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第193話:帰すべきもの、残るべきもの

 治療院へ搬入されたあと、ゼルヴォードはほとんど休まずに立っていた。


 担架が運び込まれる音。

 治癒術師たちの怒声。

 看護師が走る足音。

 処置室の扉が何度も開閉するたび、薬品の匂いと血の匂いが薄く混じって廊下へ流れ出してくる。


 四人は生きている。

 ラウスディアとミレイシアが戦場で繋ぎ止め、そこへ神薬まで入れた。

 少なくとも今夜のうちに全員が途切れることはないだろう。


 だが、それで終わりではない。


 ゼルヴォードは壁際に寄りかかったまま、しばらく黙っていた。

 視線は処置室ではなく、そのもっと向こうを見ているようだった。


 やがて足音が近づく。

 ギルドの職員だった。

 救助要請を受けた時に最初に声をかけてきた男である。顔には疲れが滲んでいたが、まだ業務の緊張が抜けていない。


「……四人とも、ひとまず命は繋がったそうだ」


「ああ」


 短い返答だった。


 職員はそこで一度、息を整えた。


「正式報告をまとめる必要がある。回収班の手配も――」


「その前に一つ頼む」


 ゼルヴォードが言った。


 職員は言葉を切る。

 それが、ただの追加報告ではないと声の調子で分かったのだろう。


 ゼルヴォードは背を壁から離し、机代わりに使われていた小卓の上へ討伐証明と現場位置の記録板を置いた。


「公開依頼にはするな」


 職員が眉をひそめる。


「……理由を聞いても?」


「余計な噂が先に走る」


 騎士団長の娘が絡んだ壊滅戦。

 しかも本来そこに現れるはずのない異常個体。

 事情が事情だ。酒場に流せば半日で尾ひれがつく。


 だが、それだけではないことを職員は察していた。


 ゼルヴォードの指が、記録板の上を静かに叩く。


「三人、残ったままだ」


 その一言で十分だった。


 戦場に倒れたままの三人。

 あの状態で夜を越せば、魔物が寄る。

 そうなれば遺体の損壊は避けられない。

 運が悪ければ、骨すら残らない。


 職員の顔色が変わる。


「非公開の内部処理案件として回収班を出せ、と?」


「そうだ」


「危険はまだ残ってる。あの凶獣を倒したとはいえ、周辺の魔物だって――」


「しばらくは近づきにくい」


 ゼルヴォードは淡々と言った。


「血と残滓が強すぎる。上位個体が死んだ直後の匂いは、低位や中位を遠ざける。回収するなら今夜から明朝までが一番いい」


 職員は黙って聞いていた。

 現場を見て帰ってきた男の言葉だ。軽く扱えるはずがない。


「三人を連れ帰れ」


 ゼルヴォードの声は低かった。


「せめて、魔物の腹の中で終わらせるな」


 職員はわずかに目を伏せた。

 救助の現場に慣れた男ほど、この言葉の重さを知っている。


「……分かった。ギルドの内部処理として動かす。掲示板には出さない。遺族や騎士団への通達も、順を追って最小限にする」


「そうしろ」


「凶獣の方はどうする」


 ゼルヴォードは一拍だけ置いた。


「あれも回収しろ。異常個体だ。剥げる部位は利用しろ。殻も爪も骨も、素材としての価値は高い」


 職員が顔を上げる。


「報酬代わりに置いていくつもりか」


「それでいい」


「お前、自分の取り分は――」


「要らん」


 即答だった。


「その代わり、帰す方を優先しろ」


 職員はしばらく無言だった。


 彼はこれまで何度も、救助帰りの冒険者を見てきただろう。

 報酬に拘る者も、損耗の補填を求める者も、名声を欲する者もいたはずだ。

 それが悪いわけではない。命を賭ける仕事なのだから当然だ。


 だが、目の前の男は違った。


 生き残った四人へは秘蔵の神薬を切り、

 助からなかった三人には墓へ帰る道を残し、

 異常個体の素材すらギルドへ渡す。


 そこに自分の取り分はない。


「……了解した」


 職員は深く頷いた。


「回収班は俺が直接選び、口の堅い奴だけで組む」


「任せる」


「お前は?」


「明日の朝には出る」


 職員は苦々しく息を吐く。


「本当に、お前はそういう男だな」


 ゼルヴォードは何も答えなかった。


 その頃、処置室では徹夜の処置が続いていた。


 ラウスディアとミレイシアも休めてはいない。

 神薬の使用は劇的だったが、だからといって何もせずに治るわけではない。

 むしろ効力が強すぎるからこそ、術師の側に正確な見極めが要求される。


「……信じられません」


 ミレイシアは、淡い光を通しながら小さく言った。


「損傷の繋がり方が普通じゃない……神経の戻り方までおかしいです」


「黙って手を動かせ」


 ラウスディアはぶっきらぼうに返したが、その声にもわずかな驚きが滲んでいた。


 神殿庫でもそう簡単に見ない代物。

 それをゼルヴォードは、まるでためらいなく置いていった。


「……あの人、本当に何者なんですか」


「考えるな。あれは昔から、そういう男だ」


 そう言っても、ラウスディア自身、完全に理解しているわけではない。

 理解しきれないからこそ、長く付き合っていられるのかもしれなかった。


 回収は迅速だった。


 夜明けを待たず、ギルドの内部処理班が編成された。

 通常の冒険者ではない。

 死地への回収や後始末を引き受ける、少数精鋭の裏方だった。


 到着した岩場には、まだ濃い死の気配が残っていた。

 凶獣グラヴェディアの巨体は横たわり、周囲の空気そのものが張りつめている。

 低位の魔物が近づきたがらないのも無理はない。


 回収班はまず三人の遺体を確保した。

 損壊は大きかったが、まだ“人として帰せる”状態だった。

 それが何よりだった。


 次に、異常個体の解体に入る。


 殻。

 牙。

 爪。

 骨格。

 魔力核に近い部位。

 通常個体よりも硬く、濃く、扱いは難しい。

 だが価値は高い。

 回収班の責任者は、解体の最中に一度だけ空を見上げ、小さく呟いた。


「……報酬代わり、か」


 贅沢な話だった。

 いや、贅沢を通り越して馬鹿げている。

 それでも、その馬鹿げた話に見合うだけの戦果であることもまた事実だった。


 三人は無事に街へ戻された。


 遺体はギルドと治療院、それに騎士団の一部関係者のみで慎重に扱われた。

 外聞より先に尊厳を守る。

 それがゼルヴォードの残した依頼であり、ギルドが応えた責任でもあった。





 葬儀は、関係者のみで執り行われた。


 大きな式ではない。

 むしろ静かなものだった。


 遺族。

 ギルドの関係者。

 騎士団長ドラクェル。

 そして、生き残った四人。


 棺は三つ、並べられていた。


 ガルエディン・ロスヴァルト。

 ゼルミドア・ハルヴェイク。

 ルシェイン・ヴァルメティア。


 どの名も、数日前まで確かに日常の中にあった。

 依頼の確認で呼ばれ、食卓で呼ばれ、戦場で呼ばれた名だ。

 それが今は、白布の下でしか呼ばれない。


 セリファルネは黒の礼装で立っていた。

 まだ傷は癒えきっていない。

 包帯の下に残る痛みが、呼吸のたび胸を刺していた。

 それでも彼女は顔を上げていた。





 視線の先にあるのは、最も大きい棺だった。


 ガルエディン・ロスヴァルト。

 七人の中で最も寡黙で、最も大きな背をしていた男。


 思い出すのは、特別な言葉ではない。


 初めてセリファルネが前衛として焦って踏み込みを誤った時、

 ガルエディンは振り返りもせずに言ったのだ。


 ――前に立つなら、守られる側の焦りを捨てろ。


 厳しい言葉だった。

 腹も立った。

 だがその直後、彼は本当に一歩前へ出て、セリファルネに飛ぶはずだった一撃を盾で受けた。


 守るとは、口で言うことではない。

 前に立ち続けることだ。


 そのことを、セリファルネはあの男の背中で知った。


 今、その背は棺の中にある。


 セリファルネは棺を見つめたまま思う。

 あの日、自分はその背に届かなかった。

 守る側に立つと決めたのに、最後まで支えきれなかった。


 だが俯くことはしなかった。


 ここで顔を伏せれば、あの背中を見失う気がしたからだ。





 ヴァルゼリクが見ていたのは、中央の棺だった。


 ゼルミドア・ハルヴェイク。

 斧を振るう男で、乱暴に見えて、実のところ隊の空気を読むのが上手かった。


 酒場ではやかましい。

 依頼の前は気楽に笑う。

 けれど撤退時だけは、必ず最後尾を確認していた。


 ある時、ヴァルゼリクがまだ軽い槍で取り回しばかりを優先していた頃、ゼルミドアは笑いながら言ったことがある。


 ――器用なのは悪くねえ。けどな、最後に残るのは“何を捨てても譲らねえ場所”を持ってる奴だ。


 その時は、説教めいて聞こえて軽く受け流した。

 だが今なら分かる。


 あの男は、豪快に見えて最初から知っていたのだ。

 崩れた時、何を守るか決めていない者は最後まで立てないと。


 ヴァルゼリクは棺を見ながら、自分の手を見た。


 最後まで立っていた。

 だが、立っていただけだった。

 譲れない場所を支え切るには、まだ足りなかった。


 なら、変えるしかない。


 軽さも器用さも、必要なら捨てる。

 最後まで隊を繋ぐ槍になる。

 その決意が、棺の前で静かに形を取っていく。





 リェスティナは、右端の棺の前で長く足を止めていた。


 ルシェイン・ヴァルメティア。

 穏やかな口調の術師だった。

 後衛同士、直接組む機会も多かった。


 彼はよく、戦闘前に周囲を見ていた。

 敵ではなく、味方を。

 矢筒の残数。

 立ち位置。

 足場。

 風向き。

 そういう細かなものを確認してから、静かに術式へ入る男だった。


 一度だけ、リェスティナが自分の矢数を誤って少なく見積もっていた時がある。

 気づいた時にはもう遅く、顔に出ていたのだろう。

 その時ルシェインは、何も責めずに自分の予備媒介を渡してきた。


 ――射線が生きてるなら、それで十分だよ。


 その一言に、どれだけ救われたか分からない。


 自分の役割が、ただ後ろから撃つことではないと、あの時少しだけ思えたのだ。


 リェスティナは目を閉じる。

 この棺の中には、その静かな声ももうない。


 あの日、自分は倒れていた。

 何も返せないまま、何も見送れないまま、生き残った。


 だから次は違う。

 次に立つなら、何もできない側では終わらない。


 彼女はそう決めた。

 涙は出なかった。

 泣くより先に、胸の奥で矢のような決意が一本通っていた。





 ディアルメスもまた、同じ棺を見ていた。


 彼にとってルシェインは、後衛として最も近い先輩だった。


 術式の話をした。

 魔力の通し方を聞いた。

 戦場での間合いを教わった。

 そして、何より――術師は火力だけで価値が決まるわけではないことを、最初に見せてくれた男だった。


 まだ未熟だった頃、ディアルメスが大技ばかりを求めていた時、ルシェインは控えめに言ったことがある。


 ――大きい術を持つのは悪くない。でも、崩れかけた時に何を残せるかも覚えておいた方がいい。


 その時は、少し曖昧な助言に聞こえた。

 今なら、その意味が痛いほど分かる。


 自分にはそれがなかった。

 崩れた戦場で何を残すか。

 何を支えるか。

 何を繋ぐか。


 知識も、術も、決定的に足りなかった。


 棺の前で、ディアルメスは静かに息を吐いた。


 学ぶ。

 今度こそ、そこへ届くものを。

 勝つためだけではなく、壊れた戦場を支える術を。


 弔辞が読まれる。

 香が焚かれる。

 遺族たちは声を抑えていた。

 泣き崩れる者はいない。

 それがかえって、この場を重くしていた。


 今生の別れだった。


 もう、二度と話せない。

 笑えない。

 剣も槍も術も交わせない。


 それを皆、ちゃんと知っている。

 知っているからこそ、安い涙では流せなかった。


 ドラクェルは娘の横に立っていた。

 慰めはしない。

 騎士としても、父としても、この場で軽い言葉を挟む男ではなかった。


 焼香の順が回ってくる。


 セリファルネが香を置く。

 ヴァルゼリクが置く。

 リェスティナが置く。

 ディアルメスが置く。


 誰も長い言葉は口にしない。


 その代わり、それぞれの胸の内でだけ、何かが決まっていく。


 火が上がる。

 煙が昇る。

 人は帰るべきところへ帰っていく。


 そして生き残った四人は、その火を見ながら知るのだ。

 自分たちは、これから先を生きていかなければならないのだと。


 葬儀が終わったあと、四人はしばらく並んで立っていた。


 最初に口を開いたのはセリファルネだった。


「……届かなかった」


 その声は小さかった。

 だが、折れてはいなかった。


 ヴァルゼリクが低く言う。


「今のままじゃ、また同じだ」


「ええ」


 リェスティナも静かに続ける。


「次は、倒れたまま終わらない」


 ディアルメスは少し遅れて頷いた。


「足りないものを埋める」


 それだけだった。


 約束でも誓いでもない。

 だが、そこには確かに旅立ちの始まりがあった。


 四人はこの日、ただ生き残った者から、

 喪失を背負って先へ進む者へと変わった。


 始まりは、壊滅寸前の岩場だった。

 だが本当の意味で道を選んだのは、

 帰ってきた三つの棺の前だった。


 そして、そのすべてを残して去った男――ゼルヴォードは、もうこの国にはいなかった。


 感謝を受け取ることもない。

 見送られることもない。

 ただ、助けるだけ助け、帰すべきものを帰し、それで終わりにした。


 だが彼が置いていったものは、たぶん神薬や戦果だけではない。


 生き残った四人の中には、あの日から消えない背中が一つある。


 壊滅の先で、一人で戦場を押し返した男の背。

 生者も死者も置き去りにしなかった男の在り方。


 その記憶は、この先の彼らの道のどこかで、何度も立ち上がることになる。

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