【第20話】アンカーなドラッグは最終走者ではない。トップバッターである。
ある日の午後、ボルターは地図を出してくると、セリに今後の旅の流れを説明し始めた。
「今俺たちの住んでる町がここだ。
ここにほら、この町の名前、グレイスメイアって書いてあんだろ?
で、この町の隣にでっけえ湖があんだろ? その湖に沿って南下すると港町がある。
まずそこで一泊することになるはずだ。
朝になったら船に乗って、海を渡る。
まあ、海っつっても、対して離れてない対岸に行くだけだ。
天気が良ければ向こう岸が見える――とはいえ泳いで渡るのは、馬鹿だけだってくらいの距離はあるけどな。
んで、そこからまた半日くらい馬車で走れば、目当てのリリーパスの街だ。
リリーパスの街は、そうだな。ひとことで言えばでかくて、人がすげえ多くて、治安はあまり良くはない。
まあ、治安はここが飛び抜けて良すぎるだけだが、スリとか誘拐とかには気をつけろよ。
お菓子くれるっつっても行くなよ? わかったな?」
質問は? と聞かれたので、セリはとりあえず最初に浮かんだ疑問を口にしてみた。
「私、もう半年以上ここに住んでたけど、いま初めてこの町の名前知ったかも。
えっと、グレイス……メイアだっけ?
何で今まで誰も町の名前を一切口にしなかったの?」
ボルターはいい質問だ、と大きくうなづいた。
「それはな、固有名詞が連発すると、それだけで面倒くさいからだ。
よくあるだろ、冒頭から説明口調で登場人物から地名からダンジョン名、モンスター名、固有名詞のオンパレードなやつ。
大人はな、仕事で毎日疲れてんだよ。
そこにきて、たまの息抜きに目を通した文章に、覚えなきゃいけない固有名詞を山盛りで出されてみろ。俺だったら早々に離脱するわ。
いいか? だいたいエロ動画だってな、さっさと本番始めてくれりゃあいいのに、シナリオ重視なのか知らんが、肝心なシーンまでが長いのなんの……ん? どうしたセリ、なに怒ってんだよ。
質問に全然答えてない?
ちゃんと答えただろ? 俺にとっちゃ導入じゃなくて挿入が大事……あ? なんだよ、もういいって。
おい! セリ! 最後まで聞けよ!」
セリがボルター抜きの旅行に了承した次の日から、着実に準備が進められていった。
母親から招待の手紙が届いたことを知ったレキサは、やはり最初にボルターの顔色をうかがった。
ボルターが怒っていないことが分かると、母親に逢えることがやはり嬉しいらしく、日に日に表情が明るくなっていた。
ロフェは自分に母親がいることすら理解できていなかったこともあり、ボルターが根気よく説明をしていた。
セリはなんとなくその場にいない方がいいと思い、なるべく二人きりにしてあげるようにしていた。
出発当日、迎えの馬車がつくとボルターは途端にぶすくったような表情になり、ぶっきらぼうに楽しんで来いよと一言だけ言うと、家の中に早々に引っ込もうとした。
「こら! いじけんぼ!」
セリはボルターに駆け寄ると、思いっきりお尻めがけて蹴りを入れた。
「てんめぇ、なにすんだよ!」
前につんのめったボルターが振り返って怒鳴る。
「こんな直前でいじけないでよ!
あんたね! こんないじけた父親最後に見せられたら、お母さんと会ったときに気になって素直に甘えてらんないでしょーが! しっかりしてよ!
自分が決めたことでしょーが!!」
「いじけてねえんだよ! 人をガキ扱いすんじゃねえよ!」
お互いににらみ合いになり、レキサが不安そうに、ロフェはポカーンとした顔をしてケンカしている二人を見つめている。
「くそ! 分かってるよ!」
ボルターはレキサとロフェに向かって大股でずんずん近づくと、乱暴に二人を抱きしめた。
「レキサ、ロフェ。父ちゃんのせいで母ちゃんと暮らせなくて悪いな。
母ちゃんにめいっぱい甘えて来い。
んで好きなもん山ほど買ってもらってこい。
んで、土産と土産話、山ほど持って、父ちゃんのとこに帰ってきてくれ。待ってるからよ」
それから子供二人と離れると、ボルターはセリを抱きしめた。
「わ! ちょっと!? 私はいいんだってば!!」
暴れて逃げようとするセリを力強く捕まえて、ボルターは言った。
「よくない。お前も家族だ。だからお前も気をつけて行ってこい。んで、ちゃんと帰ってこい。いいな?」
「わかってるってば! ちょっと!? 今どさくさに紛れて匂い嗅いでるでしょ!!
やめてよね変態エロオヤジ!! もう! ちゃんとレキサとロフェを無事に家まで連れて帰るから!」
やっとのことでボルターの腕から逃げると、セリは留守番メンバーのナックにも声をかけた。
「ナック、ボルターのことよろしくね。もしまたいじけてたら叩いてやって」
セリの言葉に、ナックはどこで覚えてきたのか角を複雑に絡ませ、親指を立てた手の形に変形させた。
チアムがよくやるやつだ。
「いつの間にそんな技覚えたの?」
この調子だと、そのうちじゃんけんとかもできるようになるかも?
セリはすっかり家に馴染んでしまった森の番人を、不思議な気持ちで眺めた。
最初は怪我が治るまで面倒を見るつもりでいたのに、いまやナックのいないこの家を想像することができない。
毎回同じナックではないのかもしれないが、ナックはいつも家にいてくれる。
そのことが自分にとっても、この家族にとっても心の安定につながっているのは確かだった。
母側が用意してくれたという二頭立ての四輪、しかも屋根付き馬車に荷物を乗せ、三人で乗り込む。
中は三人で乗るには十分すぎる広さで、道中の負担を考えてかふわふわのクッションがたくさん用意して敷かれていた。
二人のお母さんって……何者?
馬車を用意して迎えに来させ、しかも馬車のランクもかなり高い。
セリは出発直前から、すでに緊張し始めていた。
*******
グレイスメイアの町を出ると、早々に大きな湖が見えてきた。
風の匂いが違う。
土の匂いが違う。
水の匂いが違う。
人間が介在しない、自然本来の匂いがセリの五感を刺激した。
半年前までは、自分はこの自然と共に生きてきたということを、今更ながらに思い出す。
日差しに灼かれ、雨に凍え、水の恩恵を受け、大地の恵みに感謝しながら仲間と旅をしていた。
――たぶん最後に洗濯をしたのは、この湖だ。
あの日、水辺は冷えるから野営は森の中にと、誰かが決めた。
明るくなってから、セリは子供たちと一緒に湖まで出ていって洗濯をした。
洗い粉を忘れたって誰かが言って、取りに戻ったみんながなかなか帰って来なくて、子供たちを迎えに行ったセリが見たのは――地獄の光景だった。
どの辺りだっただろうか。
自分が洗濯をしていた水辺は。
どこにあるだろうか。
みんなが殺されていた森は。
「――姉、セリ姉?」
レキサに呼ばれ、セリは我に返った。
「……なあにレキサ?」
「お父さん、僕がお母さんに手紙出してたこと、ホントにホントに怒ってなかった?」
「怒ってはいなかったよ」
セリは続きを言おうか迷い、やっぱり伝えることに決めた。
「ただ、レキサが『お父さんとは一緒に暮らしたくない。お母さんのところで暮らしたい』って思ってたらどうしようって、そういうことを気にしていたみたい」
レキサは動揺したように慌てて首を振った。
「僕……っ、そんなこと書いてないっ! 僕はお母さんに、心配しないでって……言いたかっただけで!」
セリは優しくレキサの肩に手を置くと、微笑みながら伝えた。
「うん分かってる。レキサはお父さんのこと、大好きだもんね。
だから私、いじけてるボルターに言ったの。
逢いたいと思うのは普通の気持ちだよって。どっちが好きとか嫌いとかじゃないんだよって。
だからレキサも気にしないで。ちゃんとボルターも分かってくれてるよ。
親子なんだから普通に逢いたいときに会うことも、一緒にいたいって思う気持ちも、当たり前だよ。
お母さんだって逢いたいって思ってくれたから手紙を返してくれたんでしょ?
普段はボルターが二人を独り占めしてるんだから、たまにはお母さんが二人に会ったってバチは当たらないと思うの」
なんてったって、ボルターの浮気が原因で別れたわけだし。
と、これはセリの心の中でつぶやく。
ただ、正直セリとしてはこの理由がどうしてもしっくりこない。
大人の世界はいろいろ複雑なのよ♡ とメフェナだったら言うのかもしれない。
もしかして、好きだけど一緒にいない方がいいんだ的な、私とエチゾウさまみたいな、そういう展開があったりするのかな、なんちゃって。
ふいにエチゾウのことを思い出してしまい、セリの胸に痛みと苦しみが去来した。
ダメダメ!! 今日は保護者役なんだからしっかりしないと!!
セリは激しく首を振りまくり、いまだに心を占めて止まない切ない想いを振り払った。
*****
無事に港町で一泊し、天気にも恵まれたので、朝の船便で対岸に渡ることができた。
対岸にある別の港町でも、すでに馬車が待機していて三人で乗り込んだ。
ちなみに昨日から馬車代、宿代、船代と何も払っていない。
すべて先方から承っております、の一言で終わりだ。
二人のお母さんって………本当に何者???
セリはリリーパスの街が近づくにつれ、緊張が高まっていった。
夕方前には無事にリリーパスの街についた。
馬車を降りると、すでにお揃いの制服を着た若い男二人が待っていて「ご案内します」と一声発した後は、黙々と荷物を持ち、セリたちを誘導した。
案内された先は、城と勘違いしてしまいそうなほどの豪華絢爛な宿屋だった。
……どうしよう、きっとお母さまはただ者ではない。
もう逃げることができない状況まで追い込まれ、セリは覚悟を決めることにした。
大理石の階段を上がり、分厚い絨毯の敷き詰められたエントランスに足を踏み入れる。
「レキサ!」
「お母さん!!」
品のある女性の声に、レキサがいち早く反応して駆け寄る。
優雅な曲線を描く長い髪と、体のラインがくっきりと浮き出るイブニングドレス――。
その女性が、セリの方を見た。
「――っど!!」
思わず変な声を発してしまい、セリはあわてて口を塞ぐ。
ど、の後は何を言うつもりだったんだ、私の口は!?
どストライク!?
どえらい美女!!??
どんだけ色気!?!?
よく分からないが視線を向けられただけでパニックになっているセリをよそに、美しすぎる母親はセリの隣にいるロフェへ視線を下ろした。
「ロフェ……」
優しい声でささやくように呼ぶが、ロフェはそちらに行こうとはしなかった。
きょとんとした顔をして、セリと母親を見比べている。
「ロフェ、あの人ロフェのお母さんだよ。ぎゅーって、してもらっておいで」
しかし、セリの声かけにもロフェの表情は変わらない。
わずかに、セリと繋いだ手に一瞬だけ力がこもる。
女性は諦めたように悲しい微笑みを浮かべると、最後にセリの元に近寄った。
よく分からない迫力に、セリは思わず生唾を飲み込む。
「あなたがセリさんね、レキサの手紙で知ってるわ。
ずいぶん若く見えるのだけれど、おいくつなの?」
「は!? あ、あえ、えっと、じゅ、じゅじゅ十四歳です!!」
思わずとっさに二歳も鯖を読んでしまう。なぜなのか自分でもよく分からなかった。
「そう、やっぱり。
まだあなただって子供なのに、ごめんなさいね。家のこと、なんでもさせられてるんでしょ?」
手の平で頬を包まれ、セリは体温がどんどん上昇していくのを感じた。
「はわわ、大丈夫であります! ちゃんとお給料も出してもらっているのであります!
体を動かしてる方が落ち着くので、全然お母さまがご心配するようなことはなんにもないのであります!」
「そう、それなら良いけれど。セリさんって面白いしゃべり方するのね」
くすくすと上品に微笑むと、
「お母さまなんて、恥ずかしいわ。私の名前はメトトレイよ。よかったらメティって呼んで?」
メトトレイは女神を思わせる慈愛の表情で、宿の奥の階段へとセリたちを導いた。
「旅疲れしてるのに立ち話をさせてしまってごめんなさいね。
今、お部屋に案内するわ。ついてきて。
あなたたちは荷物をお願いね」
メトトレイの声で、街の入り口からついてきていた男たちが敬礼する。
この二人、メトトレイさんの家来だったの?
この人、ホントに一体、何者なの……?
セリはもう一度生唾を飲み込んだ。
喉がカラカラに乾ききっていた。
***
外観も城なら、部屋の中も当然ながら王族の住まいそのものだった。
そしてメトトレイが予約した部屋は、ボルターの家1個分よりも余裕で広かった。
セリがいま座っているソファも、ふかふかすぎて、どこまでもお尻が沈んでしまいそうで、逆に居心地が悪い。
セリとしては、ボルターの家にある、固い木の椅子の方が座っていて楽だ。
お茶を用意するといって、メトトレイが中座した隙にセリは小声でレキサに尋ねた。
「レキサ! お母さん何者なの? なんでこんなにお金持ちなの? どこかのお姫様? それとも女王様!?」
「え、お父さんと同じで、ギルドのマスターだよ。ギルドの名前は確かディマーズ? だったかな?」
なんて格差なんだろう。
どっちもギルドのマスターなのに、かたや豪華な神殿におわす女神さまで、かたやただの酒場のエロオヤジでしかない。
いやいや、きっとギルドにもいろいろあるんだ。
よく知らない部外者が簡単に判断はしちゃいけない。
メフェナさんもエヌセッズは親しみやすさが売りだって言ってたし……。
セリは隣にぴったりとくっついて座っているロフェに声をかけた。
「ロフェ、疲れた?」
ロフェは黙って首を横にふる。
いつもだったら誰よりもいろんなものに興味を示して走り回りそうなはずなのに、出発からずっと静かにしている。
初めての旅行で緊張してるのだろうか。
「お待たせ。レキサとロフェはショコラにしたけど、良かったかしら?
セリさんはコーヒー? 紅茶? それともショコラかしら?」
装飾の凝ったカップをトレイに載せたメトトレイが戻ってくると、セリは瞬時に姿勢を正した。
「あ! どどどちらでもお構い無く! お手間の少ない方でお願いいたします!!」
また、壁を隔てた隣の間に消えていったメトトレイに、セリは安堵のため息をつく。
この緊張はなんだろう。この感じって、団長を前にした時と似てるような……。
あー、でもメティさんはめちゃくちゃ美人だし、すんごい色っぽいけど、団長と似てるかって言われるとちょっと違うっていう気がする。
まあ、たしかに比べる方がおかしいか。だって団長は――。
セリの思案はレキサの声で中断した。
「あ、ロフェ! これ絶対ロフェが好きなやつだよ!」
レキサが飲み物と一緒に出てきたお菓子の山から、焼き菓子をロフェに渡す。
「――!! おいひい!!」
お菓子を口に含むと、ようやくロフェにいつもの表情が戻ってきた。
セリはメトトレイに今のロフェの顔を見せたくて、静かに立ち上がるとその場を離れた。
隣の間をのぞいてみると、そこは簡易キッチンのある部屋になっていて、そこが予想外に散らかっていたことにセリは驚いた。
買い物袋が散乱した中、メトトレイがあちこちを漁っている。
セリは恐る恐る声をかけた。
「あ、あの……メティさん? 大丈夫ですか?」
メトトレイが一瞬だけ気まずそうな表情を見せたが、見つかっちゃったかとつぶやき、目を細めた。
「もうやだ、恥ずかしいわ。
こんな散らかしてるところ見られるなんて」
メトトレイは上品に口に指先を添え、恥ずかしそうにはにかんだ。
「すごい量ですね」
セリは部屋に無造作に置かれたままになっている商品たちを眺めて言った。
「子供たちの好みが全然わからなくて、手当たり次第に買い込んじゃったのよ。
どれかひとつでも気に入るものがあればいいななんて思って……。
ダメな母親でしょ? 子供の好きなものが分からないなんて。
おかげで荷物の中から紅茶の葉っぱが見つけられないの」
肩をすくめて、メトトレイが子供っぽく笑った。
「ロフェが、お菓子がおいしいって、すごくいい顔してますよ。
お茶なら私が探して淹れておきますから。せっかくなんで、二人といっぱい一緒にいてください」
メトトレイはセリの顔をしばらく見つめると、優しく微笑んだ。
「ありがとう。嬉しいわ」
そっとセリの肩に手をおいて、子供たちのいる部屋に戻っていくメトトレイ。
セリはひとまず、大量の袋から商品を出して片付け始めた。
ジュースの瓶、お菓子、人形、ぬいぐるみ、お菓子、絵本、お菓子、おもちゃ……。
どんどん出てくる。
コーヒー豆を挽いた粉と、紅茶の葉っぱ、それとメトトレイの分であろうワインの瓶とチーズが出てくる頃には、セリはメトトレイが子供を想う気持ちでいっぱいだったことが十分に伝わった。
ここに二人を連れてきて良かった。
セリは自分の胸の中が、温かい気持ちでいっぱいになるのを感じた。
自分とメトトレイの紅茶を蒸らす間、レキサとロフェが今飲んでいるショコラの缶が目に入った。
セリはその缶に見覚えがあった。思わず手にとり、蓋を開け、香りを嗅ぐ。
甘くて、少し苦味のある香り――。
(セリ、ご褒美をあげようかい?)
鼻にかかった、艶のある声が脳裏に響く。
妖しい光を宿す濡れた瞳。
――これ、団長のテントで飲んだことがある!
今のがきっかけになって、記憶が急に映像となってよぎった。
ナナクサのテントにこっそり呼ばれて、夜中に忍んで訪れたこと。
『ご褒美』といって、ナナクサがいつもテントへ来たセリに、甘いお菓子をくれたこと。
でも、一体何のご褒美だったのだろう。
自分だけがナナクサのテントに呼ばれていたのは、どうしてだったのだろう。
思い出せないことが、どんどん増えていく。
ナナクサとの思い出ばかり、どうしてこんなにも曖昧なのか。
ガランタの水を持ってくれば良かったと、セリは後悔した。




