第165話:雪に備えて
その夜、誰もが火を囲んだまま、言葉少なに解散した。
命を賭ける任務に、冗談で結ぶ余白はない。
それでも、それぞれの心に灯った火は、静かに消えずに残っていた。
封印施設の廊下は無音だった。外の風も、魔導結界に抑えられている。
雪はまだ降っていない。だが、それはほんの束の間の静寂にすぎなかった。
ゼルヴォードは一人、物資の最終点検をしていた。
小さな作業室に積まれた収納箱を開け、魔力封印を確認し、耐熱・耐寒符の強度を再計算する。
目の前にあるすべての装備が、“誰か一人の命”を握っているという前提で、指先を動かす。
道具ではない。
これは責任の塊だ。
壁に掛けられたチェック表の最後に、彼は鉛筆で一行を足した。
・気流変化による火種安定術、現地での再調整必要。
それを書き終えると、静かに息を吐いた。
彼はようやく、今日の終わりに目を向ける。
ミリナはその頃、自室の床に広げた小さなノートの上に顔を乗せていた。
筆跡がまだ乾いていない。
「……霊峰アルゼン、起点標高2100。
魔力の揺らぎは軽度、風層安定……けど、寒気がもう来てる」
呟きながら、目を閉じる。
そのまま、目だけを上に向けた。
天井は低い。
この部屋には、安心できる布団も、あたたかい空気もない。
あるのは、冷えた床と、濡れない程度の毛布と、書き溜めた記録だけ。
でも、それでいい。
彼女にとっての“防寒”は、いつだって言葉と準備だった。
ふと、鞄の横に置いていた外套を手に取る。
支給された防寒具――あたたかさよりも、軽さが信じられない。
「……ゼルヴォードさんって、見た目よりずっと気配りすごいんじゃない? いや、あれで喋らなかったら逆に無理だって」
苦笑しながら呟いて、彼女はノートを閉じた。
同じ頃、グレイヴは封魔符を解体していた。
支給されたマジックバックに組み込まれていた術式の構造が、どうにも気になっていた。
「……この符、応急設計の癖に、理論が妙に洗練されてる」
彼は床に座り込んだまま、解体した一部の術式を紙に写し取り、別の紙と照合した。
その傍らには、数本の紙煙草。誰もいない空間でしか吸わないと決めている。
「……鍛冶屋の本気ってやつか。あれがただの金属職人だったら、この術式は書けない」
感嘆というより、警戒だった。
あの男は――予想よりも遥かに深い。
自分を含めて、誰も全体像を掴んでいない。
「……これは“指揮官に預けたくなる”作りだ。
道具が語るって、久々に思ったよ」
煙を吸い込み、咳き込んで、小さく笑った。
「……雪山で死ぬ前に、毒の一つも味わっておくか」
一方、ノーラは部屋の窓から外を見ていた。
窓はわずかに開いていて、冷たい空気が静かに入り込んでいる。
手には、磨きあげた短剣。
“霜喰”。
刃を確かめることに、特別な意味はない。
ただ、それが“ここにある”ことを確認したかった。
反射した月明かりが、薄い鋼の色を淡く照らしている。
ノーラはふと、目を閉じた。
耳に、吹雪の音が蘇る。
あの霊峰で聞いた、仲間の最期の声は、もうほとんど思い出せない。
けれど――“残った自分”の記憶は消えない。
「……今度は、戻る側だ」
その言葉に、何の強調もなかった。
ただ、自分に向けた確認だった。
セイヤ・ルティスは、自室の中央に静かに座っていた。
術布の上に、薄く霊墨が描かれている。
空間感応式の瞑想術。
霊峰に入る前に、心を整える“感受儀”。
目を閉じ、耳を澄ます。
何も聞こえない。けれど、何もないわけではない。
遠くの空で、かすかに――“呼吸のような魔力のうねり”があった。
それは霊峰の鼓動か、それとも結晶の誘いか。
「……この流れ、“山が目覚めている”」
呟きのあと、静かに目を開いた。
準備は整っている。
霊銀結晶が何をもたらすかは分からない。
だが、“来る者”としての覚悟は、もうできていた。
彼は立ち上がり、支給された防寒具を肩にかけた。
「壊れた心を拾いに行く。
……それが俺の役目だ」
夜が深まる。
誰も眠ってはいない。
けれど、誰も言葉を交わさない夜。
それは、明日のための沈黙だった。




