第195話:零れ落ちた命の先で
炉の火を見つめていると、昔のことを思い出す時がある。
壊滅寸前の岩場。
血の臭い。
繋ぎ止めた命と、零れ落ちた命。
あれからどれほど時が過ぎたのか、もう数える気にもならない。
助けた四人がその後どう生きたのかも、ゼルヴォードは知らない。
噂を追ったこともない。再会したこともない。
ただ、ラウスディアからの手紙で、あいつらが生きているらしいと知った時だけは、少しだけ肩の力が抜けた。
それだけだ。
それ以上は聞かなかった。
聞けば気になる。
気になれば、過去に手を伸ばしたくなる。
だが、過去は過去だ。
助けられた命もある。
助けられなかった命もある。
それを抱えたまま前へ進むしかないことを、ゼルヴォードはもう知っている。
それでも、忘れたことはない。
戦場で生き残った者の目。
礼を言われた時の居心地の悪さ。
あと少し届かなかった命の重さ。
それら全部が、自分の中に残っている。
赤く熾る炉の中で、鋼がゆっくりと色を変えていく。
昔の自分なら、剣の重みを確かめていた。
今の自分は、火の具合と金属の鳴りを聞いている。
変わったものもある。
変わらなかったものもある。
誰かが生き延びるために、自分にできることをする。
結局は、それだけなのだろう。
ゼルヴォードは小さく息を吐き、打ち台の上の素材へ手を伸ばした。
窓から差し込む朝の光が、炉の赤とは違う白さで工房の床を照らしている。
夜は、もう明けていた。
長く沈んでいた意識が、ようやく今へ戻る。
今日もやることは多い。
依頼品の仕上げ。
素材の調整。
カリーナが昨日まとめた研究記録の確認。
フィルミナが学院へ持っていく試作品の点検。
考えるだけで面倒が増えていく気がして、ゼルヴォードは眉間を指で押さえた。
その時だった。
奥の居住区から、ぱたぱたと軽い足音が近づいてくる。
「ゼルさん! 起きてる!?」
勢いよく扉が開いて、フィルミナが顔を出した。
まだ少し寝起きらしい髪の乱れが残っているのに、目だけは朝から妙に元気だ。
学院へ通う年頃らしい明るさと、家族としての気安さがそのまま声に出ていた。
ゼルヴォードは半眼で振り返る。
「見れば分かるだろ」
「よかった。返事がないから、また工房でそのまま朝までいたのかと思った」
「誰のせいだと思ってる」
「え、私だけのせいじゃないでしょ?」
そう言い返したところで、もう一つ足音が近づく。
「その通りですね。少なくとも半分はゼルヴォードさん自身のせいです」
落ち着いた声とともに工房へ入ってきたのは、白衣風の上着を羽織ったカリーナだった。
すでに起きていたらしく、片手には紙束、もう片手には飲み物の入ったカップ。
住み込みらしく、朝から工房の空気に自然に馴染んでいる。
フィルミナがすぐに振り返る。
「ほら、カリーナさんもそう言ってる」
「私はフィルミナの味方をしたわけじゃありません」
「でも否定してないよね」
「……そこは否定しません」
ゼルヴォードは面倒そうに鼻を鳴らした。
「朝から騒がしいな」
「騒がしくもなります。昨日も結局、研究記録を見たあと寝てないでしょう」
「少し手を動かしてただけだ」
「それを寝てないって言うんです」
「そうだよ、ゼルさん。今日も朝から打つなら、ちゃんと食べないとだめ」
二人揃って言われ、ゼルヴォードは軽く視線を逸らした。
フィルミナは家族として遠慮がない。
カリーナは助手として容赦がない。
そしてこの二人は、妙なところで足並みが揃う。姉妹のように仲がいいのも納得だった。
フィルミナが打ち台を覗き込む。
「これ、今日仕上げる分?」
「ああ」
「学院から戻ったら見てもいい?」
「触るなよ」
「見るだけ!」
「その台詞が信用できた試しがない」
「ひどい!」
すぐ横で、カリーナが紙束を抱え直す。
「フィルミナ、朝食のあとでその試作品の件、少し見せてください。学院に持っていくなら耐久確認くらいはしておいた方がいいです」
「ほんと? やった、カリーナさん助かる」
「その代わり、変な改造はゼルヴォードさんに黙って頼まないこと」
フィルミナがさっと目を逸らした。
「……まだ何も言ってないよ?」
「その顔で分かります」
「お前らな……」
ゼルヴォードは呆れたように息を吐き、炉の火を一度だけ見た。
過去は消えない。
助けられなかった命も、助けた命も、自分の中に残り続ける。
たぶんこれからも、ふとした時に思い出すのだろう。
それでも、立ち止まる理由にはならない。
今の自分には、今の仕事がある。
守るべき形も、昔とは少し違う。
ゼルヴォードは打ち台から離れ、二人の方へ歩き出した。
「ほら、行くぞ」
「はーい」
「ええ。今日はちゃんと食べてから作業してください」
フィルミナの明るい返事と、カリーナのきっちりした声が重なる。
工房の扉が開き、朝の光がさらに差し込んだ。
――今日も、一日の始まりだった。




