Miss Kとジャックポット
夏休みの1週間を実家で過ごした後、新幹線で午後の東京駅に着いた下村歩佳は、このまままっすぐ千葉に戻るのはもったいない気がした。東京に出てきたというのに、まだあまり縁のない山手線に乗ってどこか適当なところで降りてみようか…、歩佳は内回りの山手線のホームに向かうエスカレーターに乗った。
田舎の電車の方がずっと混んでいると感じるほど、山手線は空いていた。歩佳は座席に腰を下ろすと両足の前にキャリーケースを置いて膝をくっつけた。外の景色を眺めるつもりが、景色よりもずっと速く動く液晶画面の動画広告ばかりに注意を持っていかれてしまう。音がないのに、うるさくてたまらない。
秋葉原で自分と同年代のカップルが乗ってきた。男は女の腰に手を回し反対側のドアに寄りかかった。女は男の胸に右手の掌をあててしだれかかっている。男は硬そうな髪を金色に染め前髪で両目を隠していた。パッチワークのようなよくわからない半袖のシャツを着て、裾の短いパンツにスニーカー。女はブランドのバッグを大事そうに抱えた女は男物のワイシャツのような長袖のシャツの胸元を広げ、ミニスカートに膝まである踵の高い白いブーツを履いている。二人は見つめ合って、周囲に誰もいないかのように醜い笑顔を浮かべていた。
歩佳は二人をちらちらと見てしまう。女の方が高校の同級生に似ていた。本人カモしれないが確証はない。地味な顔をした田舎の高校生だって東京に出てメイクを覚えて数か月過ごせば別人になれる。女は男から一瞬たりとも視線をそらせようとはしない。歩佳を含め周りの人間など誰一人目に入らないかのように傍若無人に振る舞っている。見ている方が恥ずかしい、そう感じながらも歩佳は無視することができない。液晶画面の動画広告よりもさらに不快だった。歩佳は山手線に乗ったことを後悔した。
帰宅してシャワーを浴びると高校の同級生の奥宮香澄からLINEが来ていた。
「今日同じ電車だったでしょう? 声をかけられなくてごめん」
やっぱり彼女だった、しかも私の存在に気づいていた。
既読を確認するかのように、LINEの電話が鳴る。
「香澄?」
「歩佳、元気だった?」
「うん、元気よ、私だって気づいてたんだ?」
「すぐにわかったわ、でもごめんね、二人の時に他の人と話すと彼の機嫌が悪くなるの」
「そう…」
「ねえ、歩佳は彼氏できた?」
「ううん、勉強が結構忙しくて…」
「ああ、そうなの? 私もけっこう忙しいんだ、メイドカフェでバイトしてるから…」
「そうなの?」歩佳は一瞬驚いたが、一緒にいた男は香澄と付き合いたいのではなく、メイドカフェのメイドと付き合いたいだけなのだろうと勝手に納得をした。
「歩佳もやりたければ紹介するわ、綺麗な格好できるわよ」
「だから、そんな時間ないわ」
「これから4年間ずっと勉強するつもり?」
「医学部は6年あるわ」
「歩佳って楽観的ねえ、羨ましいわ、私はもともと悲観的だから」
「そうなの?」
「だって、世界は明日にも滅びるかもしれないのよ、今を犠牲にしたらもったいないじゃない」
「今を犠牲にしているつもりはないけど…」
「どうかしら? ありもしない未来の奴隷になってない?」
「私が?」
「そうよ」奥宮香澄は語尾にふふと鼻で笑うような音を付け加えた。その笑い声は電車の中で香澄の微笑を歩佳に思い出させた。一人でいるときは影が薄いのに、電車の中で男と抱き合っていたときの、万能感を手に入れたとでも言いたげなあの醜い微笑。
あれは奴隷の微笑。男に所有されていることを喜んでいる奴隷の微笑。私が男だったら、香澄のあの顔をかわいいと思えるのだろうか? あんな醜い微笑を浮かべる男を好きになれるのだろうか?
「ごめん、君の顔が好きになれなかった」あい先生が男にフラれた時に言われた言葉と、香澄の醜い微笑が突然つながった。
東京にいた時のあい先生は、奴隷の微笑を浮かべて暮らしていたのかもしれない、でも相手の男はあい先生を所有してくれなかった…。
「…彼と一緒にいられたら世界なんていつ滅びてもいいわ、歩佳も愛する人ができたらそう思うわよ」
「彼氏とお幸せに、お似合いだったわ」歩佳は電話を切るために心にもないことを言った。
新幹線と在来線の中で揺られていただけとはいえ、数百キロの距離を移動し、おかしな旧友と話をしたせいで、疲れて眠くなるどころか、逆に疲れのせいでベッドの横になっても歩佳の頭は冴えてししまった。頭の中に短い小説の構想と『令和の口裂け女』というタイトルが浮かび、PCを開いて彩華は心不乱にワードに文字を入力した。
書き終えた時には外が明るく、朝の光を見たとたんに緊張感が切れて意識が朦朧としてくる。そのせいか、経験もないのに、どうしても小説サイトに投稿してから寝ようと自分に言い聞かせた。
必要な箇所をどうにか入力して、歩佳は初めて書いた小説をサイトにアップした。
香澄の名前をひっくり返したら「みすか」、そこから「Miss K」という著者名を思いついた。
あらためてベッドに横になったが身体は脱力状態なのに頭は興奮状態ですぐには寝付けなかった。ただ、そのすぐというのはおそらく想像したよりもずっと短い時間だった。歩佳が再び目を覚ました時、太陽はすでに沈んでいた。
小説を投稿したことはもちろん覚えていたが、自分の書いたものを読み返す気にはならなかった。読んでくれる人がいるとも思えない。サイトから削除する方が手間がかかりそうだ。このまま忘れてしまっても構わない、と歩佳は考えた。人間というのは異常な行いをするものだ、そのことだけは今身をもって体験した気がしていた。
なぜ突然小説を書きたいと思ったのだろう? フィクションなら誹謗中傷ができるからじゃないかな?
人間は毒を吐かなければ生きていけない 優しい言葉を発し続けている人をずっと見ていると、その人の顔がどんどん歪んで見える。
一週間ほどすると、怖いもの見たさからか、サイトのアクセス数を見たくなった。とにかく期待をするなと自分にいいきかせ、リンクをクリックした。昨日も今日もPVは1ケタだったが、トータルは100を超えていた。最初の二日間はそれぞれ30を超えるPVがあった。100人も見てくれている人がいたことに歩佳は驚き、自然と頬が緩んできた。しかも感想が1件届いていた。投稿者の名前は「ジャックポット」。
「Miss Kさま
『令和の口裂け女』おもしろくて何度も読み返させていただきました。
面白い小説はフィクション、すなわち嘘です。でも、その嘘に事実を混ぜることによってリアリティが増すのではないでしょうか? つまり、この小説にはモデルがいる、僕はそう確信しました。
この小説のモデルは、Miss Kさまご自身でしょうか?
そうであるなら、僕が誰なのかわかりますよね?
若い頃にきみにしたことをずっと後悔しています。僕はバカだったと反省しています。
僕がこの小説にたどり着いたのは、きみに言ってしまった言葉をずっと覚えていて、ふとしたはずみでスマホに打ち込んで、結果的にエゴサーチのようなことをしたからです。
「君の顔が好きになれなかった」僕は確かにこう言いました。僕はあの時きみともう会えなくなるなんて夢にも思わなかった。ただ、君の言う通り、僕は嘘がつけなかった。僕がきみのもとを去ったのではなく、きみが僕のもとを去った。
きみの想像した通り、僕の結婚は失敗でした。妻とは別れました。
小説を書いてくれてありがとう。おかげで奇跡が起こる予感がしてきました。
きみに会って直接謝りたいと、ずっと願っていました。
Miss Kさま、もしこの小説のモデルがあなたではなく、別の人だったら、彼女がいまどこにいるのか教えてもらえないでしょうか?
僕は心から彼女に謝りたい。もし彼女が僕に会いたいと思ってくれているなら、たとえ僕に罵声を浴びせたいと願っているとしても、僕は彼女の願いを叶えたいのです。
Miss Kさまが発表した小説が奇跡を起こす。素晴らしくないですか?
ああ、でもこの小説を書いたことを彼女には知られたくないかもしれませんね。
彼女がこの小説を読んだら、Miss Kさまの誰かわかるでしょう。
この小説のことは彼女には決して言いません。その代わり、僕が彼女を見つけることができた別の口実を考えてもらえないでしょうか?
僕は嘘をつくのが得意ではありません。小説の才能のあるMiss Kさまらなら、フィクションという名の素晴らしい嘘を思いついてくださると信じています。
また、面白い小説を書いてください。
ジャックポット」