表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
204/221

第198話:朝食の席と、盗人の理屈

 朝になっても、ノクシエル・ヴァーディスはまだ信じきれていなかった。


 昨夜、自分は盗みに入った。

 見たこともない黒い番人に退路を断たれ、家主であるゼルヴォードにあっさり捕まった。


 普通なら、縛られて衛兵に突き出される。

 百歩譲っても、椅子に座らされて問い詰められるくらいだ。


 なのに今、自分は――


「ほら、来い」


 ぶっきらぼうなゼルヴォードの声に促され、工房から住居側へ通されていた。


「……どこへ?」


「朝食だ」


「は?」


「腹が減ってると話にならん」


 意味がわからない。


 昨夜のうちに逃げようにも、あの黒狼が消えず、結局一睡もろくにできなかった。

 逃走の機会を窺っていたはずなのに、夜が明けた途端、ゼルヴォードは何でもない顔で「飯だ」と言ったのだ。


 通された居間は、工房の無骨さとは違って、きちんと人の暮らしの匂いがした。


 大きすぎない食卓。

 整えられた椅子。

 棚の上には簡素な食器と、手入れの行き届いた布。

 窓からは朝の光が差し込み、昨夜の闇が嘘のようだった。


 そして、台所の方からぱたぱたと軽い足音が聞こえる。


「あ、ゼルさん、おはようございます!」


 明るい声と一緒に現れた少女が、ノクシエルを見て目を丸くした。


「……あれ? お客さん?」


 ゼルヴォードは平然と答える。


「そんなところだ」


「そんなところって……」


 ノクシエルは思わず眉をひそめたが、少女は気にした様子もなく、むしろ少し嬉しそうに笑った。


「ちょうどよかったです。今日、少し多めに作っちゃったんです」


 卓上に並び始めたのは、焼きたての平パン、湯気の立つ野菜のスープ、刻んだ香草の入った卵料理、薄く焼いた干し肉と温野菜だった。


 豪華ではない。

 けれど、温かくて、妙に丁寧だった。


「……いや、ちょっと待て」


「なんだ」


「なんで本当に食わせる流れなんだよ」


 ゼルヴォードは椅子を引きながら、さも当然のように言う。


「だからさっき言っただろう。腹が減ってると話にならん」


「そういう問題じゃないだろ。私は――」


 盗人だ、と言いかけて、ノクシエルは口を閉ざした。

 少女の前でそれを言うのも妙だった。


 だが、ゼルヴォードは気にする様子もなく席についた。


「座れ」


「命令するな」


「立ったまま見てても減るだけだ」


「減るだけって……」


 少女はにこにこと食器を並べながら、ノクシエルに向き直った。


「はじめまして。私はフィルミナ・カレグスです」


 ぺこりと頭を下げる。

 つられて、ノクシエルも反射的に頭を下げ返してしまった。


「……ノクシエル」


「ノクシエルさんですね!」


「さん付けしなくていい」


「でも、お客さんですし」


「客じゃない」


「……? でも朝ごはん一緒に食べるんですよね?」


 まっすぐな目で言われて、ノクシエルは言葉に詰まった。


 ゼルヴォードが無言でスープの器を前へ押してきた。

 ノクシエルはじろりと睨む。


「……毒は」


「入ってない」


「そういうの、入れてる側が言う台詞だろ」


「入れる必要がない」


 それはそうだった。

 昨夜の時点で、逃げる余地などいくらでも潰せたのだから。


 ノクシエルはしぶしぶ椅子に座る。


 香草の匂いがふわりと立った。

 温かな湯気が鼻先をくすぐる。思っていた以上に、自分の腹が空いていたことに気づく。


「いただきます!」


 フィルミナが元気よく言って、食卓の空気がふっと緩んだ。


 ノクシエルは少し遅れて、無言のままスープへ手を伸ばす。

 一口飲んだ瞬間、思わず目を瞬かせた。


「……うまい」


「ほんとですか?」


 フィルミナの顔がぱっと明るくなる。


「よかったぁ。今日は塩加減、ちょっと不安だったんです」


「いや、十分だろ」


「ゼルさん、ほんとですか?」


「ああ」


 それだけだった。

 けれど、フィルミナは満足そうに笑う。


 そこで、奥の方から控えめな足音が近づいてきた。


「……おはようございます」


 眠気を少し残した声で現れたのは、落ち着いた雰囲気の若い女性だった。

 長い髪を軽くまとめ、まだ完全には目が覚めきっていないらしい表情で食卓を見て――ノクシエルの姿に、ぴたりと止まる。


「……お客様、ですか?」


 ゼルヴォードが短く言う。


「訳ありだ」


「……そうですか」


 女性は一拍だけ置いてから、それ以上は聞かなかった。


「カリーナ・ヴェルデンです」


「……ノクシエル」


「ノクシエルさん、ですね」


 また“さん”付けだった。

 この家はそういう空気なのかもしれない。


 朝食は、妙に穏やかに進んだ。


 フィルミナが学園の話をする。

 昨日の授業のこと、今日の課題のこと、先生が少し怖いだの、でも嫌いではないだの、そういう他愛のない話だ。ゼルヴォードは必要最低限だけ相槌を打ち、カリーナは時折合いの手を入れる。


 ノクシエルは黙っていた。

 黙っているしかなかった。


 昨夜、自分が踏み込んだのは、この食卓のある家だったのだと、今さら実感する。工房だけではない。寝台があり、朝があり、食事があり、家族のような会話がある場所だ。


 そんな場所へ、自分は盗みに入った。


 それが急に、想像していたよりずっと具合の悪いことに思えた。


「ノクシエルさんは、どこから来たんですか?」


 不意にフィルミナに聞かれ、ノクシエルは手を止めた。


「え」


「旅の人ですよね?」


 無邪気な問いだった。

 けれど、答えを誤れば面倒になる。


「……あちこちだ」


「わあ、旅人さんなんですね」


 雑な答えなのに納得した。

 助かるような、助からないような反応だ。


 カリーナが湯を口に含みながら、ちらりとだけノクシエルを見る。

 たぶん、何かを誤魔化したことくらいは察している。


 やがて食事が終わる。


 フィルミナは立ち上がると、ぱたぱたと支度を整え始めた。


「それじゃあ、行ってきます!」


「ああ、気をつけろ」


「はい! カリーナさんも、いってきます!」


「いってらっしゃい」


 そしてフィルミナは、去り際にノクシエルへ向き直って小さく笑った。


「ノクシエルさんも、またあとで」


 まるで本当に、ただの客にでも言うみたいに。


 返事をする前に、少女は軽やかに家を出ていった。

 扉が閉まり、朝の賑やかさがひとつ遠のく。


 食卓に少しだけ静けさが落ちる。


 その空気を読んだように、カリーナが立ち上がった。


「食器は私が洗っておきますね」


「……ああ」


 ゼルヴォードが頷く。

 カリーナは皿を重ねて台所へ向かった。


 水の音が聞こえ始める。


 ノクシエルはそれを聞きながら、ようやく椅子に座り直した。

 向かいに座るゼルヴォードの目が、静かにこちらを見ている。


「さて」


 短い一言で、空気が切り替わる。


「朝飯は食った。今度こそ話してもらうぞ」


 ノクシエルは無意識に背筋を伸ばした。


「お前は何を探しに来た。誰から、どんな話を聞いた」


 怒鳴りはしない。

 だが、その静けさのほうが誤魔化しを許さない。


 ノクシエルはしばし黙り込み、やがて観念したように息を吐いた。


「……囲われた武具だよ」


 ゼルヴォードの目がわずかに細まる。


「詳しく話せ」


「使われもせず眠ってる武器や防具、魔道具を抱え込む連中がいる。貴族とか、商会とか、裏の連中とか……そういうやつらがな」


「それを盗むのか」


「必要なやつの手に渡すために、だ」


 言い切ると、少しだけ喉が熱くなる。

 馬鹿げていると笑われる覚悟はしていた。


 だがゼルヴォードは笑わなかった。


「それで、俺の工房にも同じものがあると思ったのか」


「噂を聞いた」


「どんな噂だ?」


「表には流れない武具があるってな。依頼書にも載らない品が消える、必要な相手にしか渡らない武器がある、って」


 そこで台所から、水音を止める気配がした。


 カリーナが皿を拭く手を止めたまま、静かに口を開く。


「……なるほど。だから夜に忍び込んだんですね」


 ノクシエルは少しだけ肩を強張らせた。


 カリーナは台所から離れず、けれど会話から外れもしない距離で続ける。


「確認ですが、あなたは自分のしていることが盗みだと理解した上で、それでも必要だと思って動いている。そういうことですか?」


「……ああ」


「では、たぶん本気なのでしょうね」


 責めるでもなく、淡々とした言い方だった。

 そのぶん、妙に逃げ場がない。


 ゼルヴォードが腕を組む。


「必要な相手に武器が渡るべきだ、という考え自体は間違っちゃいない」


 ノクシエルは顔を上げた。

 否定から入らなかったのが意外だった。


「だがな」


 低く続いた声は、そこで一段重くなる。


「武器があれば助けられる、そう思うなら甘い」


 ノクシエルの眉が寄る。


「甘い、だと?」


「いい武器、いい防具、いい魔道具。たしかにあれば生き残る確率は上がる。だが、それで必ず助かるわけじゃない」


「それは――」


「助ける側の判断が遅ければ間に合わん。使う側が未熟なら意味がない。状況が崩れきっていれば、何を持っていようと届かないこともある」


 ノクシエルは言い返しかけて、詰まった。


 ゼルヴォードは感情を荒らげない。

 だが、その言葉には机上の理屈ではない重さがあった。


「……でも、何もないよりはいい」


「ああ。そいつはその通りだ」


 ゼルヴォードは即座に肯定した。


「だから作る側は手を抜けん。渡す先も見なきゃならん。必要な場所へ届く努力もいる。だが――それでも、助けられないときはある」


 短い沈黙が落ちる。


 その沈黙を埋めるように、カリーナが今度は少しだけ強い声で言った。


「ノクシエルさん」


 ノクシエルがそちらを見る。

 カリーナは食器を置き、まっすぐ彼女を見ていた。


「今回は、まだよかったのかもしれません」


「……どういう意味だ」


「少なくとも、あなたが忍び込んだ相手はゼルヴォードさんでした。もし本当に裏の商会や、もっと質の悪い相手の倉に入っていたら、昨夜のうちに死んでいてもおかしくありません」


 ノクシエルは唇を引き結ぶ。


「脅してるのか」


「忠告です」


 静かな声だった。

 けれど、その言葉は冷たいほど現実的だった。


「正義感があるのはわかります。でも、そのやり方を続ければ、そのうち命を落とします」


 返す言葉がない。

 ノクシエル自身、頭では何度も考えていたことだったからだ。


 それでもやめなかった。

 やめられなかった。


「……だったら、どうしろって言うんだよ」


 ようやく出た声は、少しだけ掠れていた。


「目の前で、必要なものが届かないまま潰れてくやつがいるのに。使われもしない武具が倉で眠ってるのに。見て見ぬふりしろってのか」


 ゼルヴォードはその言葉を黙って聞いたあと、ゆっくりと答えた。


「見て見ぬふりをしろとは言わん」


 ノクシエルの目が揺れる。


「だが、独りで盗んで回るのが答えだとも思わん」


「……っ」


「お前が助けたいのが武具そのものなのか、人なのか。まずそこを履き違えるな」


 その一言は、ノクシエルの胸にまっすぐ刺さった。


 武具を動かしたいわけじゃない。

 救われるはずのものが、救われないまま終わるのが嫌なのだ。


 けれど、そのために自分が選んでいる手段が、本当に最善なのかまでは――まだ言い切れない。


 カリーナが小さく息をついて、少しだけ声音を和らげる。


「考えが間違っているとは、私も思いません。でも、やり方は間違えています」


 ノクシエルは俯いた。


「……そう簡単に、別のやり方なんて見つからない」


「なら、見つけるところからです」


 カリーナの返答は静かだった。

 だが突き放してはいない。


 ゼルヴォードはそのやり取りを見てから、椅子に深くもたれた。


「ひとまず、お前の事情はわかった」


「……それで?」


「それで、だ」


 ゼルヴォードの目に、わずかに職人めいた色が差す。


「噂を流したやつと、お前が追ってる囲い込みの話。少し掘る必要がある」


 ノクシエルが顔を上げる。


「は?」


「根も葉もない噂なら、それで終わりだ。だが、お前みたいなのがわざわざ忍び込む程度には広まってるなら、誰かが意図して流してる可能性がある」


 カリーナの目つきも変わった。


「……確かに。ゼルヴォードさんの工房を標的にさせる意味があるのなら、ただの与太話では済まないかもしれませんね」


 ノクシエルは戸惑いながら二人を見た。


「待て。なんでそうなる」


「お前の話が本当なら、だ」


 ゼルヴォードは淡々と言う。


「問題は、お前が盗みに入ったことだけじゃない。誰が何のために、うちに妙な噂をつけたのかって話にもなる」


 食卓の空気が、また少し変わる。


 ただの説教では終わらない。

 ノクシエルはようやく、昨夜自分が踏み込んだ先が、単なる鍛冶屋の家ではないのだと改めて理解した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ