第2話「海賊カラコギ丸より、給与は歩合制です」
くだらない事でケンカになってしまった達郎と香奈、それぞれの帰り道……達郎は、ミカン畑の丘で不思議な少女と出会う。
「こんにちは」
夏の空に挨拶された。ちょうど丘のてっぺんで一番急な坂の最後、上がりやすいように石組みの階段が作られているところで。
――女の人だ――
ちょうど見上げる形の達郎からは白い服が雲に融けていて、彼女がいたことに気づかなかった。青い空を背に、雲の色のワンピースと空の色のカーディガン。夏の空を着て佇む彼女の肌は不思議なほどに白く透き通っていた。鮮やかに赤い麦わら帽子はまるで太陽のよう。
達郎は彼女に見とれてしまって、返事ができなかった。
「地元の子よね?」
笑いかけてくる彼女から目が離せなくなる。
「こんにちは」
「ど、どうも」
地元の人ではないのか、言葉に訛りがない。いや、あえて「地元の子」などと聞いてくるのだからよその人だろう。薄い黄色のリボンを纏った真っ赤な麦わら帽子の下からのぞく彼女の顔はまるでお人形の様で、これまで達郎の見てきたどんな女子よりも奇麗だった。
「この辺りにお寺があったと思ったんだけど」
「お寺って、カッパ寺のこと?」
「カッパ寺?」
「ああ、すみません、鬼山寺のことでしょう、僕らはカッパ寺って呼んでるんです」
少し困ったような顔になる彼女。達郎が慌てて言い直した。なんだかうまく話すことが出来ず、つられて達郎も標準語になる。胸の動悸は坂道を駆け上がったせいだと思いたい。
「ふうん……そうなんだ。この辺りは久し振りなの……ずいぶん変わったのね」
――久し振り?――
「お寺は……戦争中に焼けちゃってお墓だけが残っちゃって」
「この辺も?」
港はあるが別に軍港だったわけでもないし、狙われるような都会にも見えないが「呉帰りの迷子のB29が八つ当たりに落としていった」と達郎は聞いている。サキヤマのじいちゃんのミカン畑裏手の崖も、もとは海まで歩いて降りられたところが爆弾でえぐれて消し飛んだという。呉なんてずいぶん遠くだと達郎は思うが、飛行機にしてみれば近所も同然なのだろう。
「うん、少しだけど……町で亡くなった方はいなかったそうです。住職さんも防空豪に入ってて無事だったって、建て直すのが面倒だとかなんとかで、お寺の仕事は住んでる家でやってるみたい」
「そうなんだ」
年の頃は自分の姉と同じくらいに思えるが、元気だけがとりえの姉と比べると、何だか今にも壊れそうな硝子細工のようで、それでいて素朴な手作りの器のような温もりも持ち合わせ――目も眩むような美人なのに、親しみも感じた。
「ええと、だからあのお墓の向こうの草むらが、お寺のあった所なんです。今は小さなお地蔵さんが並んでて、そのうちの一つがカッパに似てるって、それで、そう呼んでるんです。だから……今は誰もいないはずです」
「そう、それでご住職は今はどちらに?」
微かに浮かぶ困惑の表情も、彼女の美しさをいっそう際立たせる。
「うんと、そこまではちょっと」
「そう、ごめんなさいね、手間かけちゃって」
「いや、そんなちっとも」
立前でもなんでもなく心からそう思った。そう思わせるだけのものが彼女にはあった。大人ならそれを「美人だから」の一言で片付けたかもしれない。
「じゃあ……そうだ、またね」
達郎は、自分が何も考えられなくなっていることも分からないまま、彼女の背中が小さくなるのを見送る。我に返って用事を思い出した時にはもう、彼女はいなかった。それはまるで振り向くたびに姿を変える、夏の雲のようだった。
「痛ぁ……」
気が付くと香奈はみかん畑の中でひっくりかえっていた。今はもう誰も手を入れることのないミカン畑は、雑草が伸び放題だった。
そのせいで、錆びて折れたスプリンクラーのパイプに足をかけられてしまったのだ。
「ドジった……」
ぼやく香奈。顔に影をなげかける枝にツヤツヤと光るゴマダラカミキリが一匹、彼女を笑っているようにとまっていた。彼女の倒れこんだ草むらから、押し潰された青草の香りがふうと立ちのぼり、まとわりつく。打ち付けた節々が少し痛むが、たいした怪我はしていないと分かる。
それでもなんだか、草の中に寝ていると涼しくて、転んだことも、無礼なカミキリムシもみんな許せる気分だった。空の底から見下ろす空の深さ、水色の空と入道雲。理屈じゃなくて、綺麗。このままずっとこうしていたかったけれど、そういう訳にもいかず、名残惜しそうに体を起こした。
「今日は見逃してあげる」
体中に着いた汚れを払いながら、香奈はカミキリムシに笑い返した。彼の首には農協から五十円の賞金が懸けられていたが、男の子達のようにそれを小遣い稼ぎにするほど困っているわけでもなければ、首狩りのような野蛮な行為が好きなわけでもなかった。
「達郎も嫌いだっけ、虫狩り」
ロクデナシでバカで下品なヤツだけど、食べない生き物と自分から噛みついてこない生き物を殺すことだけはしないのが達郎だ。そのくらいには、アレのことを認めてやっても良いと思う。
転んだ勢いで撒き散らしてしまった荷物を拾い集めて汚れを払い、忘れ物はないかともう一度あたりを見回した時、彼女の視界の端に何か見慣れない建物が映った。
古ぼけたその建物は、ちょうど香奈の登って来た方と反対側にあった。通りから外れて、丘のふもとに佇むそれは、そのからだをなかば崖にめり込ませていて、何とも奇妙に映った。
「あんなところに、何だろ」
どうやら何かの店らしく看板らしいものがみえた。ぼろぼろの屋根は、所々瓦の色が違っている。遠くてよく見えないが、別に気にするほどのことでもない。実際歩き出したときには、その屋根のことは香奈の頭からどこかへ飛んで行ってしまっていた。
「じっちゃん、いる?」
息を切らせながら、達郎が駆け込んで来た。ドアは、開いたままだ。汚れてガラスでなくなったガラスに、「新製品入荷!」と書かれたビラが内側から貼られている。いつの新製品かも判らぬほどに黄ばんではいるが、かろうじてここが何かの店であったことを語っていた。
「おるよ」
奥から、店の主人らしき老人が、麦茶を両手に持って出て来た。
「まぁ、飲めや」
達郎は麦茶をひったくるように奪うと一息に飲み干した。老人は、そんな達郎の様子を嬉しそうに見ていた。
「おかわり、いるかい?」
おそらくは、自分のためであったろうコップを、老人は手渡した。すりガラスの花柄模様が、水滴に透き通ってゆく。達郎はひとこと、ありがとう。と答えて、二杯目の麦茶を飲んだ。
麦茶を飲んでいた達郎が一心地ついたとき、一風変わった張り紙があるのに気が付いた。新入りらしいその張り紙は、黄ばんだ先輩たちの上で、申し訳なさそうに隅っこにいた。そして、それにはこう書かれていた。
「男女アルバイト急募!職種:海賊業 年令:十八〜八十才前後 健康に問題のない方、リストラで解雇された方、定年後の再就職先をお探しの方(もちろん経験者優遇) 時間:相談に応じます 勤務地:海上〜海岸〜海中 時給:やまわけ、一回の襲撃あたり最低百二十円より保証。基本的に歩合給です 休日:仕事のない日・暴風警報の出た日『やりがいのある仕事です。あなたも青い海の上で汗を流してみませんか? 楽しい仲間たちが待っています! 勿論、初心者にも懇切丁寧に指導致します。制服各サイズ支給、私服もOK!』 応募:三駒電鉄市内電車 津島港駅内伝言板にて連絡されたし。
コードネーム『フック』より」
達郎はそのままの姿勢で、きっかり30秒間凍り付いた。その張り紙に食いつくほどには子供でもなく、それを冗談として受け流すほどに大人でもない。
「掲示板ってまだあるんだ……」
そんなどうでもいい箇所に突っ込む事しかできないくらい、驚いた。
「なあ……崎山のじっちゃん。これ何?」
「ん? ああ……それな、漁協の取り締まり船の募集だわ」
こともなげに答える。
「海賊って書いてるけど」
「書いた奴の冗談だよ。要はボランティアさ、最近アワビやらナマコの密漁が多いらしくって、その取り締まりさな」
聞いてみれば何のことはない、拍子抜けだ。
「アワビは分かるけど、ナマコ?」
アワビやサザエが高い事は知っている
達郎だが、ナマコなんて海で悪友達に投げつける程度のものでしかない。時々、うまくいくとウネウネベトベトしたワタを吐き出すのがまた強力な手投げ弾という認識だ。それこそ浜の浅瀬で千切れ藻をかきわければ、いくらでも拾える。
「何でも、干して中国に持っていけば高級食材なんだと。日本でもコノワタにすりゃちょっとしたもんだ」
「うへえ……なら、俺も干物作ったらもうけられるかな?」
「かもな、でもそこらで売ってもたいした金にならんぞ」
それはそうだろう、もしナマコの干物をちょっと作って大儲けできるくらいなら、香奈んトコの親父さんが漁師をやめて遊漁船付きの船宿などを始めなければならなかった理由もない。
「あ、いけね。じいちゃん、今何時?」
「もうすぐ1時になるぞ。昼飯は家で食うんだろ、早く帰らないとお母さんに怒られるぞ」
「それもあるけど……早く行かなきゃ、今日から組み立てなんだ」
「ほう! じゃあ……いよいよなんじゃな?」
崎山のじいちゃんが、ニヤニヤと年甲斐もない笑みを浮かべる。「計画」の事は大人達には秘密だけれど、崎山のじいちゃんは特別だ。何より、じいちゃんの協力なしには「計画」は絶対にここまで進まず、子ども時代によくありがちな想像力だけが暴走して実行力の追い付かない、どこにでもあるガラクタの一つになっていたに違いない。
それはそれで素敵な思い出の一つになったかもしれないけれど、せっかくならば叶えてみたいと思う。秘密基地と秘密兵器は、絶対に切り離せないものなのだ。
「またね!」
「ただいまー」
ガラガラとうるさい引き戸を開け、冷蔵庫のある台所へ直行する。ヤカンに入ったまま冷やされている麦茶をコップに注いで飲みほすと、ようやく帰ってきたなあという感じがする。さっき、おじいの店で飲んだ水分はこの暑さでとっくに消費してしまった。
「誰―、達郎? もうお昼みんな食べちゃったよ」
姉の幸恵がシャワーに濡れた髪を拭きながらやってきた。その姿を見て達郎はげんなりする……下はかろうじて穿いているが、上はタオル一枚を頭からかけただけ。つまりは「パンツ一丁」という状況。「部活に邪魔だから」と肩で揃えた短い髪は濡れたまま汗ばんだ頬に張り付いている。
他人のそれならば――まぁ子供なりに色々興味が芽生えつつもない年頃らしく、ドギマギしつつもチラ見くらいはしてしまうだろう光景だが、身内のそれはどうにも扱いにこまる。
「麦茶、あたしも。氷はいらないー」
普段から達郎のことをパシリ扱いして遠慮など無い幸恵だが、さっき香奈にもコテンパンにやられてしまった達郎としては連敗だけは避けたい。そんな意地で「自分で入れろよ」とぶっきらぼうに返事をした。
「はぁ、じゃそこどいてよ」
姉の方は弟のプチ反抗期など意に介さず、コップに手を伸ばす。達郎の方は、目を逸らすのも何だか自分の中の不純さを認めてしまう気がして、あくまで「俺は呆れてるんだ」というアピールを込め、言葉を返す。プチでも反抗期は継続中だ。
「姉ちゃん……そのカッコってどうよ、おとんに怒られるぞ」
「はあ? 生意気に色気づいてるんじゃねーよ、子供が」
こちらも、身内らしく容赦がない。
「そんなんだから彼氏がいねーんだよ」
「るっさいなボケ、いらねーよ。アタシは今ソフトがあればいいんだ」
「じゃあ沙織さんに愚痴るなよ……昨日も電話で『男欲しい』って喚いてたじゃん」
「盗み聞き? 趣味悪ぅー!」
「……ウチであれだけ大声で騒げば嫌でも聞えるわ」
木増築30年の2階建て、すきま風こそ吹き込まないが、外側に面していない壁はぺらっぺら。そもそも部屋と部屋の仕切の半分は襖の純和風家屋で、由緒正しく階段下の廊下に置かれた電話にプライバシーを求めるのは酷という物だ。
「……携帯、欲しいね」
「……それだけは同感」
姉弟で言い争いに落としどころを見つけ――まぁそもそも喧嘩と言うほどでもない日常のやりとりだが――せめて中古のワイヤレスフォンを買ってもらおうと共闘する事に決める。相手は、何事にも「どーでもいい」としか考えていないフシのある(姉の素行と門限は例外)父ではなく、我が家の財布を握る母、折絵だ。
「ていうか何アンタ? なんで沙織は『さん』付けなのよ? あたし、一応あんたの姉なんだけど」
「え? え……だってお客さんだし」
思わぬ所をつかれ、動揺する達郎。そのアタフタした様子に気付いた幸恵がめざとく攻める。
「へぇ……まぁ、年上に憧れるお年頃なのかもねー……しょうがないかな。沙織可愛いし。でもね? それは風邪みたいなもんなんだよー」
ニヤニヤと、あからさまに馬鹿にしたような笑みを浮かべて達郎の頭を掴み、短く刈られた髪をくしゃくしゃとかき混ぜる。
これはまずい、確かに沙織さんは綺麗だしおしとやかで――けれど、そういう想いで見ているわけでは――しかし余計なことを言ったら姉の思う壺、下唇を噛んで屈辱に耐える。
「ん? ちょっと伸びた」
頭をかき混ぜていた姉の手が止まった。
「何が?」
「背、ひょっとしたらだけど。香奈ちゃんより高くなるといいね」
「ほっとけ」
頭を押さえつける姉の手を振り払い、テーブルの上の蠅帳を畳んで冷めたチャーハンをレンジに入れる。
「母さんは?」
「ん、もうパート行ったよ。ラッキーだったね、通知表」
イヒヒ、と意地悪な笑みを浮かべる姉だが、どうせ雷の落ちるのが遅いか早いかの違いだ。幸恵にしたってそんなに成績が良い訳ではなく、犠牲者が増えるのが嬉しいのだろう。目がそう言っている。
「あっち行けよ」
「はいはい」
低い音を立ててチャーハンを温めていたレンジが、チン、と鳴った。
――これを食べたら、いよいよミッションスタート――
逸る気持ちをチャーハンと一緒に麦茶で喉に流し込み、着替えもせずに外へ駈けだしていった。
「それにしても……暑いなぁ……」
由佳の家を出た香奈は、自分の家と逆に向かって海沿いの道を歩く、ちょっと寄りたいところがあったのだ。結局、由佳の誤解が解けたかどうだか怪しいが、まぁ追い追い解きほぐしていけばいいだろう。
「もしそうでも、友達だから!」
「……いや……私の話ちゃんと聞いてた? ゆーちゃん……あのね……」
(だいたいこんなパターンの会話が、十数回繰り返された)
由佳の部屋での話を思い出し、自然と苦笑いがこぼれる。色んな意味で失礼だが、それを由佳にも伝えられず……仮にも親友の思い人だけに、いくらその気がないと言っても達郎のことを悪し様には言いづらい。それがかえって誤解を深めてしまったような気もする。
「いっそ達郎、けしかけてみよか」
1人つぶやいて、その考えを自分で却下する。それはいくらなんでも、親友にも幼なじみにも失礼というものだ。断じて自分のためではなく。
5分ほど歩いたところで、ようやく道ばたに日陰が続くところまで辿り着いた。右手に見える砂浜と道路の間に、松と雑木の混成部隊で作られた砂防林が続いている。甲高いニイニイゼミの声が騒々しいが、騒音としか言いようのないクマに比べればいくぶんマシだ。
国道とはいえ、山の方に高速が開通してからめっきり交通量の減った道にはセミの声と波の音だけが響いていた。この辺りまで来ると漁港の生臭い潮の匂いが消えて、からっとした塩気だけが薫り、木陰の涼しい風が汗ばんで火照った肌に心地よい。
「なんかいっそう田舎になった気がするなぁ」
陸路は、今香奈が歩いているこの国道と併走するJRだけが生命線であり、山崩れなどがあれば、そろって不通となる。新幹線はリニアモーターや飛行機と同じくらいに無縁。あとはこの先にある小型フェリーが市外への交通手段だ。このへんが陸続きなのにまるで孤島のようだと揶揄される所以でもある。そのフェリー乗り場が遠くに見えてきた。このまま歩いてあと十数分……
――用を済ませて、さっさと帰ろう!――
思い切りよく前傾姿勢に構え、木陰の歩道を蹴った。せっかく引いた汗がまた噴き出してくるのも構わず、また全力で。
結局、香奈が家に着いたのはもうだいぶ遅く、初夏とあってまだ日は高かったが、5時をとうに回っていた。お目当ての品が無くて、悩んでしまったのが悔やまれる。結局、何も買わずに帰ってきてしまった。
「まぁいっか」
船宿の民宿兼自宅の裏手へ回ろうとしたとき、ふと見慣れないものが庭先に止まっているのに気がついた。
――バイクだ――
母親たちがよく乗っているスクーターとも、おじさんたちが乗っているスーパーカブともはっきりと違う大柄な車体。カブと同じようにむき出しのエンジンや黒光りするシートは、なんだか生き物のように艶めかしかった。メカには全く興味のない香奈だったが、その姿には目を奪われた。だが、それは本当にほんの少しで、バイクそのものよりも「誰がこんなものに乗ってきたのか」という方に興味がわいた。普通に考えれば泊まり客のものなのだろうが、釣り客であればたいてい自動車、それもどちらかというと積載量重視の大柄なものが多いので、そうではないだろう。とすれば観光客かとも思ったが、この町にさしてみるべき名物もないことは、十年あまりを過ごしてきた香奈には自明のことだ。次点で、時々迷い込む日本一周真っ最中かつ自分探しの若者。こちらはいかにもあり得る。さすらい人にはバイクは似合いそうだ。
それでも珍しい。これから夏休みに入るから客足も普段に比べれば増えるだろうが、家族旅行の客などほとんどこない松野家の「ふな屋」にしてみればそれほどの期待はない。手伝いついでに顔でも見に行ってこよう――そう決めて台所へ向かう。この時間で、お客がいるとなれば母親はきっと夕餉の支度をしているはずだ。自分から進んで手伝うと言い出せば、少しは怪しまれるかもしれないが、断りはしないはず。いつもなら軒下で暑さに参っているハヤテ――松野家の愛犬で、香奈が拾ってきた――をひとしきりてがってから家に入るのだが、今日は軽くあごを撫でるだけでいそいそと裏へ回る。
「涼しくなったらお散歩行こうねー」
寂しそうな眼にちょっと罪悪感を感じて、心の中で手を合わせる。裏の勝手口から調理場を兼ねた台所へ入ると、予想通り母が包丁を握り、まな板の上のハッカクを下ろしていた。
「お客さん?」
「なあに、ただいまも言わないで。そうよ、一人だけど飛び込み。ちょうど部屋は空いてたし、しばらくいらっしゃるみたいだから、ありがたいけど」
「ごめん、ただいま。表のバイクってお客さんの?」
「黒い単車? そうよ。ほら、アンタも手伝って。なんか汚れてない? 着替えたらお風呂洗ってきて。その頃には料理もできるから、ビールと一緒に持って行ってね」
「はーい」
小細工の必要もなく、お客の顔は拝めそうだ。高学年になった頃から、時には香奈が配膳をすることもあり、特に繁忙期など釣り客の団体に香奈がビールを持って行って酌などすると、どんないかつい一団も相好を崩し、嬉しそうに飲んでくれる。そんな時の彼らの幸せそうな顔が香奈は好きだった。常連客の中には、香奈のことを孫のように可愛がり、来る度にお土産を持ってきてくれたり、お小遣いを渡そうとする者もいた(これはさすがに母に断るよう言われたが)。大漁の時などは、獲物を分けてくれたりする人も多い。
父はあまりいい顔をしないのだが、客受けもよく、弁えて決して羽目を外さない常連達の手前もあって何も言わないようだ。香奈にしても、その空気を察してあまり長居をしないようにして、一、二杯注いだらすぐ引き上げるようにも心がけている。それを見た母は「あんたは将来絶対悪女になるねぇ」
などと、およそ小学生の娘にむけるとは思えない感想をもらし、隣で食器を洗っていた父親を硬直させた。最も、香奈の酌で一番機嫌が良くなるのは、誰あろうその父なのだが。
「こんにちは」
部屋に帰りランドセルを放り込んで、動きやすいストレッチデニムとTシャツに着替え、風呂場へ向かう途中で声をかけられた。年の頃は二十歳を回っていそう、大学生くらいの男の人だ。どうやら彼がバイクの持ち主らしい。
「いらっしゃいませ! すみません……お風呂ですか? これから支度しますので、もう1時間くらい……」
客商売の娘らしく、頭を下げて詫びる。
「ああいや、ちょっと夕涼みにでも出ようかと思ってね、でもまだ外は暑そうだね。東北とは大違いだ」
青年が、違う違うと手を横に振る。
「お客さん、東北の方ですか?」
「ん、いいや。先週まで北海道に居てね、こっちまで下ってきたんだ」
「日本一周とか……?」
この時期には、そういう大学生や若者がやってくる事も少なからずある。移動手段はバイクに限らず自転車だったり徒歩だったり……色々だ。
「いや、そこまでじゃないんだけど。たまたまね。……ミッシーって知ってる?」
「……っ!」
知っているも何も。
「ええと……」
「あはは、ごめん。まぁよくあるヨタ話だろうけど、ちょっと面白いなって思って……ちょうどこの辺で一泊しようと思ってたからさ」
まぁ、普通の感想だろう。今時、未確認生物の存在なんて信じているのは余程の子供か、それとも――
「ミッシーに会いたいんですか?」
「え、いやそりゃ見られるモンなら」
ミッシーというのはこの町の湾内にいるという正体不明の怪物だ。よくある噂話の一つと言ってしまえばそれまでなのだが、香奈にはそれを『ホラ話』で片付けたくない理由がある。てっきり笑われると思っていた青年は、困ったように首の後ろをかいていた。
その仕草が子供っぽくて、年上なのに、ちょっとからかってみたくなる。
「もしよかったら、晩ご飯の後でご案内しましょうか?」
「ええ?」
目をまん丸にして驚く反応は期待以上だ。大人びているとはいえまだまだ小学生、達郎ほどではないけれど、香奈だってイタズラ――ことに大人を驚かせるようなものは――決して嫌いではない。
「そうですね……今日だと7時過ぎ、まだ明るい時間だと思いますから、散歩ついでにご案内しますよ」
満面の営業スマイルでそう言った。
青年はお酒を飲まなかった。お膳を運んできた香奈が「ビールはどうします?」と尋ねると、「ああ、ウーロン茶があったらそれが欲しいな」
と答え、ウーロン茶を持ってきた香奈に、
「ミッシーに会うのに酔っぱらっていたくないからね」
と、おどけて見せた。今日の客は彼だけらしく、風呂掃除の他に香奈が他に手伝う仕事はなさそうだ。
商売としては残念だが、支度をする時間が出来たのは助かる。夕暮れと満潮が重なる日はなるべく挑戦しておきたい。こっそり、自分の部屋から道具一式を大きめのポーチに詰め、玄関でハヤテの散歩道具――スコップとゴミ袋、それに懐中電灯と防犯ブザーを揃える。
「ハヤテの散歩行ってくるー」
台所の母に向かって叫ぶ。そうしないと流しで洗い物をしている母には聞こえないはずだ。青年には7時15分きっかりに玄関の外で待っているよう伝えてある。あとは「得物」だけだ。ハヤテの散歩綱をつかんで外に出てすぐ、隣の家のドアを叩いて達郎を呼び出した。
学校の机の中や、普段の生活態度からは思いもよらないくいに整頓された部屋、それが達郎の部屋だ。物こそ多いが、雑然とはしていないし、小学生男子の部屋としては標準以上に片付いていると思う。
達郎の部屋にいる間、ハヤテは外でじっとまっている。本当は今にも催促して跳ね回りたいのだろうが、行儀良く仕付けられてしまった彼は、忠犬よろしく窓の下だ。
「……出来てるから、針は着けといた」
仏頂面としか言いようのない表情で達郎が指した先には確かに、頼んだ「得物」が置かれていた。しかし、こっちが水に流してやろうと頭まで下げているというのに、この態度はないのではないか? 今日一日どれだけ自分が苦労したと――喉まで出かかった言葉をぐっと堪える。だいたい部屋がシンナー臭いって! …… ……
――……どうどう自分……――
それは由佳自身が言わなければならない事だ。達郎がどう応えるかは、その時見届ければいい。
「何だよ……駄目か?」
「ああ、違う違う。へえ……やっぱ上手いモンね」
一見しただけで、その作りの丁寧さが分かる仕事には香奈も感心せざるを得ない。売り物のルアー以上の塗装。それも、針が装着される根本の金具のフチまでしっかり手を入れている、注文以上の出来映えだ。
「もらったボラ皮で巻いて、目玉は大型の7ミリに変えた。ちょっと重くなったけど、ちゃんと浮く」
「信用してるってば」
手に取ったそれは、頼んだとおりボラ皮を貼り付けられ、元になったアイルマグネットよりも渋くなり、疑似餌というより魚そのものだ。ただ、表面がまだ少し柔らかい。
「あれ? これまだ乾いてないよ!」
手に塗料が付くことより、ルアーに指紋が付いてしまわないかと心配になる。慌てる香奈と対照的に達郎は冷静だ。
「ああ、コーティングをシリコンにしてみた。スエがNゲージジオラマ用のを分けてくれたんだ。手触りがワームっぽいだろう? 滑らかにするの苦労したんで」
「そうなんだ……」
――コイツ絶対学校とキャラ違う――
いかにも凝り性の達郎らしい。三馬鹿の達郎とスエとコダマは模型仲間でもあるが、こうした細かい仕事をさせたら達郎が一番だろう。それに、塗装用のエアブラシを持っているのも達郎だけだ。
「リップも半分に削った、そこんとこにはシリコン塗ってないからちょっと段差あるけど……気になるなら直す。引いてないから分かんないけど、前より潜らん」
それは大事、今回の仕事でボラ風の見た目をにするのと同じくらいに念を押した点だ。
「それは大丈夫、引き方次第で浮かせられるから」
どうしよう――ワクワクする、早くこの子を投げてみたくて、たまらない。
「ああ、それとついでにこれもやる」
ルアーを矯めつ眇めつしている香奈に気分を良くしたのか、ようやく笑顔になった達郎が、ビー玉より少し小さな貝殻を差し出した。
「何? ……あ、……綺麗」
どうせ達郎のくれる物なんて……と思ったけれど、それは本当に綺麗だった。艶のあるピンクとオレンジ、それがソフトクリームのような乳白色と混じった、小さいけれどピカピカの貝殻。会心の出来のルアーには敵わないけれど、とても可愛い貝殻だ。見たことがない貝だけど、どこかから流れ着いたのかもしれない。
「ええと……んー、さっき浮力テストしてる時、浜で拾った。珍しいだろ? やるよ」
「いいの?」
「俺別にいらねーし」
「ふうん……ありがと。でもなんに使うの、これ? 綺麗だけど」
机に飾っておくには、小指の爪ほどのサイズは少し小さい。
「ん……かして」
貰ったばかりの貝殻を達郎の手に戻す。
「確か、幸恵のペンダント直したときの金具があったから」
そう言って小さなドリルで穴を開けると、あっという間に金具を取り付け、綺麗なペンダントを作ってしまった。
「ん、オマケ」
そんなに短時間で作業したら、貝殻が割れてしまうのではないかと心配したが、そんな心配は全く無用だった。金具を取り付けた穴の外には、傷一つ付いていない。
「えへへー……おまけ……か」
オマケにしては洒落ている。思わぬプレゼントに嬉しくなって、思っていなかった言葉が口をついてこぼれた。
「ねぇ」
「何、竿だったら俺の貸すってば」
達郎は背を向けて卓上の道具を片付けている。照れ臭さを隠しきれない背中がちょっとだけ可愛い。
「ミッシー退治、達郎も来る?」
「うぇ?」
――訂正……、やっぱ間抜け顔だ……ゆーちゃん、我が友よ……心底、あんたの気持ちが分かんない……――
次回 第3話「ミッシーの秘密」
香奈と達郎は、師匠の話を元にミッシーの影を追うが、海賊騒ぎに巻き込まれ……
読んでくださってありがとうございます。頑張って続き書きますので、どうぞよろしく(ぺこり)