番外編 ある時代の出来事
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その日、私はふと、母に『後悔したこと』は何かあるかを尋ねた。
「そうね、夕日がきれいに見える丘に自転車に乗って行かなかったことかしら?いつか行こう行こうって明日をアテにして結局行かなかった。そうしてるうちに歩けなくなって、自転車には乗れなくなってしまったから」
「車じゃダメだったの?」
「車では何度も連れてってもらったわよ。でも自転車が好きだったの。自転車で行きたかったの。自転車で走るのがとても好きだったから。一人で、ただ走って、辿り着いた丘で夕日をみつめたかったの。丘まで走った達成感と海に沈む夕日の美しさに・・きっと感動したでしょうね」
儚げに母は微笑んだ。
母は私達が大学に入学してまもなく、生活の大半の時間が車椅子になった。歩けないわけではないが、以前よりもっと足元がもつれやすくなったためだ。
「したいことは今やらなきゃダメね。後悔しないようにね」
そう言った母は車椅子を動かして窓辺に移動した。
寂しそうな後ろ姿だ。
夕日がきれいに見える丘は、いまはもう無い。
崩落してしまったから。
「今日もいいお天気になりそうね」
「うん。片づけもきっとすすむわ」
「そうね。気をつけてね」
「わかってる」
「美之ー、そろそろ行くぞ」
司と朗が食料品の入った段ボール箱を車に積み終わっていた。
「はーい」
「足が動けばお母さんも手伝いに行きたかったのに。すごく残念」
「お母さんの分も僕らが頑張ってくるよ」
司が言った。
「ええ、お願いね」
母はにこやかに私達三人を見送ってくれた。
「司も朗も気をつけてね。みんないってらっしゃい」
「行ってきまーす」
私達三人は笑顔で母に手を振った。
私達はこれからボランティアで被害にあった家々の後片づけに行く。
途中でボランティアに参加してくれる幼なじみや大学の友人たちをひろって。
時間がたち、復興は進んでいるが、まだまだ不十分な場所も残っている。様々な支援があっても、全ては複雑な地形のせいで、行き届かない場所は多かった。だが、何もかもがスムーズに進む復興などありはしない。
なのに何も知ろうとしない他人が訳知り顔で町を訪れ、SNSに『復興がまるきりされてない。何をしているんだ』と潰れてしまった家の写真つきで文句をアップしている。正義感に酔っているのか、文句をつけるのがかっこいいとでも思っているのか。
外部から人がそこまで辿り着いたということは、道路が補修整備されたからだ。復興しているからだ。国の多大なバックアップがあり、国も県も必死に動いてくれた。
誰か個人の頭の中だけで考えた『復興』などはただの妄想の域だけでしかない。
「あ、雅人達がいたぞ。蕎麦屋の隣の空き地」
朗が言うと、私達の乗った車は蕎麦屋だった建物の前に止まり、荷物を積む用のもう一台の車が雅人達のそばまで行った。
「蕎麦屋、再開はしないみたいだな」
司の言葉に運転手の矢口さんが
「店主夫婦が老齢で跡継ぎもいないってことで閉店を決めたそうッス。年も年だからって介護付きの高齢者住宅に入ったって話ッス」
と教えてくれた。
私は蕎麦屋を見上げた。おじいちゃまに連れられて、何度か食べたに来たことがある。最後に来たのは中学生の時だったか。
何事もなければきっと今日も蕎麦をうってたはず━━━━━
こんな終わり方をするなんて思ってなかった。
きっと、誰も。
「どうした?美之?」
「うん・・。・・後悔のないように生きたいなって思って」
私は蕎麦屋を見上げていた。
「・・そうだな」
司が私の頭を撫でた。
「ちょっとぉ!いつまでも子供扱いしないでよ!司と私は同い年なんだからね!」
「同い年だけど一番先に生まれたのは僕だ」
司が長男ぶって笑った。
幼なじみ達の元に駆けていった朗が荷物を車に積んでいる。彼等も支援品の荷物を持ってきている。
「おい、司も美之も手伝えよ!」
朗が叫んだ。
「ごめんごめん!今行くよ!」
司が駆けていった。
私はもう一度蕎麦屋を振り返った。
空はこんなにも青くきれいなのに、心には影がさす。
━━━━せめて・・
せめて、おいしい蕎麦を打ってくれたご主人夫婦が、これからも穏やかに暮らしていけるようにと私は願った。




