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「ごめん、君の顔が好きになれなかった」

午後の診療は日常と割り切って淡々とこなせたが、最後の患者が帰ると会田あいだあいはどっと疲れて、椅子から立ち上がれなくなった。看護師や事務員にたった今かけた言葉さえ記憶からは消えて、相手が反応して初めて「ああ、私何か言ったんだ」と気がつく始末だった。

いまの下村歩佳しもむらあゆかの年齢の頃、私はあんなに丁寧な言葉で大人と話をしたことがなかった…、あいは思い出す。とにかく大人が嫌いだった。大人が嫌いだったから学校の授業も聞かず、塾へも行かず、ひとりで机に向かって勉強をした。あの頃の私のような高校生は今は居場所がないのだ。「寄り添う」とか「勇気をもらう」とか「感謝の気持ちを伝えたい」とか、口当たりがいいだけの空っぽな言葉と笑顔で本心を隠さなければいけないなんて、今の子供たちはなんて窮屈なのだろうと、心から同情する。私は医者としてやるべきことをやっているだけで患者に寄り添っているつもりなど少しもない。「勇気をもらった」という言葉を口にする人の99パーセントは常に勇気をもらうだけでその勇気を発揮して行動に移すわけではないし、そもそも私は誰かのために生きようなんて考えたこともない。下村歩佳の人生を左右してしまったというなら、それはやってはいけないことだった。

私は誰かの手本になるような人間じゃないから。

彼女は中学生の時に将来の進路を決めた。それがいいことなのか悪いことなのか、私にはわからない。彼女の年齢の頃、自分が将来医者になるなんて考えたこともない。あの頃の私のたった一つの願いは生まれ育ったこの土地を離れること。

喉の奥に苦さが広がる。こんな時はせめて心の中で毒を吐いた方がいい。


必要とされない人間なんて世の中にはいない、などと言われるが現実は反対じゃないかな?

必要とされる人間なんて世の中にいない、こちらの方が私にはしっくりくる。

世の中が優しい言葉で溢れているのは、不寛容さの裏返しなのだろう。

私は内科と小児科の医師として地域医療に貢献してきた、ということになっている。恥ずかしながら「先生がいてくれてよかった」と感謝の言葉を何度も頂戴した。そんな私が突然いなくなれば、患者は他の医者を探す。私がいなくても誰かが地域医療に貢献する。「必要とされる」「他人の役に立つ」などと言う言葉は、自分がやりたいことをしてこなかったことや、こんな生き方しかできなかったことに対する方便にしかならない。

ガレージに置いてあるBMWの5シリーズは5年前に夫が亡くなってから3000キロしか走っていない。トランクには一度も使ったことのない真っ赤なリモワのスーツケースと、一度も履いたことのない真っ赤なジミーチュウのピンヒールが箱のまま入っている。

仕事は手を抜かずにやってきたと思う。でも、つきつめれば、私は自分の患者には興味がない。一番愛した人を失った私が、誰かのために生きるなんて、客観的に考えたら狂気の沙汰だ。

職業柄、それなりに人は見てきたつもりだ。「孤独死はいや」という人に限って、ただ生きることに執着する。やりたいことを突き詰めれば最後は一人になるしかない。それを孤独死と呼ぶのは、やりたいことができず「家族や友人に恵まれた」という言い訳で塗り重ねられた人生を「素晴らしい人生」と呼びたい人たち。


私はこの街で美容師をしていた母に育てられた。父の顔は知らない。地元の進学校から東京の大学に進み、女子寮で暮らした。卒業後は都内でいわゆる一流企業に就職をしたが、アパートの家賃を払うと手元にはほとんどお金が残らない。3か月もしないうちに昼間の新入社員は夜の水商売をかけもちするようになった。平日の睡眠時間は3時間がいいところ。昔「ノー天気」という言葉があった。月曜から金曜から死ぬほど働かされ、土曜日は丸一日寝て暮らす。晴れていようが雨だろうが、外の天気など自分にはまったく関係がない。だからノー天気。私も土曜日は一日起きられなかった。そんな生活を一年も続けたら、もう無理だと思った。自分はどこかで歩むべき人生を誤った。自分の力で人生をやり直さない限り、私は流されて潰れていくしかない、それだけははっきりとわかった。私は水商売をやめ、大学時代の友人関係もすべて断って、昼間の仕事が終わると家へ直行して勉強をした。週末は図書館に籠った。6か月後、私は地元の国立大学の医学部の入試を受け、合格した。私は会社に退職届を出し、大学時代に知り合った人々に誰一人連絡せず実家に戻り、医学部の一年生として人生をやり直すことにした。

…と、いえば、聞こえはいい。

夜働いていたのは都内といっても埼玉県に近い、昭和の匂いがプンプンする場末のスナックだった。同年代の女の子ばかりで競争の激しいキャバクラとは違い、二十代前半というだけで希少価値がある。私なりの戦略のつもりだった。実際、一度面接に行ったその日から店に出た。夜の仕事に向かう前の会社帰りに、ウインドショッピングでもしようと銀座の7丁目辺りを歩いていたら、スーツ姿のチャラチャラした男と目が合った。私はすぐに目をそらしたが、男は私の目の前に笑顔で立った。白いワイシャツのボタンを上から3つか4つ外し、胸元からはゴールドのネックレスが覗いていた。「お姉さん、素人じゃないでしょう? うちで働いてみない?」男は私に名刺を差し出した。

―どうしてわかるの? そう口から出そうになるのを抑え、私はカッコつけて言った。「考えておくわ」

「いい線いくと思うよ、電話してよ」

私はこの話を彼にしたくてたまらなくなった。彼? …彼といっても彼氏ではない、彼は一度も私の彼氏にはなってくれなかった、彼と話すのは楽しかったけれど、それ以上にただ彼としたかった。

日曜日の夕方、私は彼に電話をした。

「来る?」と訊くと、彼は「うん」と答える。一時間後に私は駅まで迎えに行き、彼が気に入っていた中華料理屋で食事をして私のアパートに二人で戻り、すぐに抱き合った。

彼は惚れている女の話を私にした、

「どんな女なの?」と訊くと丁寧に説明してくれた。

「私よりその人の方がかわいい?」

「ああ」

もしかしたら、彼は一度も私に嘘をついたことがないかもしれない。

私と一緒に果てた後、「私を抱きながら目を閉じて彼女の顔を思い出していたでしょう?」と訊いてみた。

「うん」

最低な男。

それでも私は東京で一人で生きるのが怖かった、寂しかった。もともとは生活費を稼ぐために夜のバイトを始めたが、自分のためだと思うと嫌になる。男と会うには服や化粧品が必要だ。そのためのお金を稼いでいると思えば、彼の肌に触れて体温を感じていられる間は幸せでいられた。

一度は私からさよならを伝えた。わかった、と彼は答えた。でも私の方からまた連絡をしてしまった。彼は会ってくれた。私と会う時、後ろの時間はいつも空けてくれていた。

彼は時々酷い言葉を吐いたが、根はとても優しい人だった。だから優しい嘘の一つもつけなかった。私には一度も嘘はつかなかった。正直すぎて世の中をまともに渡れないようなダメな人だった。

ある冬の日、東京にややまとまった雪が降った。翌日は一日雲りで、舗道の雪は半分ほどが氷に変わった。私のアパートから駅までは歩道橋を渡るのが一番近かった。私は彼を迎えに駅まで行った。ヒールを履いてコートのポケットに手を突っ込んで歩いた。家に戻る途中、歩道橋の階段を下っていると彼がいない。振り返ると。彼はまだずっと上に方にいて、手すりにつかまったままおっかなびっくりと歩道橋の階段をゆっくりと下っていた。私は思わず吹き出したが、彼は自分の足元に集中して私が噴き出したことにも気がつかない。

「なんでスニーカーなのにちゃんと歩けないのよ?」私は彼に声をかけた。

「なんでヒールで普通に歩けるんだよ?」彼は返した。

「雪国じゃあ生きていけないわよ」

「そんなとこ、死んでも行くか!」彼は情けない声で悪態をついた。ああいうところが好きだった。あの頃の私はハイヒールで誰よりも速く走れる自信があった。ハイヒールの100メートル競走があったら私は優勝できたかもしれないと今でも思う。

でも、その先はどこにもつながらなかった。

彼は結婚すると私に告げた、もちろん私以外の女と。

そして私にこう謝った。

「君を愛そうと努力はした、でも君の顔が好きになれなかった、ごめん」

彼はきっとサラリーマンとしてうまくやっていけないだろう。私だったらきっと彼を食べさせて行ける。ヒモとして生きるのが彼にとって一番幸せなはず。私には確信があったけれど、それを伝えたところで彼は私を選んではくれない。

だって私の顔を好きになってくれなかったから。

もし彼が私を選び、あるいは形の上だけ私のヒモになっても、私の稼いだお金で他の女と関係を持つだろう。そうなったら私は惨めな女だと思われるが、それが本当に惨めなことなのか私にはいまさら確かめようもない。そういうところにしか幸せを感じられない女が世の中にいないなんて誰が言い切れるのだろう?

彼は私との関係を友人たちに隠していた。私も当時は彼のことは誰にも話さなかった、いや一人だけ話した。心の中にしまっておけなくなって母に話した。私はあの人の彼女ではないけれど、万が一私の消息がわからなくなった時はあの人に連絡してみてと。それは、母の力を借りたら何かが変わるかもしれないと期待していたからかもしれない。


本屋に行って医学部の赤本を手に取ったら、なんとかなるとピンときた。昼と夜の仕事をかけもちするより、昼間はオフィスで適当にお茶を濁し、帰宅後一心不乱に机に向かう方がずっと楽だ。毎日3時間睡眠でも今はどうにかなる。だったら勉強もできるだろう。土日もずっと勉強にあてられる。この体力があるのは今のうちだけかもしれない、今行動しないと私はここから抜けられない。そう、あの時も私はただ逃げたかった。


医学部を卒業したとき、私は30になっていた。研修医として働いて1年が過ぎたころ、医学部の同級生、といっても私より6歳下の会田勉あいだつとむから突然プロポーズをされた。町医者をしていた父親が突然亡くなり、彼が継ぐことになったが一人ではとてもできそうにない、一緒に病院をやってもらえないか? そう告げられた。私は正直驚いた。年齢差もそうだが、肉体関係を持ったことのない女にプロポーズする男がこの世に存在することが衝撃だった。それでも私はプロポーズを受け入れた。私は流されやすい性分で、流されているときが本当の私なのだと思う。いまでいう副業をしながらの東京でのOL生活に見切りをつけ、医学部を目指したときは流されていなかった。あの時は、幸せも不幸せもなかった。たぶん、感情のスイッチをオフにしていた。必死に一本の櫂にしがみついて方向を変えて別の流れを見つけひたすらそこに向かってこぎ続けた。私はまた流されている。それでいいのだと思った。会田勉と結婚したら、私は会田あいなどという冗談のような名前になる。笑われることもあるだろう。いいじゃない、なんでも。通り過ぎるだけの人にどう思われても。あなたが私を覚えていても私はあなたのことなど記憶にとどめない。私の名前を笑う人は、私にとって存在しないも同然の人。


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