伝染する万能感
「ジャックポット」という男 たぶん男が投稿した文章を最初に読んだとき。下村歩佳は、数時間で書きあげた小説を勢いのままサイトにあげたことを後悔した。どうやら自分は、ジャックポットの投稿を「キモ」の一言で忘れることができそうにない。想像できないことは実現できない、イメージトレーニングが大切、とよく言われるが、それは良い話の場合であって、悪い方に転ぶときは想定さえできていればどうにかなる。自分の身を守るには、実現してほしいことを想像するのではなく。絶対に実現して惜しくない最悪の事態を想像する、それが今までの19年の人生の中で身につけた処世術らしきものの一つだった。
検索すると、10万以上のPVがあるWeb小説の作家もいるようだけど、歩佳の場合はわずか100。ただ、数は問題ではないのかもしれない。歩佳は一人の不気味な男を引っかけてしまった。この男は、私にたどりつくかもしれない、―歩佳の頭の中を真っ黒でどろどろとした液体とも固体ともいえない何かが侵食し、口でも鼻腔でもなく両目から黒いものが流れ出る姿を想像した。もしこの男が私にたどりついたら、私を脅迫してでも小説のモデルのことを聞きだそうとするだろう。そんな危険な相手なら、あい先生の情報を渡して逃げてしまった方がいい。
そう考えると、なんとなく最悪のシナリオの想定ができたような気がした。そうなると、他のことを考える余裕も出てくる。このジャックポットは、本当にあい先生と付き合っていた男かもしれない。自分は嘘がつけない、と書いているが、それが信用できるなら、「きみの顔をどうしても好きになれなかった」とあい先生に言ってしまったことを、ずっと引きずって生きてきたのかもしれない。そしていま、私を通して、失ってしまったはずのあい先生との接点を引き寄せかけている。このまま私がジャックポットの投稿を無視したら、二人が再会する機会は永遠に失われるかもしれない。でも、もし私が彼にあい先生の情報を渡したら、止まっていた二人の時間が再び動き出す。あの言葉を覚えていたくらいだから、あい先生はいまでも彼のことを恨んでいるかもしれない。あるいは、ずっと復讐を考えていたかもしれない。いずれにしても、二人の間にこれから何が起こるのか、すべて私が握っている。二人を動かせるのは私だけ、私は万能の神…。
少し前までの恐怖感はどこへ行ってしまったのか…、歩佳は一人で盛り上がり過ぎていることに気がついた。落ち着いて…、歩佳は自分に言い聞かせる。ジャックポットは嘘つきじゃなくても、あい先生とはまったく関係ない人かもしれない。別れるときに「きみの顔をどうしても好きになれなかった」と女に告げる男は、私が知らないだけで実は意外といるものなのだろうか?
ネット探すと、あい先生が掲載されている市の広報誌が見つかった。
「ジャックポットさまがお探しの女性は、この人でしょうか?」歩佳は自分の指が叩いた文字を見つめて、「この文章は違う」と感じた。この世を作り出しのたが神だとしたら、神は最小限の創造しかせず、ほとんどを成り行きにまかせて、どう発展するのかを楽しみに見ていたのではないだろか。
歩佳は自分の言葉は一文字も書かず、ジャックポットに市のサイトのURLだけを送った。
========================================
気がついたら、ネットカフェのPCのブラウザに「ごめん、君を愛そうと努力したけど、君の顔をどうしても好きになれなかった」と自分が昔口にした言葉をタイプしていた。試しに検索をしたら、『令和の口裂け女』というWeb小説がヒットした。
オレは読み進めてみた。
これは…、フィクションじゃない! いや、小説だからフィクションかもしれないが、モデルがいる。これは和音の話じゃないか?
和音が女医になっていたなんて想像もしなかった…!
ジャックポットと名乗って、ダメモトで感想という形でMiss Mという作者にメッセージを送ったら、URLが記載された一行だけの返信が来た。
クリックして、ガッカリした。
女医の名前は会田あい、違う、和音じゃない。名前を変えた? いや、顔も違う。
でも、ちょっと待てよ…、この女医には財産がある。これはもしかしたらチャンスじゃないか?
別に自分が死にたかったわけじゃない。オレはなんとなくわかっている。世の中には二種類の人間がいる。安定した生活に幸せを感じる人間と、浮き沈みの激しい人生の中に生の実感と喜びを見出す人間の2種類だ。だいたい世の中はうまくできている。捨てる神あれば拾う神あり。落ちるところまで落ちれば誰かが手を差し伸べてくれる。絶望している人間はどんどん深い穴に落ちて、もう二度と浮かび上がられないと考えている。もう、あの場所には戻れないのだ、そんなことを考える。それは大きな間違いだ。人間が進める方向は上でもなければ下でもない、ましてや後ろでもない。前だけだ。だから、落ちるなんてあり得ない。落ちるところまで落ちれば新しい出口が見つかる。いつだってそうやって乗り越えてきた。
自分のことを運のいい人間だとは思っていない。運がいい人間なら沈むことはないだろう。沈んでもどうにか浮かび上がってきたのは、自分が特別だからではなく、人間なんてしょせんこんなものだからだ。
でも待てよ、こんな状況でもどうにかなっているのだから悪運は強いと言うべきなのだろう。
Twitterで知り合った大学生の女とDMのやり取りをしているうちに、頼みがあるので電話で話をしたい、と言われた。今のオレはパパ活に金を出せるような身分ではないが、いまどきの若い女がどんな言葉で取引を持ちかけるかに興味が湧いた。電話の向こうの声は堂々としていた。彼女はオレに金を要求するどころか、「お金に困っているのでしょう? 10万円上げるわ」と切り出した。「その代わりに私を殺してほしい」
オレが返事に窮したことに気づき、彼女は丁寧に言葉を継いだ。「死にたいけど、苦しいのは嫌。未遂に終わるのも嫌。お金を上げるから私を殺してほしい。睡眠導入剤なんかいくら飲んでも体がおかしくなるだけで決して死ねない。私が睡眠導入薬を飲んで眠ったら首を絞めて殺してほしい。遺体の処理方法は指示します。」
彼女が指定した待ち合わせ場所にはいかなかった。あの堂々とした切迫感のない話しぶりから、裏があるのではないとピンときた。もっと割のいい仕事を紹介すると言って、特殊詐欺の一味に勧誘されるか、あるいは彼女はおとり捜査の女性警官かもしれない。顔だけ見ようと近づいただけで、張っていた警察官に取り押さえられるかもしれない。その予感はきっと全部ハズレだったのだろう。
ネットに女子大生殺害のニュースが出てきた。犯人は自分と同年代の男。被害者から「睡眠導入剤を飲んで眠ったところを首を絞めて殺してほしい」と頼まれたと供述している。報酬は10万円。遺体の処分も彼女に指示されていた。オレが待ち合わせ場所に現れなかったことで、彼女は別の男を探したのだ。その男も遺体の処理を彼女に指示された。でも、遺体が予想外に重く、上手く運べなかったらしい。男は殺人罪で逮捕された。「たかが10万円のために将来のある女子大生を殺した鬼畜」その男ではなく、自分がそう呼ばれるところだった。世の中には死にたい人間が少なからず実在する。それをオレは肌で感じた。10万円は彼女の全財産だったかもしれない。殺した男は金のためではなく、「殺してほしい」という彼女の気持ちを受け止めたからかもしれない。そうだとしたら男は情にほだされた。情にほだされる人間を見つける方が死にたい人間を見つけるよりよほど確率が高いはず。お金を持っていて簡単に情にほだされる人間を見つければ、オレはまだ這い上がれるはずだ。いま、何かいいことを思いつきそうな気がした…。
人は前にしか進まない、と言いながら、やはり若い頃のことを時々思い出す。オレは自分のことがわかっていなかった。今流の言い方をすれば、オレは自分を上手くプロデュースすることができなかった。オレは自分が何かしらの能力を持った人間だと思っていた。それが間違いだ。自分は何もできない。でも、若いうちはそんな男を好きになってくれる女がいる。器量が悪くて自分を甘やかせてくれる女が側がにいることを、恥ずかしいことだと思っていた。それは特権だったのに。「ごめん、君を愛そうと努力したけど、君の顔をどうしても好きになれなかった」オレはそんな台詞を吐いて和音のもとを去った。和音は誰かと結婚したのだろうか。結婚したとしてもきっとろくでもない男を食わせるのだろう。自分がその男になればよかった。
20年も前に和音に言った言葉を自分はまだ覚えている。オレはあそこで進むべき道を間違えたのかもしれない。まともな人生を生きようとしたらこうなってしまった。和音を働かせて自分は遊んで暮らしていれば、それこそお互いハッピーだったのではないか。オレが遊んでいても和音なら笑って許してくれそうだ。
会田あいという女医の顔は和音の顔とは違う。でも顔なんていくらでも整形できる。医者だったらコネクションはいくらでもあるだろう、
名前だって絶対に変えられないわけじゃない。
和音は周りから「わおん」と呼ばれていた。ほとんどの人間には悪意はない。「わおん」の方がかわいくていいとイノセントに思っていた。でも、彼女は「わおん」と呼ばれるのが好きじゃなかったし、「わおん」と読めてしまう「和音」という名前が好きではなかった。
「わおんって呼ばないで」一度泣きながら言われた。「…だって、『わをん』って『あいうえの』の最後の3文字でしょう、一番最後、なんかバカにされてる気がするの…」
オレは、それ以来彼女のことを「わおん」とは呼ばなかった。
あい、五十音の一番最初の二文字。彼女が名前を変えて新しい人生をやりなおすとしたら最高の名前じゃないか? やはりモデルは和音なのか? だとしたら、オレも人生をやり直せるんじゃないか…。
大丈夫だ、自信が湧いてきた。もしこの会田あいという女医が和音とは別人ならこの女に取り入ればいい。
綺麗だって褒めればどうにかなる、女なんてそんなものだ。
オレは嘘をつくのが上手じゃない。だから正直に行こう。自分が和音にしたことを告白しよう。和音の代わりにこの女に土下座してもいい。そうしたら、この女が和音の代わりにオレを許してくれるかもしれない。
今までいろいろなことがあった。そのすべてがここにつながる。今までいいことがなかったのは、チャンスが巡った時にモノにできる経験を積んできたのだ。財産を持った寂しい女と出会いチャンス何て滅多にあるものじゃない。確かにオレは男社会では上手く生きられなかった。でもコンプレックスを抱えた女に優しくするのは難しいことじゃない。会田あいの正体が和音でも別人でも、どちらでもオレは上手くやれる。こういうことならオレ万能かもしれない。