カレーパン・下
僕が杏子について知ったのは冬の中頃だった。久しぶりにみんなで集まろうと、中学の頃の数少ない友人に声をかけられたのである。
その日は、みんなで朝からワイワイ騒いだ。その帰りに、メンバーの一人が僕に向かってこう言ったのだ。
「そういえば小豆野について、お前知っている?」
「・・・・何が?」
彼女と連絡が取れなくなって、四ヵ月近くが経っていた。
「小豆野がさあ・・・・」
友達が真剣な顔で話し始める。その態度になんとなく嫌な気がした。
体中から熱と汗が浮かび上がってくる。
元々、悪い予感はしていた。彼女と連絡が取れないなんて、おかしいと思っていた。でも、もし何かあったんなら連絡してくるだろうとも思っていた。それくらいの友情は芽生えていると思っていたのに・・・。
「小豆野さん、病気を患っているらしいな」
「はっ――?」
それを聞いた途端、体が無意識に動いていた。胸倉を掴み、無理やり壁に叩きつける。
「ぐあっ!」
鈍い声が聞こえた。それでも僕は胸倉を放さなかった。
「なんだよ、それ・・・・僕は、僕はそんなの聞いてないぞ!なんで、何で僕には連絡が来てないんだよ!」
僕の叫び声を聞いて、周りにいたみんなが僕らの中に割り込んで来る。
「落ち着けって」
「取りあえず一旦放せ」
みんなから掛けられた言葉に、呼吸を整え、友達を放す。
「・・・・・・・・ごめん」
僕に胸倉を掴まれていた彼は、襟元を正し、こっちを見てきた。
「お前らが仲良かったのは誰でも知っているよ。でも・・・いや、だからこそ小豆野も伝えにくかったんじゃないの?」
「・・・・・どういうことだよ。その病気って?」
友達は僕から視線を外さず、しっかりと口を開いた。
「不治の病らしい。・・・・・・・良くて、後一年持つかどうかだって、さ」
冬の風が、やけに冷たく感じた。
翌朝、教えてもらった病院へ、僕は出掛けた。受付で場所を訊いてから、病室の扉を開ける。
小豆野 杏子は愛おしそうに窓を見つめていた。
「よう・・・・・・」
僕が声をかけると窓を閉めて、返事をした。
「やあ。・・・・もう見つかっちゃったか」
そう言って見せた満面の笑みは、枯れた向日葵に似ている。
「・・・・・言ってくれてもよかっただろ」
「そうだった?なら、悪いことしてね。・・・・済まなかった」
「・・・・・そんな丁寧に喋る奴じゃあなかったろ」
「そうだね」と彼女は笑い、僕を眺めた。
「・・・・あれから四カ月、学校はどう?」
「・・・・暇だな。やっぱり」
「暇?どうして?」
「勉強も部活も知名度も人気も中の下なところだぞ。それは、退屈だろ」
「そうなんだ」
「ああ・・・・。お前はどうなんだよ、病院の生活」
「それなりに、かな。・・・・・出来ないことも多いけど、わかったことも沢山ある」
「わかったこと?」
「うん、わかったこと。日頃の幸せ、外で遊ぶ楽しさ、友達の大切さ・・・。今までは一目散に行動してたけど、ここじゃあ、無暗に動けないから、ね。落ち着いて考えることが多くなったんだ」
「・・・・・ふ〜ん。その丁寧なしゃべり方も、か?」
「・・・・そうだね、副作用みたいなもんかな?」
「似合わないの」
「似合わないんだ?・・・・だったら、病気が治ったときに戻すよ」
「・・・・・不治の病じゃないのかよ」
「・・・・ストレートに言うね」彼女の口元が少し綻んだ。「そうだよ。もって後一年。短いんだか、長いんだか・・・」
「短いだろ。・・・・・不安、感じないのか?」
「どうして?」
「どうしてって、お前・・・・死ぬんだぞ」
「大丈夫だよ」
「どうして?」
「君が助けてくれるから」
そう語った彼女の眼は、輝いた。
「・・・・・僕が?」
「そう、君が」
「唯の高校生だぞ」
「大丈夫、後一年あるから」
「一年って・・・・」
「だから、不安はないの」
「・・・・・・・・・・・」
真っ直ぐすぎる、彼女の瞳。
言葉を失った僕に、彼女は体を近づけてきて、耳元で囁いた。
「カレーパン買ってきて」
・・・・・・・・・・・・・・・・
今する話?
そう思いながらも、仕方なく了承してやった。
「今回だけだからな」
そう言い去る僕に、彼女は手を振った。
ドアを閉じるとき、彼女の呟いた言葉が、心の染みついた。
「大丈夫、君ならできるよ」
次の日結局、僕は愛論にカレーパン争奪戦へ参戦させられた。昨日、突然家を飛び出したのは気にしていないみたいだ。しかし、カレーパン争奪戦の作戦を練れなかったことについては、怒っていた。
「行くぞっ!」
法被を纏い、鉢巻をした愛論が気合いを入れた。
「・・・・・・・・」
ちなみに、僕も同じ恰好である。
愛論の作戦その一、服装の統一で、連帯感。
だ、そうだ。連帯感と言ったところで、所詮二人なんですけど・・・・。
「獲るぞっ!」
「・・・・・・・・・・」
「うおおおおおお、カレーパーン――って乗り悪いな!」
「・・・・・・・・・・」
周りにいたカレー信者が、全員変な目で見てきた。
愛論の作戦その二、掛け声で連帯感。
・・・・らしい。
「『おおっ!』はどうした、『カレーパーン!』は?」
「・・・・・・・」
「打ち合わせしただろ!」
慌てる、愛論。
・・・・この掛声、そんなに大事か?
「・・・・・・・・そんなことより、どうやって攻めるか、教えろよ」
僕は、肝心なことを訊いた。
「えっ、考えてねえ・・・・・」
「はあ!・・・・・まさか、作戦二つだけ?」
「そうだぞ!」
「連帯感、どれだけ重視しているんだよ!」
「重要だろ。それがなけりゃあ、成り立たないだろ」
「僕ら・・・・二人だけなのに」
「それでもだ。・・・・・おい、前を見ろ。売店が開くぞ!」
時計を見る、昼休みが始まって四分半が過ぎていた。
「後、三十秒だな・・・・」
「ああ」
愛論は首の骨を鳴らす。
「後、十五・・・・・」
秒針が進む。周り空気が緊張しだした。
周りが静まり返ったとき、針が一周しおえた。
「行けええ!」
愛論の号令と共に、みんなが走り出す。
僕も走りだしたが、心の中では「どうせ無理だ」と諦めていた。
あのときと、同じように・・・。
杏子に頼まれたカレーパンは結局、購入することが出来なかった。病院の周りにあるコンビニやスーパーを全て回ったが、どこも売っていなかった。日曜日だったせいで、パン屋も閉まっていた。冬なのに汗だくになりながら、慣れない土地を走り回る。一時間くらいったたら、「もういいや」と思って、代わりとして、二番目に好きな焼きそばパンを買った。そして、病院へ帰った。
扉を開けると、彼女はさっきみたいに窓の外を眺めている。
「・・・・・・ずいぶん、遅かったね。買えた?」
ゆっくりと振り向いて、首を傾げた。
「・・・・・売ってなかったよ」 僕は俯き、喋る。「だから、焼きそばパン・・・・」
袋に入ったパンを差し出す。
「そっか、買えなかったか・・・・」
彼女の声は、悲しそうだった・・・。
そのとき僕は気づいたんだ。
彼女の信頼に、応えられなかったことを。
「ほんっとこの辺、売ってないんだよ。・・・・焼きそばパン、これも大好き」
明るくそう振舞ってくれた彼女だが、なんとなく、空元気な気がした。
その後、確か彼女は僕を励ましてくれたはずだ。でも、その記憶はない。ショックで頭が朦朧としていたからだ。
ふらふらとした足つきで帰宅した僕は、「今度はカレーパンを山ほど買って行こう」と心に誓った。
でも、それも叶わない。
数日後、彼女の容体は急変した。そして、そのまま息を引き取ったそうだ。
僕は彼女も守れず、カレーパンも買ってあげられなかった・・・・。
何より、彼女と最後に交わした言葉を、覚えていない。
そんな事実がゆっくりと心を支配した。
「うあああっ!」
愛論の叫び声で、僕は現実に引き戻される。振り返ると、愛論が押し出せれていた。
人の波が僕らを押さえつける。掻き分けて進もうとするが、一向に波が開かなかった。挙句の果てに僕さえも、大群から吐き出された。
「くそお!」
どうせ、何をやってもできないんだ、あの時のカレーパンみたいに・・・。
吐き出されたときに、ふと思ってしまった。
「諦めるかあ!」
愛論は再度突っ込んでいく。僕もそれに従うが、
弾き返される。
押し戻される。
突き出される。
そして、何度も何度も、吹き飛ばされた。
吹き飛ばされ、床に倒れこむ。上を見上げると、天井が広かった。
・・・・・・・僕って、本当にちっぽけだな。
あのとき彼女は「大丈夫、君ならできるよ」と言ってくれた。でも、一体僕に何ができるんだろう?
カレーパンも買えなかったし、医師になる夢だって諦めてしまった。
・・・・・・どうせ、僕には――
そう挫けかけたとき、ある言葉が浮かび上がった。
「そんなの所詮、諦めた奴の言い訳だろ?」
・・・・・・・・・。
本当に、このままでいいんだろうか?
このまま諦めても、いいんだろうか?
こんなとき、彼女はどう言ってくれたんだろう。
そう思考を張り巡らすと、記憶の鱗片が蘇った。
「カレーパンは私を裏切らないから」
この記憶は確か・・・・・カレーパンが買えなかったときに、彼女が言っていた言葉だ。あのとき、朦朧としていた僕が聞き逃した言葉。
「どうして私がカレーパンを一番好きなのか知っている?」
「さあ?」
「簡単だよ、カレーパンが世界で一番美味しいから」
「?」
「一番美味しいから、好きなんだよ」
「そりゃあ・・・・・そうだろうな」
「カレーパンはいつ、どこで、何をしていても、美味しいんだよ。疲れていても、後悔していても、退屈でも美味しいんだよ」
それには、すごく個人差があると思うんだけど・・・・。
「つまずいたっていいじゃない。転んだっていいじゃない。そんな時はカレーパンでも食べて、元気になりなよ。必ず、立ち上がれるよ」
綺麗な顔。
「カレーパンは私を裏切らないから」
強い心。
「カレーパンは私たちを裏切らないから」
向日葵みたいな笑顔。
「・・・・・・・だから、私は諦めないの」
そんな彼女は、そっと僕の頬に触れてくれた。
「・・・・・・・だから、君も諦めないで」
いつの間にか目から涙が溢れていた。頬を伝う、彼女の掌のような涙が、流れていた。
「覚えていたんだ・・・・僕は」
――しっかりと・・・。
立ち上がる勇気が湧いた。
諦めない心が沸いた。
「愛論っ!」
僕は精一杯叫ぶ。愛論がこっちを振り向いたとき、天井を指さした。
「上だぁ!」
・・・・・愛論は一瞬戸惑ったが、すぐに理解した。
「ああっ!」
愛論は中腰になり、僕は駈け出した。
愛論の背中を、踏み台に――
「飛べぇ!」
浮かび上がった僕の体は、大波の中腹で着地する。みんなは唖然としていたが、すぐに動き始めた。
前を見る。五十個あったはずのカレーパンはすでに五個だけだった。
「うおおおおおっ!」
僕は今までないくらい、声を張り上げる。
残り四個。
手で、肘で、腕で、肩で、足で、脛で、腿で、体で人を掻き分けた。
強大な力が、僕を押し戻さそうとする。だけど、両足で踏ん張った。
残り三個。
そうだ、諦めない。僕は進み続けるんだ。
あの時、買うことの出来なかったカレーパン。
今ここで、因縁を、克服するんだ!
残り二個。
何度も挫けたけど、何度も転んだけど、それでも諦めたら駄目なんだ。
残り・・・・・一個。
諦めない限り――
「焼きそばパンじゃ・・・・駄目なんだよ!」
僕は思いっきり手を伸ばす。
そして、温かな感触が、手に広がった。
僕は掌に握ったものを差し出しながら、言う。
「おばちゃん・・・カレーパン、一つ」
「毎度ありっ」
――カレーパンはそこにあるから・・・。
その昼休み、芝生に寝転びながら、カレーパンを愛論に渡した。
「ほらよっ」
「おうっ!」
愛論が拳を突き出したので、僕も拳を出した。二つが軽くぶつかり合う。
半分ずつ食べたカレーパンは、やっぱり美味しかった。
「そういやあ、お前ってパン派?ご飯派?」
不意に訊かれた質問に、僕は答えた。
「・・・・・カレーうどん派」
「はあ?」
予想外の回答にポッカリと、口を開ける。
でも僕は愛論を無視して、校舎を見た。
いつもと変わらない校舎のはずなのに、何故か輝いて映る。
清々しい、昼の輝き。
読了感謝。
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