第197話:夜の工房に潜む影
ルナエストの夜は、昼間の喧騒が嘘のように静かだ。
石畳の通りを照らす街灯はところどころにあるだけで、一区画外れれば、あとは月明かりと建物の影が支配する世界になる。
鍛冶屋が並ぶ通りはなおさらだった。
昼は鉄を打つ音と熱気に満ちていても、夜になれば炉は落ち、扉は閉ざされ、人の気配も薄れる。
だがその静けさの中に、ひとつだけ、息を潜めている影があった。
黒い外套をまとった小柄な人影が、路地の闇からそっと顔を出す。
「……ここか」
低く呟いた声は若い。
男とも女ともつきにくいが、身のこなしは軽い。躊躇なく壁際へ寄り、視線を巡らせる。
目当ては、ゼルヴォードの工房だった。
表向きは、少し腕の立つ鍛冶師の店。
冒険者ギルドとも付き合いがあり、鍛冶屋ギルドの覚えも悪くない。住み込みの助手もいて、娘同然の子どもがいる――そんな、町の一角に馴染んだ工房でしかない。
だが、夜の市場裏、酒場の隅、荷運びたちの与太話には、ときおり妙な噂が混じる。
曰く――
あの工房では、表には絶対に流れない武具が作られている。
曰く――
依頼書にも載らない特別な品が、どこかへ消えていく。
曰く――
金や地位ではなく、“必要な相手”だけに渡される武器がある。
確かな話ではない。
誰が見たでもなく、誰が証明したでもない。
ただ、そういう噂は妙に消えず、薄く広がっていくものだ。
人影は工房の屋根近くを見上げ、小さく息を吐いた。
「……本当にあるなら、放ってはおけない」
狙いは私利私欲ではない。
少なくとも本人は、そう信じている。
力ある武具が正しい手を離れ、貴族や裏組織や、金だけを持つ連中の倉に眠るのなら、それは災いだ。必要としている者に回るべきだ。使われずに囲われるくらいなら、奪ってでも引きずり出すべきだ。
ずいぶんと勝手な理屈だが、本人にとっては筋が通っていた。
腰の小道具袋から細い金具を取り出し、勝手口の鍵へ差し込む。
音はほとんどない。
かち、と小さく内側の機構が外れた。
「……あっさり」
警戒しすぎだったか。
そう思いながら、そっと扉を押し開ける。
冷えた空気が流れてきた。
工房の中は暗い。炉には火がなく、鉄の匂いと、油と木と革の匂いがわずかに残っている。壁際に道具棚、作業台、奥には素材棚。さらにその向こうに住居部分へ続く戸が見えた。
侵入者は扉を閉め、ゆっくりと目を慣らす。
「金目のものは多そうだな……」
剣、槍、鎚、鎧の部材。
完成品ばかりではないが、素材だけでもかなりの価値がありそうだった。
だが、目当てはそこではない。
噂になっている“流れない品”――もし本当にあるなら、それは表には出さない場所にあるはずだ。
足音を殺し、作業台に近づく。
手袋越しに、刻印の入った小箱を持ち上げる。中は空。別の引き出しを探る。留め具、研磨材、設計図の切れ端、帳面。
帳面を開きかけて、侵入者は眉を寄せた。
「……依頼履歴? 普通だな」
いや、普通すぎる。
噂に聞くような異質さが見当たらない。
もう少し奥か。
あるいは地下か、隠し棚か。そう考えた、そのときだった。
――ぞわり。
背筋を、説明のつかない悪寒が撫でた。
侵入者はぴたりと手を止める。
「……なんだ?」
何かがいる。
そう感じた。
だが、気配と呼ぶには曖昧だった。呼吸音も、足音も、衣擦れひとつない。誰かが背後に立ったわけでもないのに、肌の上を冷たいものが這っていく。
ゆっくりと振り向く。
誰もいない。
暗い工房があるだけだ。
窓から差し込む月明かりが床を細く照らし、棚や工具の影を長く引き延ばしている。
「……気のせい、じゃないな」
思わず声が掠れる。
腰の短剣に手をかけた。
戦うためではない。最悪、窓を割ってでも逃げるための備えだった。
その瞬間――床に落ちた影が、揺れた。
「――ッ」
月光の届かない暗がりが、音もなく蠢く。
棚の陰。
炉の奥。
作業台の下。
工房のそこかしこに沈んでいた“夜”そのものが、ひとつの場所へ集まってくるかのようだった。
黒だった。
ただの黒ではない。
光を吸い込むような、底のない闇色。
それがゆっくりと輪郭を持ち、四足の獣の形を取って立ち上がる。
狼――そう見えた。
肩は大人の胸ほどまである。巨大というほどではない。だが、そこに立っただけで空気が重くなる。しなやかな四肢、低く構えた体勢、獣じみた鋭さ。けれど、毛並みのように見えるものは本当に毛なのかもわからなかった。形を成しているのは毛皮ではなく、揺れる闇そのもののようにも見える。
目だけが、薄い金色に灯っていた。
侵入者は息を呑む。
「……なんだよ、それ……」
魔物なのか。
召喚された何かなのか。
あるいは、そういう括りで考えていいものなのか。
わからない。
判断できるほどの知識も、今の侵入者にはなかった。
ただ、まともな存在ではないことだけは、本能でわかった。
黒狼は唸り声ひとつ上げなかった。
牙を剥くこともない。
それなのに、飛びかかられるより先に脚がすくみそうになる。
一歩、前に出る。
音がしない。
爪が床を叩く気配すらなかった。
侵入者は反射的に後退し、窓際へ走った。短剣の柄で硝子を叩き割る――はずだった。
だが。
「なっ……!?」
窓に触れた瞬間、見えない壁に弾かれたように手が止まる。
硝子の外側に、薄い黒の紋様が一瞬だけ浮かび、すぐに消えた。
侵入者の喉が引きつる。
閉じ込められた。
慌てて勝手口へ駆ける。扉を引く。押す。びくともしない。
さっき自分で開けたはずの出入口が、まるで最初から存在しなかったかのように沈黙していた。
「ふざけるなよ……鍛冶屋の工房だろ……!?」
答えるものはいない。
黒狼は急がない。
逃げ道がすべて塞がれていると知っているかのように、静かに、一定の歩幅で迫ってくる。
「来るな……!」
短剣を抜く。
黒狼の金色の目が、わずかに細められたように見えた。
次の瞬間、闇が揺れる。
侵入者は咄嗟に身をひねった。
黒狼の前脚が、短剣を持つ手首のすぐ手前を薙ぐ。触れられていない。だが衝撃だけで短剣が弾き飛ばされ、甲高い音を立てて床を滑った。
「っ、うぁ……!?」
息が詰まる。
強い。
それも、こちらを傷つけるためではなく、完全に力の差をわからせるための一撃だった。
侵入者は呼吸を乱しながら後ずさる。
背中が棚にぶつかった。逃げ場がない。
黒狼が真正面で止まる。
近くで見るほど、その姿は曖昧だった。狼の形をしているのに、確かな肉体があるようには見えない。かといって幻とも思えない。そこにいる。確かにいる。なのに、輪郭の端は闇へ溶け、実体と影の境目が判然としなかった。
金色の目だけが、じっとこちらを見ている。
「……食う気、はないんだな」
震える声でそう言ってみる。
もちろん返事はない。
だが黒狼は飛びかかってもこない。ただ退路を塞ぐ位置に立ち続け、逃がさないことだけを徹底していた。
侵入者がじり、と右へ動けば、黒狼も滑るように位置をずらす。
左へ寄っても同じ。
一歩踏み出せば、その瞬間だけ目の前の闇が濃くなる。
「…………」
だめだ。
勝てない。
逃げられない。
そして何より、相手の正体が最後までわからない。
その得体の知れなさが、余計に恐ろしかった。
侵入者はついに観念し、ゆっくりと両手を上げた。
「降参だよ……」
その言葉に反応したかのように、黒狼の圧がほんの少しだけ薄れる。
それでも消えはしない。
工房の奥から、かすかな物音がした。
戸が開く音。
人の足音。重くも軽くもない、一定の歩み。
侵入者は息を呑む。
現れたのは、寝起きとは思えないほど静かな顔をした男だった。
無造作な髪。
夜着の上に羽織っただけの格好だが、それでも体格の大きさと、立っているだけでわかる圧がある。
眠気より先に、状況を一目で把握した目だった。
ゼルヴォード・カレグス。
黒狼は音もなくその傍らへ下がる。
まるで最初から、そこが定位置だったかのように。
ゼルヴォードは、工房の散らかり具合と侵入者、床に転がった短剣を順に見て、ひとつ息を吐いた。
「……なんだ。盗人か」
その声音には怒鳴りも驚きもない。
ただ、少しだけ面倒そうな響きがあった。
侵入者は黒狼とゼルヴォードを交互に見た。
「“なんだ”で済ませるのかよ……」
「済ませはしない」
ゼルヴォードは淡々と答える。
「だが、お前がまだ五体満足で立ってるなら、そいつが加減したってことだ」
そいつ、と呼ばれた黒狼は、金色の目を静かに細めた。
侵入者は喉を鳴らす。
「……番犬にしては、趣味が悪いな」
「犬じゃない。工房の夜警だ」
「鍛冶屋が持つ夜警じゃないだろ、どう見ても……」
もっともな言い分だった。
ゼルヴォード自身も、否定はしなかった。
「で、何を探しに来た」
単刀直入な問いに、侵入者は一瞬だけ口を閉ざした。
だが、ここで黙ってもどうにもならないと悟る。
「……武具だ」
「見ればわかる。この工房には山ほどある」
「そういう意味じゃない」
侵入者はまっすぐゼルヴォードを見る。
「表には出ない武具だよ。特別な相手にしか渡らない、一般には流れない品だ」
ゼルヴォードは、ほんのわずかに眉を動かした。
だが、それだけだった。
「根も葉もない噂だな」
「皆そう言う」
「事実、そうだ」
あまりにも迷いなく返されて、侵入者は逆に目を細める。
嘘をついている顔には見えない。
だが、噂が完全に空というにも、妙な確信がある。
「……じゃあ、あんたはただの鍛冶屋か?」
「今はな」
「“今は”?」
「質問してるのはこっちだ」
低く落ちた声に、侵入者は肩を強張らせた。
ゼルヴォードは一歩だけ近づく。
たったそれだけで、工房の空気が変わる。黒狼とは違う、生身の人間の圧。それなのに、こちらのほうがよほど怖かった。
「盗みに入った理由を話せ。くだらない金欲しさなら、朝まで縛って衛兵に渡す。そうじゃないなら、内容次第で聞くだけは聞く」
侵入者は唇を噛む。
逃げられない。
誤魔化せない。
ならば、言うしかない。
「……囲われた武具を奪いに来た」
「誰に囲われてる」
「貴族、商会、裏の連中……力だけ持って、使いもしないくせに抱え込むやつらだ」
「ここにそれがあると?」
「噂を聞いた」
「それで忍び込んだのか」
「必要な人間に回すためだ」
ゼルヴォードはしばし黙った。
それから、床に落ちた短剣へ視線をやり、再び侵入者を見る。
「義賊気取りか」
「気取りじゃない」
「だとしても、盗みは盗みだ」
「……わかってる」
侵入者は吐き捨てるように言ったあと、悔しげに目を伏せた。
「でも、放っておけないんだよ」
その一言だけは、虚勢ではなかった。
工房の夜気が、少しだけ静まる。
ゼルヴォードは侵入者を見つめ、やがて黒狼へ一瞥を送った。
黒狼はなおも黙したまま、闇のようにそこにいる。
「……ひとまず、縛るのは後だな」
「は?」
「話の続きは朝にする」
「朝?」
「娘が起きる前に騒ぎを広げたくない」
ゼルヴォードはそう言って、面倒事を見る職人の顔で額を押さえた。
「それと、勝手に人の工房へ入っておいて何だが、床に工具を散らかすな。危ない」
「そこ!?」
思わず声を上げた侵入者に、ゼルヴォードは無表情のまま返す。
「足を切る。こっちは慣れてるが、お前は慣れてないだろう」
あまりに真顔だった。
侵入者は数秒固まり、やがて、こんな状況なのに少しだけ気勢を削がれる。
「……なんなんだ、あんた」
「鍛冶屋だ」
「絶対それだけじゃないだろ……」
ぼそりと漏らした言葉に、ゼルヴォードは答えなかった。
ただ、黒狼が再び侵入者の退路を塞ぐ位置へ滑るように移動する。
今夜は逃がさないという無言の宣告だった。
そして侵入者は、ようやく理解する。
この家に忍び込んだのは失敗だった。
噂が本当かどうかはまだわからない。
だが少なくとも、この工房がただの鍛冶屋の家ではないことだけは、骨身に染みてわかった。
夜の闇の中、漆黒の狼は一言も発さない。
けれどその金色の目は、次の朝まで、侵入者から一度も逸れることはなかった。




