第168話:ベースキャンプ、雪下に立つ
風が絶え間なく吹き抜ける谷底、雪に沈む斜面に張られた仮設ベースキャンプ。
霊峰アルゼン、中腹標高約2100メートル。
この地こそが、本隊が霊峰の“内側”に入るための拠点だった。
白の支配が始まるこの標高で、雪と霊気に耐える設営は、ただの冒険者では不可能だった。
結界柱の配置、簡易鍛冶場と補修テントの設置、物資庫の断熱加工――
その全てを担ったのが、鍛冶ギルドの遠征班だった。
ゼルヴォードたちは長い行程を経て、ようやくこの地に到着した。
支援隊員が最終点呼を済ませ、軽く一礼したあとに言う。
「ゼルヴォード様、お伝えしておきます。
現在、鍛冶ギルド本部より監督者が一名、現地滞在中です。
……鍛冶場の火の面倒を見ながら、全体の点検を担当されています」
その言葉に、ノーラのまぶたがほんのわずか持ち上がった。
「いるのね、やっぱり」
支援員が首を傾げた。
「ご関係が?」
「……ちょっとだけね」
仮設の鍛冶場。その火の前に立っていたのは、赤黒いマントを羽織ったドワーフだった。
大きな背中、腰の槌、火に照らされた白髪混じりの眉――
グレイヴ・ドランハン。
鍛冶ギルド・ルナエスト支部マスター。
王都でも名の知れた、現場主義の大職人。
ゼルヴォードは何も言わずに歩み寄る。
その気配に気づいて、ドランハンはゆっくり振り返った。
「……おう、お前か。火の前に座るのは変わらねえな」
「お前の方こそ、現場に出るのは久々だろ」
「ふん、これでも監督役だ。
雪の上で鍛冶場組むってのは、誰にでも任せられねぇ。
部下に放り投げるには、もう少し仕事が残ってたんでな」
ゼルヴォードは無言で腰を下ろす。
焚き火の熱が、雪の中でもじわりと伝わってくる。
ドランハンも向かいに腰を落とした。
ノーラが後ろから無言で近づき、鍛冶場の柱に背を預ける。
「……この風じゃ、火が吹き飛ぶ」
「だから見張ってるんだよ、嬢ちゃん」
ドランハンが返すが、ノーラは何も言わずに一度だけ頷いた。
「思ったより整ってるな」
ゼルヴォードの言葉に、ドランハンが鼻を鳴らす。
「うちの若いのが頑張ったんだ。
結界柱と鍛冶床は、気流の層に合わせて設計した。
お前が触ったら、下手に焼き回るぞ」
「触らないよ。……今日は客のつもりだ」
「珍しいな。てっきり“火を貸せ”って言ってくるかと」
「必要があれば言う」
ノーラが小さく言葉を落とす。
「……ゼルヴォードさん、火を借りる前に斬ってくるから」
「おい、やめろ。その冗談、笑えねぇ」
ドランハンが笑いながら呆れたように言うと、ゼルヴォードは微かに目を伏せた。
「……火が消えたら、打てなくなる」
「だから守ってる。
打つためじゃねぇ。打つ奴が戻って来れるように、火を絶やさねぇだけだ」
しばしの沈黙が落ちた。
焚き火の揺らぎが雪面に映り、風の音が空気の隙間をすり抜けていく。
ドランハンは立ち上がる。マントを払って、腰の槌を整える。
「俺は今日で下がる。ここは整った。
本隊がこれ以上火を動かすなら、それはもう現場じゃねぇ、“戦場”だ」
ゼルヴォードは立ち上がらないまま、目だけで応じた。
ノーラが背を離れ、ドランハンにひと言だけ告げる。
「……火、消すなよ」
「言われんでもな。
そっちも、“背中”冷やすな。寒さより、帰り道のほうが怖ぇぞ」
そう言い残し、グレイヴ・ドランハンは風の中に溶けるように姿を消した。
翌日は休養日。
ミリナは食料と回復薬の管理を確認し、グレイヴは符術の点検、
セイヤは霊脈の安定を観測、ノーラはいつも通り道具の手入れをしていた。
そしてゼルヴォードは、火の前で一人座っていた。
打たず、磨かず、ただ静かに火の揺らぎを見つめていた。
この夜が、拠点にいる最後の夜になる。
明日、白へと踏み出す。
その先に、戻る火があると信じて。




