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第172話:歩き出す刃たち

 霧が、静かに晴れていく。


 半奈落獣の崩壊とともに、瘴気の濁流は風に攫われ、ただ白い雪面に清冽な静けさが戻っていた。


 世界が、ようやく呼吸を取り戻したかのようだった。


 誰も、すぐには動かなかった。


 ノーラはその場に膝をつき、手の中で陽炎の刃の残骸をじっと見つめていた。

 小さな破片の一つひとつに、誰かの想いと、自分の選択の重みを感じていた。


 ミリナは足元に小さな治癒陣を描き、指先の震えを必死に押さえ込んでいる。

 セイヤは目を閉じ、魔力視による消耗を癒すように、ゆっくりと深く呼吸を繰り返していた。

 グレイヴは静かに腰を下ろし、道具袋の中から使い果たした霊符の欠片を取り出して、無言で数えていた。


 そして、ただ一人――ゼルヴォードだけが、変わらず立っていた。


 全員、生きている。


 それがこの戦いにおける、最大の、そして唯一無二の成果だった。


 しかし今、すぐに次へと踏み出せる者は誰もいない。

 疲労は肉体よりも、魂のほうを重く蝕んでいた。


 ゼルヴォードは周囲を見渡し、雪面に沈む霧の残滓と風の流れを読み取った。


(……あの方角だ)


 西へ、おそらく八百メートルほど。

 瘴気の密度がわずかに薄れ、空気の重心が変わっている。


 そこに、“目的”――霊銀結晶がある。


「……行くの?」


 ミリナが、顔を上げた。

 問いかけは静かだったが、その奥には「私たちはどうするのか」という意思が滲んでいた。


「あと三十分、休む。回復を優先しろ」


 ゼルヴォードは即座に応えた。

 その声は、いつものように低く、どこまでも揺らがない。


「その後、俺が一人で向かう。確認して戻る。  ……これが、本来の任務だ」


 誰も、反論はしなかった。


 それが最善だと、理解していたからだ。

 疲弊した仲間をこれ以上危険に晒すべきではない。


 けれど、その沈黙を破ったのは、ノーラだった。


 彼女は、ふらつきながらも立ち上がった。


「私も行く」


 その一言に、空気がわずかに動いた。


 ミリナが眉を上げ、セイヤが目を開いた。

 グレイヴは何も言わなかったが、欠片を袋にしまう手が、ほんの一瞬だけ止まった。


 ゼルヴォードは、ノーラを見た。


 彼女の手はまだ震えていた。

 足元も、決して万全ではない。


「無理はするな」


 静かに告げたその言葉に、ノーラは小さく首を振った。


「……これは、無理じゃない。  “行きたい”って、思ってるだけ」


 ゼルヴォードの眼差しが、わずかに細まった。


 思ってるだけ。

 その言葉が、彼の判断を止めた。


「……なら、歩けるところまで来い。  限界を感じたら、すぐに引き返せ」


「わかった」


 その返事は、強いものではなかった。

 けれど――確かに、今ここに立つ自分の意志だった。


 ミリナが、苦笑まじりに呟いた。


「ったく……みんな、言わないと休まないんだから」


 そして、仲間たちを見渡しながら、静かに続けた。


「……ちゃんと、見たいんだよね。  この遠征が、ただの戦いじゃなかったってことを。  “本当の目的”を」


 ゼルヴォードは、静かにうなずいた。


「なら、立っている奴だけでいい。

 行こう。――霊銀結晶を見に」


 風が、吹いた。

 白い雪を巻き上げながら、彼らの背中を押すように。


 一歩。

 また一歩。


 それぞれの想いを胸に、彼らは、歩き出した。


 新しい“未来”へと。


 そして、風は――静かに雪を巻き上げた。

 その音は、戦いの終わりを告げる鐘にも似て。

 けれど、これから始まる“何か”を予感させる余韻を孕んでいた。


 ノーラの言葉は、まるで沈黙の水面に落とされた一滴の雫のように、周囲の空気を変えていった。


「……これは、無理じゃない。

 “行きたい”って、思ってるだけ」


 その言葉を聞いた瞬間、ミリナがため息をついた。


「はあ……ま、だよね」


 彼女は立ち上がり、腰の後ろで手を組んで小さく伸びをした。


「じゃ、私も行く。回復陣の安定確認もしときたいし。

 あんた一人に格好つけさせるのもしゃくだしね」


 続いて、セイヤが首を鳴らしながら、ゆっくりと立ち上がった。


「残留魔力の流れを解析するには、俺の魔力視が必要だしな。

 ……休んでるだけってのも、性に合わない」


 彼の声には相変わらずの淡々とした響きがあったが、その中に確かな決意が含まれていた。


 グレイヴは何も言わずに立ち上がると、道具袋をぱん、と軽く叩いた。

 そのままゼルヴォードの方へと無言で視線を送る。


「……補助の霊符、あと三枚。足りりゃいいがな」


 そのひと言だけを残し、いつものように肩をすくめてみせた。


 ゼルヴォードは、皆を一人ひとり見渡した。

 誰も、無理をしているようには見えない。

 むしろ、そこには揺るがぬ意志があった。

 戦いのあとに残った疲労――それを超える想いが、彼らの目を光らせている。


「……やれやれだ」


 ゼルヴォードは、わずかに目を伏せ、そう呟いた。


 そして、次の瞬間には顔を上げ、いつものように短く言った。


「なら、行くぞ。全員で」


 ノーラがわずかに笑った。

 ミリナが「最初からそう言えばいいのに」と頬を膨らませる。

 セイヤは静かに目を細め、

 グレイヴは小さく鼻を鳴らした。


 風が再び吹いた。

 彼らの背中を押すように、優しく。


 雪の丘の向こう――そこに、目的の“霊銀結晶”がある。


 それは、彼らがこの遠征に出た意味。

 けれど今や、それだけじゃない。


 この旅が、ただの任務ではなくなった瞬間だった。


 ゼルヴォードが先頭に立ち、ゆっくりと歩き出す。


 続くノーラの足取りも、確かだった。


 彼らの後ろには、仲間たちの足音がついてくる。


 白銀の世界に、五人の影が並んでいく。


 戦いは終わった。

 けれど――彼らの旅は、まだ終わってはいなかった。

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