130 君はいま何をしているのか
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藤の間の部屋のドアが開いていた。
京司朗は部屋の入り口に立ち、気配を探した。
みふゆがここにいたのだ。
数時間前まで━━━━
既に病院には着いただろう。京司朗がいたあの病室に。
三上と共に動いていればこんなことにはならなかった。
そうだ。三上と一緒に山に入るべきだったのに。
悔やんでも遅い。
自分の判断の過ちは、この現実をつくってしまった。
京司朗は誰もいない空間にみふゆの姿を求めた。
手を伸ばしても触れられない幻影だ。
自分のせいだという感覚は、京司朗の脳裏に過去の記憶を呼び覚ます。
愛し尊敬していた両親の死を。
そして、ひとつの考えがよぎった。
もしや自分は、愛する者を不幸へと追い込んでいく宿命なのではないか━━━━━
自分はいまも両親を死に追いやった九歳のときの子供のままで
あれから長い年月を過ごしたにも関わらず
どれだけ多くを経験をし、どれだけの地位について財を成して変わったように見えても
実は何も変わっておらず、自分の中心に生きているのは子供のままの、
あの愚かな『神崎京司朗』ではないのか
京司朗は背中に冷たいものを感じた。
まさか俺は今度はみふゆを━━━━━
「京司朗さん、ちゃんとベッドで休んでください。でないとうちの親父に報告しますよ」
得体の知れぬ恐怖を断ち切ってくれたのは、大塚クリニックの院長の長男・大塚光一だった。光一が診療鞄を抱えて現れた。
病衣に着替えたみふゆは、ベッド柵につかまり、自力で車椅子から立ち上がった。ベッドに座り、座ったままの姿勢を保ち、一度ため息をつくとゆっくりとベッドに入った。手も足も正常な動きをみせている。
ベッドに入ると、リモコンで上体部を起こし、動きを見守っていた胡蝶に問いかけた。
「記憶・・戻るんでしょうか・・」
「なんとも言えないわ。覚えてないのはここ2日分くらいなの。まるきり忘れてしまったという感じでもないし・・」
「わたし、全部・・思いだしたいんです」
「そうね。不安なのはわかるわ」
「・・大切な時間だった気がするんです。すごく大事な気持ちが隠れている気がして・・だから・・。それに・・思い出せなかったら、他の記憶も全部忘れてしまうんじゃないかって・・・」
「焦らないことよ。いまあなたのやるべきことは、まずは検査を受けることと、きちんと食事がとれるようになること。そこから始めましょう」
胡蝶がみふゆの肩を優しくさすった。
胡蝶の手は、みふゆが生きているのか死んでるのか自分でわからなくなった時に、生きている温もりを教えてくれた手だ。
「さあ、休んで。検査の時間がきたら起こしてあげるわ」
涙が溢れそうなみふゆの髪を、胡蝶は撫でるようにそっとすいた。
「眠っても忘れたりしないでしょうか・・」
「大丈夫よ」
「若頭は・・どこですか・・」
「仕事よ」
「助けないといけなかったのに・・・手が届かなかったんです・・・」
みふゆの眼から涙がこぼれ落ちた。
「安心して。あなたが教えてくれたから私達が助けることができたわ」
「・・それなら・・よかったです・・・」
みふゆは涙をこぼしたまま、目を閉じて眠りについた。
みふゆとの会話は現実味がない。意思の疎通はとれているのに、どこかすれ違う。みふゆの言葉はふわふわと、幻のなかをさ迷っているようだと、胡蝶はこぼれた涙を静かに拭った。
夜━━━━楓が付き添うためにみふゆの特別室を訪れた。
貴之と胡蝶は楓と入れ替わりで帰っていった。
貴之は夜中も自分が付き添うと粘ったが、胡蝶に『そんなことをしたらかえってみふゆちゃんが心配しますわよ』と言われて渋々屋敷に帰った。
「しょーもないオヤジよね。会長も」
楓が貴之の出ていったドアをみつめてぽつりと言った。
みふゆは、胡蝶に引きずられて病室を出ていった貴之の姿を思い出して笑った。
「すみません、楓さん。付き添いをさせることになってしまって。わたし、足も動くし手も動くから一人でも平気だと思うんです。ナースコール押せますから」
「あら、だめよ。こんなチャンスでもないとここに泊まれないんですもの。私、一回特別室で過ごしてみたかったのよね。でもほら、私って丈夫でしょ?入院したいからってわざわざケガするわけにもいかないしね」
楓はケラケラ笑ったが、すぐに
「あ、ごめんなさい。みふゆちゃん、大変なのに」
と気まずそうにみふゆに謝った。
みふゆは「ふふ」と笑って
「いいんです。気楽に思ってもらえるほうがわたしも楽です」
「そ、そうよね!?深く考えすぎるのも体にはよくないわ。私達、みふゆちゃんのためならどんなことだってするから!安心して」
楓の明るさが後ろめたさを溶かしてくれて、みふゆは「はい」と笑顔でこたえた。
楓の主な仕事は惣領家の事業の一つ、アパレル部門だ。
かつての『若頭』だった黒岩正吾と結婚して、三人の息子がいる。楓の三人息子は末っ子が中学一年生だからそんなに手がかかるわけでもないが、それでも子育ての真っ最中といえる。
みふゆはさっきの言葉とは裏腹に、楓の忙しさを考えると申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
━━━明日は歩いてみよう。昨日より動けるようになってるんだから明日は今日よりも良くなってるはずだ。
翌朝、病院の朝食が終わった頃。
惣領貴之と胡蝶がみふゆの元にやってきた。
明け方に目覚めた貴之は、いてもたってもいられずに、太陽の昇らぬ早々の時間に病院を訪れようとしたが、屋敷の使用人頭・本橋に『迷惑です!!』と一喝され諦めたのだ。
みふゆは夜中から発熱し、朝は食事もとらずに眠っていた。熱は早朝に下がり、容態は安定している。
みふゆの発熱は夜中に楓から胡蝶に報告され、貴之は車中にて胡蝶から聞かされた。
みふゆの発熱を聞いた貴之は「なぜ知らせなかった」と怒ったが、胡蝶に「教えたら駆けつけるでしょう?でも会長がそばにいたからといって熱は下がりませんわよ。かえってあの子の気苦労が増えるばかりですわ」と諫められ、貴之は「チッ」と小さく舌打ちをし、黙ってしまった。
病室ではみふゆは静かな寝息をたてていた。
胡蝶は改めて夜中の状況を楓から聞き出した。
特別室の斜向かい側の部屋は医師が家族と話し合うために設けられた部屋だ。
惣領貴之、胡蝶、大塚が話し合いをしている。
胡蝶はワインカラーの半袖のスクラブ(医療ウェア)に白衣を羽織っている。長い髪は仕事用に纏めあげている。医師として仕事をする時はだいたいこの格好だ。
話し合いが終わるまで、楓が帰らずそのまま付き添ってくれている。
胡蝶がコーヒーを用意している間、貴之は大塚から、京司朗の傷の程度の詳しい説明を受けていた。
鍛えぬいた肉体だ。傷の治りは早いだろうが、現時点での不要な行動は避けるべきだと大塚は意見した。
「京司朗に会わせる?」
コーヒーカップを手にして、貴之は胡蝶を見た。
「ええ、そうよ。なるべく早く会わせたいわ」
胡蝶は、貴之、大塚の前にコーヒーを置き、最後に自分の分をテーブルに置きソファに座った。
「京のヤツもまだ安静が必要だろう」
車中で胡蝶にやり込められた貴之はムスリとしたままだ。
「夜中の熱は京司朗の無事を自分で確認してないせいよ。いくら私達から大丈夫だと聞いても、納得できていないのよ」
みふゆは夜中、悪夢にうなされた。
━━━━助けないと、若頭を・・
助けないと・・・━━━━
そう繰り返していたのだと楓は夜中の様子を語った。
「京司朗の姿を見ればみふゆちゃんの気持ちも落ち着くわ。彼女の一番の気がかりは京司朗の無事ですもの。京司朗だって同じよ。みふゆちゃんを心配してるでしょう?心配事は体に影響が出るものよ。スーツだって明日あたりなら袖を通せるんじゃなくて?」
「・・大塚、どうなんだ?」
「まあ、派手に動き回る訳じゃない、お嬢ちゃんと会って話す程度ならかまわんがな」
話し合いが終わり、胡蝶は部屋を出たが、貴之と大塚は何やら話の続きをしている。
━━━━私の悪口かしらね?
今朝の車中でのやりとりが余程気に入らなかったのか、貴之は始終ムスッとしたままだった。ほんとに男というのはどうしようもない。些細なことで機嫌が悪くなる。女がしっかりと手綱を持ってなければ何をしでかすやら。
胡蝶はクスッと笑って、『だから愉しくもあるのだけれど』とみふゆの病室のドアを開けた。




