訳ありの女医
「社会人をやってから国立大学の医学部に入り直すなんて、やはりあい先生はただものじゃなかった」
大学一年の夏休み、東北に帰省した下村歩佳は、そんなことを思いながらリュックを背負い会田病院に向かって歩いていた。リュックにはクリアファイルが入っている。クリアファイルに挟まれているのは、数か月前に発行された市の広報誌。そこには会田病院の院長、会田あいの記事が掲載されていた。
会田病院は数代続くいわゆる町医者で、今は院長以外に他の医師はいない。
歩佳が小学4年生の時に、大手証券会社勤務の父親がこの市の支店に異動となり単身赴任をした。夏休みに母と一緒にこの市を訪れた歩佳は、「ここで暮らしたい」と両親に訴えた。母は「なぜ?」とは聞かなかった。娘が東京から逃げたい理由はわかっていたから。母は父と話し合い、歩佳の学年が一つ上がるタイミングで東京を離れて、再び家族三人で生活することを決めた。
転校して一週間経つか経たないかという頃に、歩佳は激しい頭痛に襲われて、朝でベッドから起き上がれなくなった。母の呼んだタクシーに乗せられ、この土地で初めてかかった病院が、家から歩ける距離にある会田病院だった。当時の院長は会田勉。あいと夫婦で内科と小児科の診療を行っていた。
会田病院は勉の祖父がはじめた。二代目だった勉の父が急死し、大学病院に勤務していた勉が妻のあいと病院を継いだ。その勉も、あいとの間に子供を残さないまま三年前に病気で亡くなった。
歩佳が将来医者になろうと決めたのは、あいに憧れたから。でも、会田病院にはもう数年かかっていない。コロナのせいで体調管理に気を遣うようになり、全く病気をしなくなってしまったからだ。それでもあいの存在が歩佳の受験勉強のモチベーションとなり、第一志望を地元ではなく首都圏の国立大学の医学部に置いた。落ちたら一年だけ浪人させてもらう約束も親から取り付けていたが、今年の春無事に合格を果たした。あいのところに直接報告とお礼にうかがうつもりでいたが、まだコロナが収まらず、会田病院はとても忙しそうだという話も聞いた、さらに自分自身の引越しの準備で時間は慌ただしく過ぎ、なんやかんやで完全に機会を逸してしまった。
六月に入り、母からあい先生の記事が載った広報紙が郵送で届いた。
そこには意外なことが書かれていた。
あい先生は一度東京の大学を卒業し就職をしてから、地元の医学部を受験して医者になっていた。亡くなった前の院長とは夫婦だとは聞いていたけど、子ども心にも院長先生はまだお兄さんという感じだったのに、あい先生は貫禄のある大人の女性に見えた。そういうことだったのかと、記事を読んで歩佳は積年の疑問が氷解した気がした。
午前の受付時間終了の12時30分きっかりに、歩佳は会田病院の窓口で診察券と保険証を提出した。
「どうされました?」見たことのない事務の女性が歩佳に訊いた.
「頭が痛いんです、でも我慢できる程度なので一番最後に回してください」
その時に初めて、あいが院長になってから初めてここに来たことに歩佳は気がついた。彼女の頭の中では、院長先生とはあいの夫だった亡くなった前の院長のこと、あい先生はあい先生だった。「院長先生が亡くなって、あい先生やつれてないかな?」歩佳はふとそんなことを思った。
数年前と変わらない待合室の茶色の革張りの椅子には3人の患者がいた。「1時前には呼ばれるかな…、歩佳はスマホを手にして時間を潰した。
自分の順番となり、診察室のドアを開けてあい先生の姿を見た時に、マスクで顔の下半分を隠しているとは言え、歩佳は自分が満面の笑みを浮かべていることがわかった。あい先生もこちらを見て、あれ? という怪訝な表情を浮かべながらも引きずられて笑っているように見える。
「あい先生、ご無沙汰してます」
「歩佳さん、久しぶりね、また頭痛ですか?」
「ごめんなさい、頭痛は嘘です、あい先生を驚かせたくて…、実は先生にお礼を申し上げに来ました。あい先生に憧れて医学部を目指し、いま千葉大の医学部に通っています、本当にありがとうございました、もっと前にご挨拶したかったのですが申し訳ありませんでした」
「あら、千葉大医学部なんて立派ね、おめでとうございます、…ねえ、歩佳さん、マスク外してもらえる?」
「はい」歩佳は指示にしたがった。
「わあ、綺麗になったわね」
…いえ、そんなことありません…、歩佳は口からこぼれそうになった言葉を飲みこんだ。年上の女性から綺麗になったと褒められて、謙遜するのは無礼だと思ったから。
「ありがとうございます」こういうときは礼を言えばいいのだ。それに、大きめのマスクで顔の下半分がすべて隠れているとはいえ、目元と髪の毛の艶を見る限り、いまのあい先生はやつれていているどころか、歩佳の記憶の中にあるあい先生よりも綺麗に見えた。
「最初にここに来た時は小学生だったわね?」
「はい、五年生でした」
「じゃあ…」あいは間をつなぎながら頭の中で計算をした。「もう8年になるのね、そんなに経つんだ…、あのときの小学生が今は医学部の学生かあ、それは私も年を取るわね」
「あい先生はずっと綺麗ですよ」
「あら、礼儀正しいわね」
「お世辞じゃありません、本当です、ねえ、先生、実は私、あの時切羽詰まってたんです、東京から引っ越したばかりなのに急に具合が悪くなっちゃって…、学校に行けなくて、母にも申し訳なくて、どうしたらいいかわからなかったんです、でも先生が具合が悪いのは低気圧のせいだって言ってくれて、ああ、悪いのは私じゃないんだって、ぱあっと世界が開けた気がしたんです」
「悪かったのは歩佳さんの具合でしょう? あなたが悪かったわけじゃない、当たり前のことよ、それより、どうして? なんでお母さんに申し訳ないなんて思ったの?」
「ここに引っ越したいっていうのは私の希望だったんです、…東京にいた時は中学受験の塾に通ってたんですけど、成績がどんどん落ちちゃって…、私以上に母ががっかりしてたのもわかってたんです、父がこちらに単身赴任して、母と二人で一度来た時にここに引っ越せば勉強から逃げられるだろうって思いました、だから頑張って母を説得しました、母はずっと東京で育ったから離れるのは嫌だったに違いありません、それでも私の願いをきいてくれました、それなのに引っ越していきなり私は朝起きられない、学校にも行けない、もう完全に逃げ場を失ったと思いました」
「そうだったの? お母さんの心配までしていたとのね…、子供は親に迷惑をかけていいのよ、迷惑をかけられる人がいるのは幸せなんことなんだから」
「そういうものですか?」
「そういうものよ、これは私の勝手な思い込みだけど、いつも他人を気遣う繊細な人ほど、低気圧の影響を受けやすい気がするわ、私にはそんな繊細さはないからいつも元気でしょう?」
「そんなことないです、…ああ、そんなことないっていうのは、あい先生が元気じゃないという意味じゃなくて、いつでも患者さんの気持ちに寄り添っているって意味です、私もあい先生みたいに患者さんに寄り添える医者になるのが目標です」
患者にはいろいろな人がいるわ、誰にでも寄り添うわけにはいかないわよ、医者も人間だから…、今度はあいが言葉を飲みこんだ、…いま私が言わなくてもいい、この仕事に就けば嫌でも思い知らされるのだから…、
「…でも、勉強から逃げたかった小学生が8年後には国立の医学部に合格するなんて、歩佳さんの選択は正解だったのね、ご両親を説得した行動力もすごいわ」
「全然すごくないです、もう逃げるためになりふりかまっていられませんでした、逃げ出せたおかげで私はここに居場所を作り、あい先生に出会って自分の目標を見つけました、中学に入ってすぐ医者になろうって決めました」
「そんなに早く?」
「はい」
「すごいわね、私は中学の頃に何にな将来何になりたいかなんて考えたこともなかったわ」
「あい先生は医学部に入る前に東京の大学を卒業して働いてたんですよね?」
「もしかして、市の広報誌見たの?」
「はい、母が送ってくれました」歩佳はリュックの中から、広報紙の挟んであるクリアフォルダをちらっとあいに見せた。「働きながら受験勉強してたんですよね?」
「まあ…」
「すごく勇気をもらいました、あい先生は仕事しながら勉強時間作って合格した。勉強だけしていればいい私が落ちたらあい先生に申し訳ないと思って頑張れました」
「私はそんなたいしたものじゃないわ、だっていまのあなたの年齢の時はまさか自分が将来医者になるなんて夢にも思わなかった」
「大学では何を専攻したんですか?」
「考えれば小学生の時のあなたと同じね、ああ、正確には反対かな? 私も逃げたかったの、この街から逃げたかった、どうせ逃げるなら日本からも逃げたいと思って大学では英語を専攻したわ」
「カッコいい」
「カッコよくなんかないわよ、本当にその気があったら奨学金もらってでも留学したでしょうね、私はなんとなく流されて日本の会社に就職してもちろん英語なんて使う機会もないし、もうは全部忘れたわ」
「あい先生、もうひとつ訊いていいですか?」歩佳は一番知りたいことを質問する準備に入った。
「どうぞ」
「東京で付き合っている人、いなかったんですか?」
「ああ、そういうことが訊きたいの? 歩佳さんは彼氏できたの?」
「あい先生、医学部はご存じの通り勉強量がすごいんです、そんな時間ないんです」
「まあ、そうかもね」
「それで、先生はどうだったんですか?」
「まあ、いたわよ」
「やっぱり!」
「でもフラれたわ」
「あい先生がフラれたんですか?」
「おまえを愛そうと努力はした、でもおまえの顔が好きになれなかった、ごめん、―そう言ってフラれた、謝られてもね…」
「その男、最悪じゃないですか? あい先生を振ったことを絶対後悔してますよ、あい先生もそんな男と別れてよかったです、素敵な人と結婚したんですから」結婚という言葉口にした途端、歩佳は自分の頭からあいが夫を亡くしたことが完全にすっぽ抜けていたことを思い出し、慌てて謝った。「…ああ、ごめんなさい、院長先生のこと…」
「いいのよ、それに今の院長は私だから…」
「そうですよね、でもあい先生は私の中ではあい先生です」
「ありがとう、私だって別に院長って呼ばれたいわけじゃないわ」
「あい先生がこの街に戻ってくれてよかったです、だって、もし先生に会えなかったら私は医者になろうなんて思わなかったから」
「それはわからないわよ、私よりももっとずっといい先生に巡り合えたかもしれないじゃない?」
「もう、謙遜しないでください、あい先生はきっと呼ばれて一度出ていったこの場所に戻ってきたんですよ、私も一度は東京から逃げたけど戻る日が来るかもしれないですね」
「もう戻ってるじゃない」
「今いるのは千葉ですよ、東京じゃないです」
「東京も千葉も埼玉も神奈川も一緒よ、ここにいたら、…そう思わない?」
「そうですね、ああ、もうこんな時間」歩佳は壁にかかった時計を見た。「貴重なお時間を頂戴して申し訳ありません、あい先生、本当にありがとうございました、無事医者になれたらその節はあらためて報告に参ります」
「私はそれまで頑張らなきゃいけないのね?」
「そうですよ」
「もう少しゆっくりしていって、と言いたいところだけど病室じゃあねえ、プレゼントできるものも何もなくてごめんなさい、前もって連絡してくれれば何か用意しておいたのに」
「お気を遣わないでください、私は感謝の気持ちを伝えるために来たんです」
「何言ってるのよ、顔をみせてくれてありがとう、歩佳さん、元気に頑張ってね」
「はい、あい先生もお元気で」
歩佳は礼儀正しく頭を下げると、足早に会田病院をあとにした。