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私はこの場所に栞を挟んだ

診察を終え、一人の夕食をすませた会田あいだあいがテレビでNetflixを観ていると、インターホンがなった。あいはリモコンの一時停止を押して、席を立った。

門扉の前に見覚えのない男が立っている。その姿がインターホンに映っていた。

「はい」あいは少しだけ声のトーンを上げて言った。

「オレだよ、謝りに来た」男ははっきりした口調で言う。

「はい?」

和音かずね? きみは和音だろう?」

「人違いです」

「間違いだと言うならせめて顔だけでも見せてくれよ」

「お帰り下さい」

「和音、オレだよ、霧島きりしまだよ」

似たようなやり取りがかつてあったことをあいは思いだす。ずっと触わらずにいたのに、封印していたものを引き出してしまった。

この男をこのまま帰したら、たぶん私の気がすまなくなる…、そう直感した。「門を開けます、ドアの前まで来てください」そう告げると、あいは一度洗面所に向かい、新しいマスクをつけてからゆっくりと玄関に向かった。段差のない沓脱で自分のサンダルを見たが、スリッパのまま玄関のドアに顔をつけて言った。「そこにいますか?」

「いるよ」男は答える。

「私は緊急通報の準備をしてスマホを握りしめています、鍵を開けますが、私がいいというまでドアを開けないと約束してくれますか? 約束を破ったらすぐに通報します」

「約束する」

あいはドアの二つの鍵のうち一つを開けて様子をうかがった。男の反応はない。あいはもう一つの鍵を音が出ないように注意深く回し、すぐに向きを変えてドアから離れた。

「どうぞ、静かに開けてください」

あいの声を合図に男はゆっくりとドアを開けた。マスク姿のあいは薄い生地のスウェットの上下というやる気のない格好をしていたが、目元を見る限り実物も美人だ、と男は思った。

「3メートル、わかる?」あいは言う。「この距離を保って、もし私との距離を3メートル以内に詰めたらすぐに警察に連絡する、いい?」

「ああ」

「鍵はしなくていいわ、靴を脱いで上がって」

「お邪魔します」

男が前に進むのに合わせてあいは後ろに下がる。先ほどまで見ていたNetflixのクライム・ドラマだったら、男に銃口を向けたまま後ろに下がるところだろう。拳銃の代わりに、あいは通報用のスマホを右手にしっかりと握っていた。

ドアを開けておいたリビングに男を誘導し、ソファに座らせた。あい自身は、男の挙動が観察でき、いざとなればすぐに外に逃げられるように、男の横に3メートル離れて立った。念のために。

「どういうこと?」あいは訊いた。ライニングが擦り切れた、薄汚れた白のスニーカー。つま先の色が薄くなったいかにも安そうなソックス。他の選択肢がなくて短く刈り込んだ髪の毛。男の外見とここまでの動きを見て、たいして害はないだろうと判断し、あいは自分が主導権を握ることにした。

和音かずねじゃないのか?」

「誰?」

「オレを許す気がないってこと?」

「だいたい、あなたは誰?」

霧島卓也きりしまたくや、本当に覚えてないのか?」

「知らないわ」

「悪かったよ、本当にごめん、…『きみの顔が好きになれなかった』などと酷いことを言った、心から反省している」

「ああ!」あいはピンと来た。「そういうこと?」

「え?」男は訝し気な顔をする。

「…もしかして、『令和の口裂け女』ってWeb小説を読んだ?」あいは勝ち誇ったように言う。

男は首を縦に振ると、何かを考えているかのようにしばらく間を置いてから言った。「あれはキミが書いたのか?」

あいは答える代わりに訊いた。「どうやってあの小説を見つけたのか教えて」

男はまた少し間を置いてから言った。「『きみの顔が好きになれなかった』という、オレが昔言った言葉をたまたま検索した」

「あなたが和音という人に言った言葉がそれ?」

「そうだよ」

「へえ、興味深いわ…、もしかしたら、作者に連絡をして私のことを教えてもらったとか?」

「そうだよ」

「なるほどね…、で、私のことを何て?」

「何も、…ただネットのリンクを送ってきた、そこに君が出ていた」

「あら…、だったら、あなたが探している和音という人とは別人だとわかったでしょう?」

「いや、まだ断言はできない」

「どうして?」

「だって、君は医者だろう? 顔なんていくらでも変えられる、それに名前だって変えようと思えば変えられるんじゃないか? 『かずね』という名前は漢字で『和音』と書く。君は『わおん』と呼ばれるのを嫌がっていた。五十音の一番最後の三文字だと言って、名前を変えるなら最初の二文字の『あい』を選ぶのは悪くないんじゃないか?」

都合のいい思いこみだわ、…そう思うとあいは愉快になってくる。「やはり別人よ、私は生まれてからずっとあいと名乗っている、調べる気になればすぐにわかるでしょうね、これ以上何かある?」あいは男が食い下がってくれるのを期待して言った。

「あの小説を書いたのはキミなのか?」男は場をつなぐつもりで訊いた。

「だったらどうなるの?」そう言ったら男がどう反応するか、あいは純粋に知りたかった。

霧島卓也と名乗った男は思い出す。メッセージを送った特に、「きみは和音なのか?」とオレは確かに訊いた。それでもこの女は返事を送ってきた。ということは、この女は寂しかったのだ。小説を投稿して誰かが現れるのを待っていたのだ。大丈夫、やはりオレには運が巡ってきた。とりあえずは、下手に出てみよう。

「あの小説の通りだとしたら、…つまり、オレが和音に言ったのと同じ言葉を、君が昔別れた男に言われて、いまだにそれが心の傷になっているのだとしたら、オレが彼の代わりに謝るよ、オレを殴って多少なりとも気が晴れるなら、好きなだけ殴ってくれていい、きみとオレが出会えたことは意味があるんだ…、オレは君の心に寄り添えると思うよ」男はあいの目を凝視して言った。

「つまり、あなたが彼の代わりをしてくれるってこと?」

「うん」

「それがどういう意味かわかってる?」

男は何と答えたらいいのかわからない、あいは言葉を継いだ。「まあ、いいわ、私もあなたと似たようなものよ、昔言われた言葉をたまたま検索したらあの小説にたどりついた、誰が書いたのかすぐにわかったわ、外見は礼儀正しく社交的に作られた機械みたいだけど、中身は血の通った人間よ、それがわかって嬉しかったわ」

「君じゃないのか?」

「ねえ、彼の代わりをするというあなたの提案を受け入れてもいいわ、そのかわり私の言うことをきいてくれる?」

「もちろん」

「運転できるでしょう?」

「ああ」

「ドライブに連れて行ってくれない? あなたを案内したい場所があるの」

「オレを?」

「そうよ」

「どこ?」

「口では上手く説明できないわ、…着替えて車のキーをとってくるから、あなたは先に外に出てくれない? 車の場所わかるでしょう? 誰かに見られないように車の陰に隠れていてよ」

「わかった」…男は立ち上がった

「近づかないで」あいはキツい口調に変わる。「距離を詰めたら警察に通報するわ」

男は動きを止め、あいはリビングの奥に移動した。

「どうぞ、そのまま玄関にまっすぐ向かって外に出て、…あなたに背中を見せたくないから一度鍵を閉めるわ、…大丈夫、言う通りにしてくれれば通報しない、着替えてくるだけよ、本気で通報する気があるなら私はとっくにしているから」


建物の外に出るとすぐに、玄関の鍵が閉まる音が聞こえた。

BMWに近づき、物陰に潜むかのようにしゃがむと、霧島は顔が綻ぶのを抑えきれなかった。

まさか、こんなに上手く行くとは! 組織に属し、競争に晒されれば、他人を蹴落とそうとギスギスする。でも、人間は本来、優しくて寂しい。自分が弱くて惨めな人間であることを正直に伝えれば、誰かが助けてくれる。他人を助けることで寂しい人間は虚栄心を満足させる。実際にオレは彼女に何一つ嘘はついていない。それでも彼女はオレに心を開いた。焦るな、ゆっくりでいい。このBMWも、この広い家も、上手くやればこの先オレのものになる。しばらくの間は彼女に尽くして楽しくやろう。

霧島はBMWに沿ってゆっくりと歩きながらボディを撫でた。両手を目の前でゴーグルのような形にして、助手席側の窓に顔をつけて社内を覗こうと試みたが、暗くて中は見えない。あきらめて膝を曲げ、タイヤとホイールに触れた。

世の中には高級車が溢れているが、一生懸命働いてもたいていの人間は手に入れることができない、それよりも大事なのは運だ、運は貯めることができる、ささやかな幸せのために運を使うなんてもったいない、悪いことが続くということはそのあいだは運を貯めているということだ、この数年何一ついいことはなかったけれど、それでよかったのだ…、そんなことを思いながら霧島はあいがいるはずの建物を見た。まだ明かりが消えない。

それにしても、…ちょっと遅くないか? 時間を気にしていなかったが、もう15分くらいここにいる気がする。逃げた方がいいのか? いや、通報されていたらもう手遅れかもしれない…。でも、何か犯罪になるようなことをしたか? オレは正面から堂々とこの家に入り、ここにいろと指示されたからここにいるだけだ…。

部屋の光が消えないまま、玄関のドアが開き、あいが出てきた。

そういえば女の身支度には時間がかかる、霧島はかつて自分が結婚していたことを思い出した。

ゆっくりと歩いてきたあいは、車の後ろから1メートルほど離れた場所で止まった。黒いワンピースを着ていた。広く開いた胸元を隠すようにデコルテの辺りに右手をおき、左手にはハンドバックというより小さなボストンバッグと呼ぶべき黒いバックを提げている。足元は赤いハイヒール。

「運転席に座って」あいはBMWを開錠して言った。

霧島は車の前を通り言われた通りにした。あいは左側のドアを開けて後部座席に乗り込んだ。

「BMWは初めて?」

「うん」

「大丈夫、オートマはみんな一緒よ、1分もすれば慣れるわ、ねえ、ナビの履歴見れる?」

霧島はナビをいじり、履歴を簡単に見つけた。「あったよ」

「スクロールするとバス停の名前があるでしょう?」

「ああ、これかな?」

「とりあえず、黙ってそこまで運転して」

霧島は目的地をセットした。「所要時間は25分です」ナビの音声が女の声で霧島に囁いた。


10分ほどで市街地を抜けると、人工の明かりがまばらになる。道はまっすぐで信号機さえ出てこない。地方都市の郊外の殺風景な夜を、会話のない二人を乗せたBMWが進んだ。ナビの画面によれば左手は海だが、道路沿いの左側の土地は隆起して、海は一向に姿を見せない。アクセルを踏んだ感じから、ずっと上り基調であることに霧島は気ついていた。

やがて、ナビの女の声が言った。「まもなく目的地です」

車のライトは誰もいないバス停を照らした。

「その先のカーブのところにスペースがあるでしょう車を止めて」後部座席からあいが声をかける。

「私が先に降りるわ、あなたは私が合図したら降りて、私の声が聞こえるように窓を開けてね」

「わかった」

あいはスマホを握りしめたまま車を降りて、「いいわよ」と言った。

霧島は運転席側の窓を開けたまま車を降りた。あいはキーのボタンを押して窓を閉め、車をロックした。

「しばらくこの道沿いに進んで、目的地までは15分くらい、少し歩くわ、私は後ろから指示を出す、わかった?」

「ああ」

霧島は歩き出した。後ろからコツ、コツ、とあいのヒールの音がついて来る。

「一応ライトを持ってきたけど、月明かりで十分ね」肩越しにあいの声が聞こえる。

ぼやけたまるい月が東の空に浮かんでいる。

「朧月夜だ」霧島は言った。

朧月夜という言葉は知っていたけど、これのことを言うのか、あいは男の後ろを歩きながらそんなことを思った。

「そこを左に入って」3分ほど歩くとあいが言った。左側に茂みらしきものが見え、確かに上り坂になった山道らしきものもある。明るい昼間でも気づかずに通り過ぎそうだ。

「本当にここ?」霧島は振り向いて訊いた。

「大丈夫よ、その先は一本道だから」あいは距離を保つように立ち止まって答えた。

照明らしきものはなにひとつないのに、月明かりのおかげで足元がしっかり見える。途中、砂利の混ざった傾斜の急な場所でスニーカーの底がずるっと滑り、霧島は体を支えるため右手を地面に着いた。「大丈夫?」背中越しにあいの声が聞こえる。霧島は大丈夫の合図のつもりで左手をあげた。霧島が再び歩き出すと、あいはこともなげについてきた。

結局、ずっと山登りをさせられている。しかも途中から土ではなく岩の上を歩いていた。額から溢れた汗が霧島の目に沁みた。鼻腔には磯の香りが漂い、耳には波の音も届く。五感が覚醒し、生きていることを実感した。視線の先には頂上らしきものが見える。あれが目的地なのかをあいに訊こうとしたが、声を出すよりこのまま歩き続けた方がまだ楽な気がして、霧島は歩を進めた。

「着いたわ」というあいの声が耳に入る前に、霧島は足を止めた。登った先は、霧島のアパート程度の広さのほぼ平らな岩の上。その先は遮るものがない。朧月を浮かべた空と月明かりに照らされた海があるだけ。

「どう? 本物の断崖絶壁よ、東尋坊は有名だけど、ここもなかなかでしょう? しかも地元の人もあまり知らない、観光客なんて一人も来ないわ」

あいの声が聞こえたが、霧島は振り返らずに「すごいな」と呟いた。

「危ないからあまり前に出ない方がいいわ、その辺で止まって」

「ああ」

「もう20年も前になるわ、私はこの場所に栞を挟んだ」

「栞?」

「そう、…友達に誘われて何人かでバスを降りて、今通った道を歩いて初めてここへ来た、この景色を見て私は言葉にできなかった、美しさに圧倒されたとかじゃなくて、意味が分からなかったの、ただ、何かが引っかかった、いつか、…そのいつかが数か月後か、数年後か、あるいは数十年後かはわからなかったけど、この場所が必要になるときが必ず訪れる、そんな予感がした、…でも、予感なんてものは浮かんでは消える、消えてしまったら二度と思い出すこともない。だから私はこの場所に来た日付を心に刻んだ。パスワードに使う数字をここに来た日付にした。そうすれば、何かのはずみでここに栞を挟んだことを思い出すの…」

あいが近づく気配を感じながらも、霧島は、あいの思い出に共感しようと、夜の海を黙って見ていた。

突然、霧島は右肩に鋭い痛みを感じた。振り返ると、あいは今通ってきた道を滑るように下り、視界から消えた。自分の右肩に目をやると注射器のようなものが刺さっている。体に力が入らない、そう思う間もなく霧島はその場に倒れた。倒れたのに痛みも感じない。あいが戻ってくるのが見えた。

「何をした?」声は出た。

「ちょっとした麻酔よ、もう手足は動かないわ」

「どうするつもりだ?」

「彼の代わりになりたいって言ったのはあなたじゃない? 私は彼にこうするべきだったのよ、そうすれば今頃私は自由だったのに…」

「なんのことだ?」霧島は脇に立つあいに見下ろされていた。すぐ側にあるあいの脚に触れることもできない。

「ねえ、私がここであなたを殺して、死体をその崖から突き落としたらどうなると思う?」

「どうなるって…」

「あなたの肺には空気が入っている、そのせいであなたの死体は浮くのよ、わかる?」

「ああ」

「じゃあ、生きたままあなたがこの崖から転落したらどうなるかしら? 手足を動かせないあなたは泳ぐこともできないでしょうね?」

「溺死?」

「そうよ、溺れている間あなたの肺には水が入り重くなる、重くなったあなたの遺体は上がらない、海の底に沈むわ」

「おい…」

「あなたの訃報を聞いたら悲しむ人はいるかもしれない、でもあなたの訃報は誰にも届かないわ、あなたがいなくなっても探してくれる人はいないでしょう? いいじゃない、誰にも迷惑をかけない終わり方で…、彼もそれでよかったのよ」

あいは笑顔を浮かべようとしたが、顔の筋肉を思い通りに動かせない。目の前に横たわる男の身体の不自由さが伝染した気がする。突然、悲しさがこみ上げた。

「辛いでしょう? もう何も言おうとしないで」あいは霧島の目を見て、囁くように言った。「秘密を抱えるのはけっこう大変なの、…私の前に現れてくれてありがとうね、全部話してあげるわ」

霧島は口を動かそうとしたが言葉が出ない。

「母子家庭に育ったけどいじめられたことはないわ、友達は普通にいた」あいは滔滔と語りだした。「一緒にいれば普通に楽しい、でも友達というのが何なのかよくわからなかった、とにかくこの街を出ていきたかったら、出て行けば今の友達とも一生会うこともない、いつかあの人たちのことを忘れるし私も忘れられたいと思っていた、この街に自分の居場所なんていらなかった、とにかくここから逃げ出すために誰にも頼らず勉強だけをした、かわいげのない高校生だったのよ、…都内の大学に入ったらそんな私でも目をかけてくれる人がいたわ、2年先輩で、私はその人の気を引こうとしてふざけたり、生意気なことを言うと、『おまえのそういうところがかわいいよ』って言ってくれた、でも彼にはすごく美人の彼女がいた、…就職してすぐ、彼はその美人の彼女にフラれた、就職した先で仕事ができそうな年上の男にとられたみたい、彼はものすごく落ち込んでいた、私は彼を慰めるために体を差し出したの、彼は私の体に溺れた、体だけは私が一番だって言ってくれた、でも心は別よ、彼はいつまでも別れた彼女を忘れなかった、…就活で内定をもらった時に私はもうおわりにしようって決心した、もう二度と会わないつもりで彼にさよならを言ったわ、彼は私を追いかけなかった、…でもダメだった、私が彼を忘れられなかった、…就職して一人暮らしの家賃を払ったら生活をするのがやっとで、私はすぐに夜のバイトを始めたわ、寂しくて彼に会いたいと連絡をした。彼はすぐに来てくれた、でも彼にはちゃんと付き合っている人がいた、それでもよかったのよ、あのズルズルとした関係が私には幸せだった、ある日彼はその人と結婚すると言ったわ、がっかりしたけど私はこの関係をずっと続けられると思った、でも彼に言われたわ、『君を愛そうと努力はした、でも君の顔が好きになれなかった、ごめん』、…私は誰にも消息を知らせず実家に戻って大学の医学部に入り、医者になって夫と結婚した、…この辺りはあの小説に書いてある通りよ」

あいはここまで話すと一息をついて、霧島の顔をしばらく見つめた。そしてまた言葉を継いだ。

「彼はね、私の居場所を突き止めたわ。仕事が終わって、夫と二人で夕食をとっていると、インターホン越しに彼が名乗ったのよ。まるで今日のあなたのようにね、彼は身の上話をしたわ、『離婚した妻とは音信がなく、子供はいない、転職した会社が日本からの撤退を決め、なかなか仕事が見つからない』、私はああ、やっぱりと思ったわ、そうなる予感があったから、そして突然私たちの昔の関係を卑猥な言葉で話し出した、彼はすっかり変わっていたのよ、10年以上も経ったと言え、見た目は確かに彼だったわ、でも中身は違う、全然別の人が特殊メイクで彼になりきって私を脅迫しているようだった、私は恐ろしくなって声をあげた、そうしたら、夫が彼を刺したのよ、…あの家には中庭パティオがある、外からは決して見えない、そこに彼を埋めたわ」

あいは淡々と話を続けた・

「彼を埋めてから、銀行のATMに暗証番号を打ち込んだとき、私はこの場所を思い出した。遅かったわ。夫が彼を刺す前に、『彼を亡きものにしよう』と相談してくれたら…。私はここに彼を連れてきて、今あなたにしていることを彼にしたわ。だって、彼がいなくなっても誰も彼を探そうとはしなかったはず、死体にならない限り誰も彼のことを思い出さない、…生きている彼をここで突き落としていたら、彼の遺体は永遠に見つからず、彼が死んだことさえ誰も知らず、夫を失った私はどこかで別の人生を送ることもできた、…皮肉なものよ、私は彼に会えてこの街を出てよかったと思った、でも結果的に彼のせいでこの街に戻り、彼を殺して死体を庭に埋めたことで私はこの街から二度と離れられなくなった、…若い頃、彼に振り回されて幸せだった私は奴隷の微笑を浮かべていたのよ、笑っちゃうでしょう? いまは本当の奴隷よ」

あいは霧島の顔をじっと見つめ、そして言った。「彼の代わりをしてくれるって言ったでしょう? お望み通り、私が彼にするべきだったことをしてあげるわ」 

霧島はなす術もなく、芋虫のように崖の上に横たわっている。その芋虫の臀部の辺りをあいは真っ赤なピンヒールのつま先でおもいきり蹴った。霧島は痛みを感じないまま、下半身が数十センチ横に動いた。意識はあったが「やめろ」と声に出すことさえできない。あいは霧島の肩の辺りを蹴った。今度は上半身が横にずれる。

霧島は最後の力を振り絞って、目で訴えた「旦那も殺したのか?」

あいは何も言わない。この男と話をする時間は終わった。もう一度右足で男の臀部を、次に左足で男の肩をおもいきり蹴った。男の身体は少しずつ着実に断崖に近づく。久しぶりに強度の高い運動をしたことで、あいの息が上がる。あいはマスクを外すと、はあ、と強く息を吐いてそのマスクを黒いバッグにしまった。真っ赤な口紅が耳元まで塗られていた。月明かりの下では、口が耳元まで裂けているように見えた。



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