって言われたら返す」
「言わん」
「絶対だぞ」
「面倒だ」
その答えは、どこかゼルヴォードらしかった。
ノクシエルは小さく息を吐き、工房の空気を見回す。
朝に引っ張り込まれた食卓。
カリーナの静かな視線。
フィルミナのいない昼の工房。
最初は場違いにしか感じなかったこの場所が、今は少しだけ違って見えた。
「……じゃあ、そろそろ行く」
「もうですか?」
カリーナが問う。
「あんまり長居すると、何か落ち着かない」
「そういうものかもしれませんね」
ノクシエルは扉のほうへ向かい、そこで一度だけ足を止めた。
「外部協力の話」
「ああ」
「少し考えてからでいいなら、考える」
「急がなくて大丈夫です」
カリーナは頷く。
「ただ、考えるなら“盗むより先に”にしてください」
「……わかってる」
今度の返事は、前より少しだけ真面目だった。
扉へ手をかけてから、ノクシエルは振り返る。
ゼルヴォードはもう作業台へ戻りかけていた。
まるで話は終わったと言わんばかりだ。
「ゼルヴォード」
「なんだ」
「……ありがとよ」
ほんの少しだけ間があってから、ゼルヴォードは振り返らずに答えた。
「ああ」
それだけだった。
でも、その短さが妙にこの男らしい。
工房を出ると、昼の光が通りに落ちていた。
ノクシエルは無意識に腰のヴェルノアへ触れる。
静かだ。重すぎず、軽すぎず、そこにあるのが自然みたいな顔をしている。
義賊はやめる。
その先をどうするかは、まだ途中だ。
けれど、少なくとも昨夜までみたいに、疑って盗んで終わる道には戻らない。
流れの歪みを見る。
隠されたものを暴く。
必要なものが必要な場所へ届くようにする。
それが仕事になるのか、役目になるのか、まだわからない。
それでも、たぶん前よりは少しだけ、向かう先は見えていた。
ノクシエル・ヴァーディスは、もう一度だけ工房を振り返る。
そして今度は、夜の影ではなく、昼の通りをまっすぐ歩き出した。
その背に揺れる短剣は、もう借り物の顔をしていなかった。




