19 平凡に生きたい (1)
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若頭には特に丁寧に、当たり障りなく、失礼のないように心して接しようと誓ったのは、ハーゲンダッツの件があったからだ。
この前のハーゲンダッツの件が、若頭の立場をなくすだなんて思いもよらなかった。
お礼と謝罪をした時は、特に怒ってる様子もなかったけど、実は腹の底では『バカにされた』と思っていたのかもしれない。
別に使いっぱしりにしたわけではなかったのだが、巷では、なぜかそんな話になってるようだ。
この件のせめてもの救いは、組長先生の豪快な笑いをとれたことだ。
「嬢ちゃん、うちの京司朗を使いっぱしりにしたんだって?黒岩も感心してたぞ!ははははは!」
社長にはバカタレと言われ、おまけに「仙道にはあまり近づくなよ」と警告を受けた。
わたしも近づきたくはないが、こうして来店するからにはお客様だ。
「・・・どうしましたか?俺の顔に何かついてますか?」
「あ、すみません。なんでもないです」
「何か困りごとでしたら、相談にのりますよ」
相談に乗ってもらったあとの代償が怖い。
ニコリと笑む若頭だが、嘘くさい笑みだ。
芍薬がほころぶような、ふわりとした笑みはあれからとんと見ていない。
「いえ、ほんとになんでもないんです。いまお店の中で社長と奥さんがけんかしてるので、中にお通ししづらくて。こちらで待ってもらってもいいですか?」
良い言い訳だ。我ながら感心。
「ああ・・・。それは・・大変ですね」
話している間に、七十先輩がトルコキキョウの束を二束抱えてきた。
「いまドウダンツツジを持ってきます」
「大きいのでしょう?俺も行きますよ」
けっきょく若頭はわたしのあとから店内に入ってきた。
繰り広げられている夫婦間抗争に終わりは見えず、ああ言えばこう言う状態になっている。
しかしはからずも社長が自宅に戻らずここに泊まってた理由がわかった。どうやら社長の寝室はウェディングの撮影機材やドレスの置き場になってるらしい。さらに二人は寝室がそれぞれ違うといういらない情報までわたしは入手してしまった。
そんな二人を横目に、若頭は
「相変わらずですね。あの二人」
と言った。
相変わらず?
若頭は昔からの知り合い?
組長先生と社長が知り合いなんだからこの人も知り合いなのは当然かもしれないが。
わたしが「うるさくてすみません」と謝ると、若頭は「いいんですよ。それよりドウダンツツジはどれですか?」とわたしに訊いた。
わたしは「奥にある二本の枝がドウダンツツジです」と答えた。
「きれいな枝葉ですね」
「はい。人気の商品です」
わたしは話しながらまだ包んでいない上の枝葉を新聞紙でくるりと巻いた。さらに新聞紙のインクがお客様の持ち手や服につかないように白い包装紙を巻いた。
その間は、お客様と販売員の他愛ない会話だった。
包み終わると若頭はドウダンツツジをひょいと持ち、
「じゃあ、行きましょうか」
と、言い、わたしも「はい」と答えた。
若頭はさらに社長に向かって、「少しお借りしますよ」と言うと、夫婦間抗争中の社長は「勝手にしろ!」とエキサイティングに答えた。
花も枝物もいつもはお買い上げなのに、珍しいこともあるものだ。撮影か何かに使うのかな?組のホームページ作成とか。
『組員募集!君も惣領組で命がけのドンパチやってみないか?!いまならトカレフ一丁プレゼント』みたいな?
ドウダンツツジは若頭から、お付きの人に手渡されると、長い車の方に丁寧に積んでくれた。
わたしはお客様を見送るべく、若頭の乗って帰る乗用車の側まで行き、七十先輩の横に並んだ。
後部座席のドアが開けられると若頭は振り返り、わたし達は「ありがとうございました」とお辞儀をした。
しかし若頭は「さあ、どうぞ」と言い、わたしに向かって手をのばした。
「はい?」
「さっき、行きましょうと言った時、あなたは“はい”と答えました」
「そ、それは言いましたけど・・・。では、社長に許可を」
「社長ならさっき、勝手にしろと言ってましたから大丈夫ですよ。さあ、乗ってください」
“お借りしますよ”ってわたしの事だったのか!?
「え・・、いや、あの・・・お屋敷ですよね、では、わたし自転車で」
精一杯の抵抗。
若頭は車のドアの上部に手を置いて、人差し指で軽くコツコツコツと鳴らすと、再度
「さあ、どうぞ」と、言った。
怖い。上から見下される視線が怖い。
だめ押しの言葉に、わたしは車に乗り込んだ・・。