第159話:白影の狩人
朝、雪の気配を感じる風が山肌を撫でた。
まだ本格的な吹雪には至らないが、雲の重さが違っていた。
ノーラ・クレインは、その冷たさの中で目を覚ました。
静かな山の一角。人里から離れた石造りの小屋。その空間に、生活の気配はほとんどない。
布団を畳み、焚き火の残りを小さくまとめると、手斧を取って外に出た。
獣の足跡はなかった。代わりに、昨日とは違う風が吹いていた。
ただ冷たいのではない。魔力が少し、底から吹き上げていた。
山が“鳴っている”。
ノーラは薪を集める手を止め、耳を澄ませた。
聞こえるのは雪と風と、木々のきしみ。
それでも、感じる。あの山の向こうで、何かが“動いている”。
数年前、彼女はその霊峰の奥で一体の魔物を討った。
翳り尾──影を纏い、吹雪の中で輪郭を失う獣。
その時、彼女は仲間をすべて失い、一人で帰ってきた。
報酬も受け取らず、ギルド登録もせず、ただ静かに山へ戻った。
彼女はそれからも変わらなかった。
獲物を追い、雪を踏み、魔物の血を小屋の外で流し続けた。
戦うためではない。生きている証として、それを繰り返していた。
その日、山の気配が変わった。
魔物の増減ではない。
山そのものが、呼吸を変えたような、そんな異常だった。
ノーラは準備を始めた。
装備と道具を整え、背負い袋の奥に、かつて自分で描いた地図を差し込む。
この山の地形は何度も変わる。だが、戻ってくる場所は変わらない。
死体のそばに咲いた雪花の匂いも、今も覚えている。
山を降りるのは、狩りの獲物ではない。
今回の目的は“確認”だった。
グランベルグ。麓の街にあるギルド本部。
数年ぶりに訪れたその建物は、以前よりも整備され、入り口に護衛が立っていた。
ノーラは迷わず中へ入った。受付へは行かず、まず掲示板を探す。
貼り出されていた紙に、目を止める。
霊峰アルゼン特別遠征任務。
死亡リスクあり。選抜制。本隊は少数。
報酬は任務完了後に査定。
文章を読み終えると、すぐに受付へ向かう。
窓口にいた若い職員が顔を上げた瞬間、少しだけ表情を硬くした。
「……あなた、名前は……」
「ノーラ・クレイン。申請する」
「確認します……あ……霊峰の記録、残ってます。北東稜、五年前……翳り尾の討伐」
ノーラは頷いた。
職員の手が止まる。
「ほかの隊員は、全員……」
「死んだ。確認はしてない。でも、生きていたなら私より先に帰っていた」
「……申請、受理します。ただ、選ばれるかどうかは――」
「いい。確かめたいだけ。山が変わってる。私の知ってる空気じゃない」
職員は小さく頷き、記録を残す。
しばらくの沈黙のあと、ふとノーラに問いかけた。
「あなたが行く理由、聞いてもいいですか?」
ノーラは一瞬だけ迷う。
それから、答えた。
「戻ってこられた理由を、まだ知らないから」
それだけ言って、ノーラは背を向けた。
日が傾きかけた街の路地を歩き、かつて一度だけ泊まった宿に入る。
小さな部屋、火の気のない空間。窓から雪がちらついている。
短剣を磨く。霜喰。刃の先に手をかざす。
温度はない。けれど、空気を裂く感覚はまだ指に残っている。
道具袋の底から、一枚の布切れを取り出す。
それは、翳り尾の体毛で作られた小さな護符だった。
意味はない。だが、持っていたかった。
彼女の中で、死んだ仲間の形見のようなものだった。
夜が深くなった頃、小さな音が扉を叩いた。
ギルドの伝令が、通達を届けに来たらしい。
ノーラは無言で封を開く。
任務名:霊峰アルゼン遠征隊
配属:本隊メンバー
役割:前衛戦闘枠
支給装備:現地にて支給
指揮:ゼルヴォード・カレグス
名前に見覚えはなかった。だがそれで十分だった。
選ばれた。行ける。それだけでいい。
ノーラは紙を懐にしまい、明かりを消した。
目を閉じると、雪の奥に揺らめく影が見えた気がした。
翳り尾ではない、もっと深く、もっと脈打つもの。
次は、それに会う番だ。
そして、帰る。
白影の狩人は再び、山を目指す。




