姫と黒猫
隠神刑部が鞍馬山で鬼一法眼と会っていた頃。
松山にて、さらにもう一つの出会いがあった。
その出会いが、双方にとって好ましいモノで有ったかどうかは分からないが……。
松山の隠神の屋敷は、霊所(現代で言うところのパワー・スポット)に建てられた異界建築で、霊道を通らねば訪れる事は出来ず、外観は神社に似ている。
異界建築は、たとえ外側は小さな建物でも、内部は異界化されているので広い空間を確保出来、部屋数は無数に存在する。
かつては隠神刑部の卷属達の本拠地であり、多くの妖怪達で賑わっていたが、今は黒猫と蘭丸の二人だけが隠神の帰りを待っていた。
異空間に存在するこの屋敷は、住人が不在の四百年間でも朽ちることは無いが、さすがに多少は汚れ荒れていた。
下級妖の糸張、煤魂、浮鼠等があちこちに巣を作り、埃も溜まっている。
黒猫は、何だか落ち着かない感じにそわそわしていた。それを見て、蘭丸が進言する。
「隠神殿に弟子入りするのでしたら“先ずは掃除”というのが定番じゃないですか?」
それを聞いた黒猫も
「おう! どうも落ち着かんと思っていたところだ。“先ずは掃除”か、なるほど」
と、乗ってきた。信長は、生来潔癖症なのだ。
黒猫が下級妖を追い払い、蘭丸は埃を払い、菷で掃き、雑巾がけをする。
最初に玄関、次に大広間、客間と進めて行くが、部屋数が無限に存在するのでキリがない。
下級妖を追っていた黒猫が、飽きて遊び始めてしまったとしても仕方が無いと言えるだろう。
意識は、魔王とまで呼ばれた戦国武将・織田信長といえど、身体は仔猫である。精神は肉体に引きずられるのだ。
屋敷の外に出て、下級妖にジャレついていた黒猫であったが、徐々にジャレつく対象が下級妖では無く、山の小動物に変わっていく。周囲には霧がたちこめる。そして、その霧が徐々に晴れていく。
いつのまにか、霊道を通り異界から人界(通常空間)に抜けてしまったのだが、遊びに夢中の黒猫は気付かない。
蘭丸も掃除に集中していたので、黒猫がいなくなった事に気付かなかった。
――今日は良い天気。ポカポカと温かい。
黒猫はちょっと休憩のつもりでストンと眠りに落ちた。
ほどなく、ズザ、ズザザと木々の間から、鮮やかな緋色の生地に花輪模様の刺繍が入った小袖姿の幼げな少女が、眠る猫の前に現れた。
「あら? 仔猫」
少女は仔猫を抱き上げ頬ずりしたが、猫は目を覚まさない。ちょっと休憩のつもりが、熟睡している。
「八十姫様、お待たせいたしました。
……何をしておいでですか? 急がねば、追っ手が来るやもしれませぬぞ。早くこちらへ」
男の声がして、八十姫と呼ばれた少女は黒猫を抱いたまま、タタタっと走って男の傍へ寄る。
切れた草鞋を結び直していた男は、結び具合を確かめるように足元をズリズリ地面に擦ると「良し!」と呟き、仔猫を抱いた八十姫をひょいと抱え上げ、そのまま一気に山を下って行った。
…………黒猫が目を醒ますと、身動きがとれなくなっている。ジタバタもがくと
「あら、目が覚めた?」
幼子の声が聞こえた。
「……寝込んでしまったようだな」
と言いながら、黒猫が声のする方を見ると、自分の真上に幼子の顔があり目が合った。黒猫を膝に乗せ、抱え込んでいる。
幼子は、十歳にも満たぬ少女。
その少女が、黒猫に話しかけた。
「ん? お腹すいたの?」
「お前は何者だ?」
「ちょっと待ってね。何か貰ってくるから」
「ここはどこだ? 蘭丸はおらんのか?」
「はいはい。よほどお腹がすいてるのね」
(……話しが噛み合わない。と言うか、言葉が通じてないのか? まぁ、そうだろうな。
反応が、今までの猫に対する蘭丸以外の人間と同じだ)
少女には、猫の声が当たり前にニャ~ン、ニャニャニャ~ンとしか聞こえていない。
黒猫が、自分の置かれた状況を確認する。ゆら~、ゆら~と足元が揺れて、潮の香りがした。そして、目に映るこの部屋の造りは……。
(間違いない、ここは船の中だ。
どうしてこうなった?)
黒猫が途方に暮れていると、少女が魚の切り身を持ってきてくれた。