そして、私が残った
重力加速度は9.8メートル毎秒毎秒。崖の高さが20メートルなら2秒もあれば海に落ちるはずの霧島の身体は、崖から離れると空中で静止した。同時にあいの開いた口から洩れるはずの「あ!」という声だけではなく、すべての男が聞こえなくなった。光だけは見えたが、重力と音が静止した。そのまま何秒が過ぎたのだろう? 波の音が戻った時には霧島の身体は黒い海に消えていた。
突然の強烈な吐き気。あいは必死にこらえた。嘔吐物が自分の足跡を示すとは思わないが、よけいなものを残すのは絶対に避けたかった。
滑り落ちないように足もとに注意をして、あいは来た道をゆっくりと下った。歩いている間、目に映るすべてが嘘で、目を閉じている方がよほど真実のような気がした。
何も見ていないよ、BMWがそう語りかける。ドアを開けてあいは運転席に戻った。
早く車を出したいのに、早く車をここから連れ出してあげたいのに、心臓がバクバクして目を開けていられない。
「なにやってるのよ、私」あいはハンドルに顔を伏せたまま、わざと声を出した。自分に聞かせるように。
彼の身代わり? どうやったら身代わりになれると言うのよ? 私が大好きだった彼は、夫に殺される前にとっくに死んでいたのに。
どうしてあんな風に変わってしまうまで、私のことを思い出してくれなかったの?
あなたを助けることができたかもしれないのに。
殺人は夫には荷が重すぎた。あなたを殺してから夫は精神を病んでしまった。夫が死んだとき、私は少しだけほっとした。夫が秘密を漏らしてしまうのではないかと、私はいつもビクビクしていたから。
どうして私はこんなどうでもいい人間を殺す気になったのだろう?
彼の死と夫の死はともに私のせいだ。だから、私は二人を殺したつもりでいた。
どうしてそんな風に思ってしまったの? 私は誰も殺していなかった。私には何の関係もない人間をつい先ほど崖から突き落とすまでは。
私はどうすればいいの? 誰にも頼れない。
貧乏な頃が幸せだったなんて、バカじゃないの…。何かを手に入れられるなんて幻想だ。
とにかく帰るしかない…、あいはゆっくりとアクセルを踏んだ。
最終話を追加しました。
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