第4話「ミッシーが、釣れた」
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ミッシーが、釣れた。
それは拍子抜けするほどあっさりした結果だった。固い投げ竿が、ぐんごとりっ、と静かに押さえ込まれ、反射的にアワセを入れた瞬間から、しばらくの記憶が香奈にはない。気がついたらもう浜脇の組波止の根元で、サンダルを履いたくるぶしまで海水に浸かりながらミッシーをタモで押さえ込んでいた。
タモの中でぱくぱくと喘ぐ口は身体に見合う巨大さで、その縁に並ぶ歯は鋭く、サメのそれほどではないにしても触れればケガは免れそうにない。おそらく、太刀魚のそれと同じくらいには危険だろう、と経験で察する。
幸い、ルアーは陸に上がった拍子に外れたらしく、ラインの先についたたま少し離れた場所に転がっていた。この口でアタックされたのならば、塗装はボロボロかもしれず、その事だけが妙に気になった。
「……子供のミッシー、かなあ?」
興奮状態で惚けていたが、落ち着いてみれば大型のボラかスズキ程度のサイズで、浜育ちにして猟師の孫である香奈が「初めて見る魚」という以外には特に変わったことのないものだった。鱗は異様に大きく、ヌメりはそれこそボラのようにべっとりと絡みつき、見た目にも「怪物」と評するに相応しい不気味さを醸しているが、かけてから寄せてくるまでしばらく、ボラのスレがかりと勘違いするほどに、鈍重でもったりとした引きだった。
その時、既に空は白み始めていたが、足もとはまだ薄暗く、海面は墨を引いたかのようには黒く、相手の魚影を伺うことは出来なかった。その姿見ずのうちは、「エイかもしれない」 と万が一の危険性を考え(根元に鋭い、毒を持ったトゲがある)、慎重にやりとりをしながら寄せ、その姿を確認した瞬間に彼女の頭は真っ白になり、そして気がついたらこうなっていた、という訳だ。
「落ち着け」
自分に言い聞かせ、一息深呼吸をしてそのままミッシーを礒の潮だまりにずり上げる。波によって滑らかに削られ、海藻でぬめっている所を選び、その肌に傷を付けないように尾の根元を押さえ、魚体をそっと流し込んだ。
子供のミッシー?とは言え、十分に大きな――ゆうに90cmは超えているだろう、当て尺で1メートル近い巨体である。暴れられないうちに確保できたのは幸運だった。ミッシーはその巨体を横にしたまま、潮だまりの中でぱくぱくとエラを開け閉めして呼吸を整えている。そしてその度に、潮だまりの中の海水が動き、改めてその大きさを知らされた。
「……食べられるのかなあ、これ?」
祖父からミッシーのことを多少聞かされていた香奈だったが、その祖父からミッシーの味については聞かされたことがなかった。しかし、胸の高鳴りを押さえ、それが落ち着くに従ってアワセを入れる前のことはだんだんと思い出してくる。その時の海の様子は、祖父から聞いたとおりだった。「潮は動いているはずなのに異常に静かな海面、ただ漫然と群れるだけの小魚、マヅメ時にして不思議なほどの静けさと澄んだ空気――そういう時に、ミッシーは現れる」
忘れていたけれど、何も釣れる気がしないまま、ただルアーの泳ぎを試し見るためだけに、ぽーんと投げた一投だった。何か、もったいないようなことをしてしまった気がする。
もう一度深呼吸をして、それから改めてゆっくりとその姿を見てみると、その巨大な口と青紫に輝く不気味な目は、なるほど怪物と呼ぶに相応しい……が、何かがおかしい。紫の目、巨大な口と姿、幻の魚、伝説の怪魚……と聞かされ、昔語りを噛み砕き、小学生なりの知識と自信を持って 「ミッシーはアカメである」 との結論でかのUMAを追ってきたのだが……どうもおかしい。アカメはメディアでこそ幻と言われ、時に伝説の怪魚の如くに喧伝されるが、場所を選べばそれなりに狙って釣れる魚であり、水族館によっては群れで水槽に泳いでいるほどの魚だ。
無論、写真や画像、図鑑にもはっきりとした姿が載せられており、それこそ貪るようにそれらの本を読んだ彼女にとって、たとえ初めての対面であろうと、見まがうはずもない。その自信もあった。
「……ひょっとして……オオニベ?」
彼女なりの経験と知識をあらゆる所から引っ張り出して、その顔と照らし合わせてみる。オオニベ(イシモチの仲間)も、アカメほどではないがなかなかに珍しい魚であり、サイズはアカメに勝るとも劣らない、これまた世の釣り師が憧れる魚であり、トロフィーとして遜色のない釣果だ。
「ん……でも、なんか……」
だが、それも違う、オオニベはイシモチの仲間であり、見た目はそれをほぼそのまま大きくしたような物で、カレイとヒラメ程度の違いしかないはずなのだ。目の前の潮だまりで身をよじろがせながら海水に浸かっているその見た目は、顔つきや口元こそイシモチに似ているが、それとは明らかに異なっている点が多い。
まず、色だ。夏らしく急速に明るくなってきた中で見る魚体は深い紺灰色で、イシモチやスズキ、ボラのような銀白色の輝く姿ではなかった。
そして特徴的な尾びれ、根元の太さは確かにイシモチと似ていなくもなかったが、明らかに広く、太い。さらにその太い尾筒のくびれなきままに、円筒状にぼってりした土管を思わせるシルエットは、やや扁平しているはずのオオニベやアカメとは異なる印象だを与える。
だが、そんなものは次に目に入った部位に比べれば、まったくささいな差異であり、些末な問題であった。落ち着き始めたのか、ゆるやかになった呼吸を刻むエラのすぐそばにある胸びれと、その少し先にある腹びれや尻びれが、まるで手足のように動いていたのだ。
いや、「まるで手足」というよりも「ほぼ手足」と言った方が正しいかもしれない。その半ば手足のようになったひれの根元はがっしりとした筒状で、尾びれほどではないが明らかに他の魚類とは異なる、まさに――要するに、彼女が釣ったミッシーは――アカメでもオオニベでもボラでもスズキでもなく――ある意味もっと有名で、日本人なら小学生でも誰でも知っているような、ごくごくありふれた――
「これ、シーラカンス? だよね?」
誰でもが一度はどこかで見たことのある、ただのシーラカンスだった。
が……がんがる