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俺は父親になった

 診断を聞かされた俺は、端的に絶望した。

 まさか自分が。そう思うと同時に、つま先から全身が冷えていく。無機質な真白い室内が、妙に寒々しく感じられ始めた。


 そういえば、親父がそうだったのだ。お袋が話していたのを、幼心ながらに、何事かと思った覚えがある。

 しかし、それも遥か昔のこと。いつの間にか記憶の彼方に葬り、どこか他人事のように忘れてしまっていた。

 それを、まさか自分への診断という形で思い出すとは。


「決して、完治しないものではないんですよ」


 そんな俺の様子を見て、医者は慰めるように優しい声を発した。


「きちんと適切な治療を続ければ……」

「しかし先生、私には息子がいるんです。ハイハイを始めたばかりで、まだ1歳にもならず……」


 自分もようやく父親らしくなれてきたと思っていたのに、息子があの短い手足で必死に歩みを進める様子を楽しみに見ることができると思っていたのに……。

 その矢先に、これは、あんまりではないか。膝の出てきたスーツの上で、拳を握りしめた。皺が寄り、妻に怒られるとハッと指を開く。


 ……怒られる。妻は、怒るだろうか。


「ただ毎日……家族のためと働いてきただけなのに……こんなのは、あんまりじゃないですか」

「根気よく、治療を続けていきましょう」


 頭の白い医者は、まるで息子でも見るような優しい目を向けてきた後、カルテにペンを走らせていた。



 病院を出た後、電車に揺られながら、全身が鉛のように重たいのを感じていた。いつもなら気になる車内の臭いも気にならないほど、頭の中は診察室で聞かされたことと、これを話したときの想像上の妻の反応でいっぱいだった。


 いや、それより、気になるのは息子のことだ。

 最初は、妻の腕の中で眠るか泣くかばかりの小さな生きものだった。妻と交代で、互いに眠たい体に鞭打ち夜中にミルクをやり、腕を痛めそうになりながら何時間も抱え、万歳をして眠る顔に安寧を感じながら、これがいつか人間になっていくのだろうかと、不安に近い感情すら抱いていた。

 それがいつの間にか、なんて可愛らしいものかと思うようになった。正直、その感情は、母親である妻にはだいぶ遅れてやってきたように思う。しかし俺も、息子が笑うのを見て笑い、座るのを見てカメラを構え、ネットサーフィンでは投げても安全なおもちゃを探すようになり、いつの間にか「父親」という役目を自覚し始めていた。今となっては、毎晩定時にダッシュで帰り、息子と一緒に風呂でアヒルを浮かべて遊ぶのを楽しみにしている始末だった。


 それなのに──……。絶望の淵に落とされたような、悲しみ超えた感情に、いや何よりも息子に申し訳ないという気持ちに支配されながら、帰路を歩く。

 病院行ったほうがいいんじゃないの──あの妻の言葉に「いまちょっと仕事が忙しいし」「そんなことすると風呂入れる時間に間に合わないし」と言い訳をしていたあの頃の俺は、なんて愚かだったのか。


 玄関扉を開けると、明かりのついたリビングから息子の笑い声が聞こえていた。その声が止まらぬうちに、妻の「まてまてー!」と聞こえ、被せるように「キャッハア!」と甲高い笑い声がまた響く。最近の息子のブームは追いかけっこだった。

 この平和な声を、聞けなくなってしまうのだろうか。

 そろりと靴を脱ぎ、扉を開けた。フローリングの床に四つん這いになり息子と戯れていた妻が「あ、おかえり」と顔を上げる。


「病院、どうだった?」


 今日、病院行ってくるから──そう伝えておいた以上、隠し立てはできなかった。いや、家族のためにも、隠してはいけないことだ。

 ぐっと唇を噛み締めると拳も握りしめてしまい、手の中の薬局の袋がクシャクシャッと音を立てた。


「……水虫だった」

「ほらー! だから言ったでしょ、早く行きなさいって!」

「ご、ごめん……あ、あの、スリッパ買ってきたから」

「偉いからそれちゃんと履いててね! ハイハイしてる手足にうつったら可哀想だし、大変なんだから!」


 何も分からない息子は、大きな目で俺を見ている。その無垢な姿に、う、う、と心のなかで涙を流す。

 すまない、息子よ。しっかり薬を塗って治して、お前が安心してハイハイできる場所にしてやるからな。


新年からこんなくだらない話を書いていていいのだろうか……と思いながら眠れぬ年明けに布団の中で10分くらいで書いてしまいました。

よろしければページ下部コメディも御覧ください。

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― 新着の感想 ―
私も一度だけなったことありますけど、大丈夫! あれはけっして不治の病ではありませんよ!
溜めに溜めて極限まで勿体つけてからくるしょうもないオチが素晴らしかったです。サクッと読める短さも良いですね。
オチイイイイイイw
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