110 誓い
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惣領貴之は京司朗所有のマンションの11階フロアの駐車スペースにいた。
ついさっきまでここには京司朗の愛車・マセラティ トロフェオがあった。
マセラティは運転席に京司朗を、みふゆを助手席に乗せて避難所となっている駅前市民プラザへ向かった。
いま貴之の目の前にあるのは常駐の社用車・黒いベンツだ。
京司朗はベンツではなく、迷わずにマセラティを選んだ。
いつもは隙のない決め込んだスーツのくせに、今朝はいっそう動きやすい普段着だった。みふゆと一緒に避難所を手伝うつもりか。
駅前プラザに行ったみふゆと京司朗を見送り、貴之は部屋に戻った。
キッチンのコーヒーメーカーにコーヒーの粉をセットして、出来上がるのを待った。
貴之は今朝の食事中のみふゆを思い出していた。
貴之と京司朗のオムレツを作り、京司朗に『合格』の言葉をもらったみふゆは心底嬉しかったのだろう。みふゆの笑顔が物語っていた。
━━━杞憂だったな
昨夜、みふゆが寝付いたあと、睡蓮川は氾濫した。
氾濫を知らずに眠ったみふゆ。
昨夜、ネットの中継を見ながら貴之は心配していた。
みふゆが睡蓮川の氾濫を知ればどんなに落ち込むか・・。一日中落ち込んでいるかもしれない。
一日でも二日でも、落ち込みから立ち直るまで側にいようと思っていたが、貴之の思い過ごしに終わった。
みふゆは落ち込むだけの自分に浸ることはせず、顔を上げて自分の出来ることを探してみつけていた。
嬉しいが、寂しくもあったのが、貴之の本音だった。
貴之は出来上がったコーヒーをリビングのテーブルに置いてソファに腰掛けた。コーヒーをひとくち飲むとテレビをつけた。
水に沈む町並みが映し出される。
要請が通ったのか、自衛隊が救助を行っている。
今回の主な被害区域は、睡蓮川流域と、商店街等の十年前かさ上げを拒んだ区域、山沿いの住宅街だ。
睡蓮川流域でもかさ上げに同意した東側の被害は極小さいものにとどまっている。
山沿いの住宅街は中途半端な開発を行っていたせいで地盤が崩れてしまった。
大雨がきっかけとなったわけだが、住宅街の被害の怒りは開発を行った会社に向けられることになる。
全体で見ると被害は限定的で、十年前にくらべると、経済への極端な打撃は少ないだろう。と言っても打撃は打撃だが。
駅前商店街の総菜屋・天竜も泥水に沈んでいるが、被害はさほどでもないはずだ。天竜の本店はすでにこのマンションに連なるショッピングエリアに移っている。呉服屋の藤原は十年前に駅前商店街をスッパリ切り捨てた。最も土地そのものは所有したままなので、駅前商店街の地権者の一人だ。
天竜は一年前から駅前店を国道沿いに移そうと準備をしていたし、閉店させるにはいい機会だ。高城家の当主が二年前に95歳で亡くなり、義理ももうない。堀内花壇の社長・堀内健次も同じだ。
高城家の現在の当主は評判の『ろくでなし』だ。天竜も堀内も『ろくでなし』のために動くわけがない。
貴之はまだ湯気のたつコーヒーを前に電話に手を伸ばした。
ショッピングエリアにある総菜屋・天竜と呉服屋・藤原。
商店街を生かすか潰すか、三者で話し合いをしなくてはいけない。
極力冠水していない道路を走って京司朗とみふゆは駅前市民プラザに向かっている。
冠水していても通れそうな道は通っている。判断は京司朗がしているが、京司朗と一緒なら安心だとみふゆは思った。
すぐに動き回れるようにみふゆはジャージを着てきた。早朝のウォーキングにでも出かけるみたいなグレーの上下。ピンクのラインが入っている。動き回って熱くなってもいいように、なかには半袖のTシャツを着た。
乗せてもらっている車は昨日と同じ京司朗の愛車・ブルーのマセラティだ。
高級外車にこんなジャージを着て乗ってしまって、みふゆは京司朗の隣の助手席で、心のなかで『ごめんなさい』と謝っていた。
京司朗も近寄りがたいいつものスーツ姿ではなかった。形はスーツだが、グレーのデニム調のジャケットにネイビーの丸首のカットソー、ジャケットと同様のパンツと、カジュアルな様相だ。セットアップスーツ、いわば普段着だった。
きっと京司朗はどんな格好をしても女性の目を惹く存在だと、みふゆは京司朗の横顔を見ていた。
そして、二人きりになったこのチャンスに交渉したいことがみふゆにはあった。
「どうした?」
京司朗は横目でちらりとみふゆを見た。
「え?!」
みふゆは驚いた。自分から話しかけるつもりが話しかけられてしまった。
せっかく頭の中で何の話題で話しかけ本題に持っていくかのシミュレーションをたてていたのに、いとも簡単に吹っ飛ばされてしまった。
「さっきから俺の顔を見てるが」
ジロジロ見すぎていたか。しかしこのチャンス、モノにしなくては。
「すみません・・。あの、えーと・・・お話ししたいことがあって・・」
交渉開始。
「なんだ?」
「仙道さんって呼んでもいいですか?」
「何故?」
「・・何故・・って・・・、みんな仙道さんって呼んでるから・・。一番最初に組長先生が若頭って言ったのでその後も若頭って呼んでましたけど・・、考えてみたら若頭って呼んでるのはわたしだけで、他の皆さんは仙道さんって呼んでると気づいたんです。今さらなんですが・・・。だから・・・仙道さんの方がいいかなと思い、・・・考えたしだいで・・・ございます・・」
最後の方が自信無げにうつ向いて、蚊の泣くような小さな声になった。
「京司朗でいい」
「・・はい?」
「京司朗でいいと言った」
「京司朗・・さん・・・?」
「呼び捨てでいい」
「━━━呼び捨てはムリですっ!」
「なんて呼びたいんだ?」
「だから仙道さんと・・」
「却下」
「・・・『若頭』の『若』さん」
「やめてくれ」
「京司朗さん・・・」
「『さん』は要らない。『京』だけでもいい」
「京・・?組長先生がよく呼んでる・・?」
「そうだ」
「京・・・・・さん」
「『さん』は要らない」
「ムリです、年上の人を呼び捨てなんて」
「そうか、・・最後の呼びかたで手を打とう」
「京さん?」
「そうだ」
適度なところに双方納得の着地点が決まり、みふゆはほっと胸を撫でおろした。一応は交渉成立である。
━━━京さん、か。慣れてきたら『京お兄さん』とか『京兄さん』とか・・・呼んでみる?海斗君達は『京にぃ』と呼んでるし。いやいやとにかく若頭を『京さん』と呼ぶことに慣れよう。
まずは小さな一歩から。
「会長は?」
京司朗に指摘されみふゆはドキリとした。
「・・やっぱり・・・『会長』って呼んだ方がいいでしょうか・・?社長が『組長』って呼んでるし、そう教えられたので今まで組長先生って呼んでたんですけど。お花やお茶の免状を持ってるし。もしかして・・・・凄く失礼でしたか・・?!」
みふゆは京司朗の横顔に問いかけた。
まるで世界の終焉を迎えたような表情をしていて京司朗はやや焦った。
「い、いや、そうじゃなくて・・『父親』としての呼び方だ」
みふゆは安堵しつつもちょっと躊躇して、
「・・・いつか・・『お父さん』と呼べたらいいなと思っています。今すぐは無理だけど・・・は、早めにいつか・・必ず・・・」
恥ずかしげに微笑んだ。
「お父さんと呼ばれたら、手放しで大喜びするだろうな」
貴之なら屋敷中を飛び跳ねて喜んで、大盤振る舞いするだろう。
京司朗は想像して微笑った。
京司朗のイメージは芍薬だ。初めて会ったときから変わらない。
みふゆは京司朗の微笑みに、芍薬が大輪の花を咲かせる瞬間を見た気がして感動した。
仙道京司朗が、惣領貴之という人間をどれだけ大切にしているのかを垣間見たのだ。
━━━惣領貴之という人にふさわしい娘になろう。そして、仙道京司朗という・・この人にふさわしい妹になろう。少しずつ、少しずつ・・・。
みふゆは心でそっと誓った。




