172 過ぎてゆく時間は思い出になる -4-
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「明日、京司朗を連れてくる」
「明後日と聞いておりましたが・・?」
「早めることにした。京司朗に会わせて・・そのままあの日の時間を辿って何があったか話す」
「たしかに時間がたてば記憶を戻すには不利になりますが・・」
貴之は一日でも長く、いまの子供のままのみふゆと過ごしていたいはずなのに。
一週間という時間を、父親としてみふゆと思いきり過ごしたいと考えていたはずなのに。
何故急に?
貴之の心境の変化に、胡蝶は疑問を抱いた。
理由を訊くべきか。
胡蝶は迷った。
予定を繰り上げ急がなければならない理由があった。
貴之はついさっき、『起きてはいけない現象』を目の当たりにしたのだ。
エレベーターのなかで、みふゆは塗り絵と色鉛筆をひざの上にのせ貴之に一つの質問をした。
「おとうさん、おはかってどこにあるの?」
「墓?」
「おはかって、しんだ人がねむってるんでしょ?だからおかあさんもそこにねむってるんでしょう?」
青木家は墓を持っていない。みふゆの両親の骨は共同墓地に納められている。
「お母さんとお父さんに話したいことがあるのか?」
「え!?」
みふゆは驚いた顔をした。
「おとうさんはいきてるよ?おはかにいるのはおかあさんだけだよ?」
貴之の息が止まった。
『おとうさんはいきてるよ』
「みふゆ・・、お父さんの名前・・、言えるか?」
「うん。そうりょうたかゆき」
「お母さんは・・?」
「そうりょうれいか」
みふゆは事も無げに答えた。
『惣領礼夏』
この世に存在しえなかった人物だ。
存在したのは『青木礼夏』なのだ。
「みふゆ、青木・・青木重弘さんと風見順さんって、誰だかわかるか?」
貴之はしゃがみこみ、みふゆの瞳を見た。
みふゆがきょとんとしている。
「みふゆ?」
「えーとね、えーと・・、しってるおなまえ・・・あ!おとうさんのおともだちで、おうちにあそびにきてた人たちだ!」
みふゆが笑った。
起きてはいけない現象が起きている。
愛し育ててくれた父・青木重弘と風見順の記憶が書き換えられてしまった。
みふゆは惣領みふゆとしての架空の記憶を新たにつくっている。
いまの自分にふさわしい記憶をつくりあげようとしている。そうだ。そうしなければみふゆのなかでつじつまが合わなくなる。
そして、みふゆに架空の記憶をつくらせているのは貴之だ。
貴之は動揺した。
言葉を発することができない貴之と、塗り絵を掲げて楽しげなみふゆがいる。
エレベーターが止まり扉が開いたが、貴之は動けなかった。
みふゆが「おとうさん?」と言った。
動かない貴之を不可思議に思った警備員もつい「会長?どうなさいましたか?」と声をかけた。
ハッとした貴之が、
「あ、ああ、考え事をしていた」
と、みふゆの車椅子を押し、エレベーターから降り、病室へと向かった。
「おとうさん、このおへや、なあに?」
みふゆは病室の向かい側のドアを指さした。
「・・談話室だ。医者と家族が話し合いに使う部屋だ」
「みてみたい」
貴之は病室前の警備員に「開けてくれ」と指示をした。
警備員がドアを開けた。真正面に大きなガラス窓があり、山の緑がみふゆの瞳にうつった。
「わぁ、山だ!山が近い!」
みふゆは車椅子を自分で動かし窓に近寄っていった。
「あ、大きな鳥だ!二羽もいるよ!」
あきらかに大きな鳥だ。山の上を飛んでいる。
「犬鷲だな。犬鷲はペアで動く。この辺がテリトリーなんだろうな」
「山にものぼってみたいな・・・」
窓に両手をあててみふゆは呟いた。
「おとうさん、わたし・・歩けるようになるかな・・・?」
「なるさ。お前は必ず歩けるようになる。必ずだ・・!」
「でも・・、でも、もし歩けないままだったら・・・わたし、みんなのじゃまになるのかな・・・」
みふゆはうつむいたまま黙ってしまった。
うつむいたままの姿は、やはりさっきの男の態度に傷ついたままだなのだ。
「焦らなくていいんだ。あのぼーずが言った通り、あんな連中は気にしなくていい」
みふゆの瞳が何か言いたげに貴之を見あげた。
「言いたいことがあるなら全部ぶちまけちまっていいんだぞ?」
「・・おとうさん、手」
みふゆがふと貴之の右手を引き寄せた。
「どうした?」
みふゆは引き寄せた手を自分の頭の上にのせた。
「・・・おとうさんがあたまをなでていいのはわたしだけだもん・・・。よその子はダメだもん・・」
「━━━━━」
みふゆが口を尖らせてまたうつむいた。
ヤキモチか。
「・・・は、・・あっははははは!」
貴之はみふゆの頭をくしゃくしゃと撫でた。
「安心しろ。お父さんがかわいくて頭を撫でるのはお前だけだ。みふゆだけだぞ」
「本当?」
「本当だ」
みふゆは満面の笑みをこぼした。
貴之の愛情は溢れる。
まぎれもなく、いまのみふゆは貴之だけの娘だ。
このかわいい娘の笑顔をいつまでも見ていられたら。
この暮らしを永遠に続けられるなら。
だが、みふゆを育てたのは青木重弘であり風見順だ。礼夏とみふゆを守ってくれたのはあの二人だ。
茶会の着物選びのときにみふゆが語った、父・青木重弘との思い出を━━━
『亡くなった父が藤の花が好きで・・・、似てるんです。父の見た夢の中の風景と。亡くなる2ヶ月くらい前に夢で藤の花がたくさん咲く桃源郷を見たって言ってて』
『ほう?桃源郷か・・。それで?』
『それで、絵を描いたんです。父はもう絵筆を持つ力がなかったので、わたしが代わりに父から聞いて、天から下がるたくさんの咲き乱れる藤の花と白い馬が一頭いる絵を描きました。父が桃源郷と言ったので、それなら藤の幻の郷に変えて『藤幻郷』にしたらいいんじゃないかと思って、絵の題名に『藤幻郷』とつけたんです』
『その絵はいまどうしたんだ?』
『父と一緒に火葬しました。父のための絵だったし、持っていきたいと父も言ってましたから』
病に伏した青木重弘のために絵を描き、大賞をとったにもかかわらず父の願いを叶えたみふゆを━━━
『わたしが生まれる時、青木のお父さんは海外赴任でいなかったんです。だから順さんがそばにいてくれたと聞いています。でも順さんは元々病気があって、わたしが生まれる前に余命宣告を受けていたそうです。わたしが一歳くらいに順さんの病気が悪化して、青木のお父さんは会社を辞めて帰国したのだと聞きました。順さんはずっとわたしの父親がわりをしてくれてたそうです』
『わたし赤ちゃん時代の写真は順さんと写ってるこれが一番好きなんです。順さんのこの笑顔が大好きなんです』
風見順の笑顔が大好きだと言ったみふゆの優しい想いを━━━
奪ってはいけない。
青木みふゆの23年という時間を失わせてはいけない。
みふゆから、青木重弘と風見順の記憶を奪ってはいけないのだ。
自分こそが、みふゆの過去に存在してはならない人間なのだから。
『惣領貴之』という男は、みふゆの子供時代には存在していないのだから。
貴之は予定を繰り上げてみふゆの記憶を戻すことにした。




