牛若と鬼若
――その昔、およそ四百年ほど前であろうか。
人の世は“武士”なる職業の武装戦闘集団が台頭し、神事を司る帝の権威が衰え始めていた頃。
妖怪の世にも変革の波が訪れていた。
それまで保たれていた人と妖怪の調和の均衡が崩れ、妖怪の力が一気呵成に膨れ上がったのだ。
人の世の乱れにつけ込み、己れの欲を満たすため、無差別に暴れまわる妖怪が大量に発生した。
「……まぁ、かく言う儂もその中の一匹でしてな。調子に乗って徒党を組み、山里の村や町をを荒らしておりました。
人々は、あれやこれやと手を打ち、儂に“隠神刑部”なる名と位を与え、権威を与えてやるから鎮まれとか言って来ましたが、儂はおかまい無しに好き勝手に暴れておりました。
そんなある日、あの者達が儂の縄張りにやって来たのです。
――その者達とは、小柄で美しい顔立ちの若い武士と大男の山伏。
その当時、儂の手下、眷属は八十八匹。
人間の分際で、たった二人で、のこのこと乗り込むとは愚かな奴ら。
一瞬で八つ裂きにしてくれるわ!
…………
――結果は儂らの完敗。
儂の得意の幻術をモノともせず、配下の妖怪達の音速の波状攻撃をひらりひらりと舞うように交わしながら、鋭く素早い斬撃を放つ若武者。
獣の爪や牙を喰らってもびくとも動かず、一撃で岩をも粉砕する剛力の山伏。
儂の眷属達はことごとく調伏され、儂は結界に封印された。
あの二人、確か牛若と鬼若と名乗っておったな……」
「牛若に鬼若か……」
「それがもし彼らなのだとしたら“因縁”というモノですかね……」
「あの~ひょっとして、あの二人は人の世では歴史上の人物だったりするのですかな?」
自分が敗れた相手が、四百年後も知られた有名人であるらしいことに、隠神刑部は何故だか少し嬉しくなる。
「話を聞く限り、牛若丸と弁慶かもな」
「鬼若は弁慶の幼名でしたっけ? 元々は比叡山の僧兵ですよね?」
――比叡山で修行した弁慶が封じた隠神刑部を、四百年後に比叡山が呼び出した鬼が原因で解き放つ。
黒猫と蘭丸は奇妙な因縁を感じていた。
「それで? あの二人はその後、人の世で天下を獲ったのですかな?」
先程まで負かされた悔しさを滲ませていたくせに、相手が有名人と知って、何故かワクワクした様子で尋ねる隠神刑部。
「いや、天下は獲れなかったぞ。
二人とも無惨に殺された。牛若の兄にな」
「なんと!? あれほどの兵達が、しかも兄に殺されるとは……」
「隠神刑部よ、人の世は武力だけで天下を獲れるほど甘くは無い。武力は勿論、権謀術策、政治的駆引き、裏切り、人心掌握術等、そして運。複雑な要因が絡み合い、それら全てに勝ち残らねば天下は獲れんのだ」
信長は、過去の自分を思い出して苦々しい気分になった。
(光秀を恨むのはお門違いだな。あれは光秀の心を掌握出来ていなかった俺自身の失策だったのだから……)
「人の世は、儂ら妖怪の世界よりドロドロとしているようですな。 まぁ、儂の話はこんなモノです。それで、今度はぜひともお二方のお話をを聞かせていただけませんかな?」
「我らの話だと? おぬしと同じだ。つまらんぞ?
俺も好き勝手に暴れ回り、散々敵を殺しまくった挙げ句の果てに、配下にも呆れられ裏切られ寝込みを襲われた。それで死んでいればまだ救いもあっただろうが、訳の分からん呪いで猫に転生。
生前の因果で、魑魅魍魎にまとわり憑かれ、命惜しさに逃げ回る毎日だ。
もう三年になるか……蘭丸がいなければ俺など、とっくにくたばっていただろうな……哀れなのは、この蘭丸よ。
たまたま猫の言葉を聞くことが出来たばかりに、いらん面倒に巻き込んでしまった」
黒猫は、忌々しげに語った。忌々しいのは、非力な仔猫である自分自身なのだと言わんばかりに。
この三年間で分かったことだが、黒猫の“言葉”を聴くことが出来るのは、蘭丸だけであった。
他の人間には、黒猫がどんなに話しかけても、猫の鳴き声ににしか聞こえなかったのだ。
「……あの焼け跡の中、信長様の“声”が聞こえなければ、私はあのまま生き絶えていたでしょう。信長様の声が、私を死の淵から引き上げてくれたのです。
私に信長様の言葉が理解出来るのは、きっと“信長様をお護りせよ”という天命なのでしょう」
「蘭丸よ、そのような理不尽、天が命じる道理が無い。偶然だ偶然。
遠からず猫の寿命は尽きる。俺がくたばったら、おぬしはおぬしの好きに生きろよ」
「私には、信長様のいない人生など、考えられませぬ!」
「だったら、今から考えておけ。
猫の寿命など短いからな……」
…………
「あの~、もし、黒猫殿」
黒猫と蘭丸が“二人の世界”に耽っている中、隠神刑部が割って入った。
「黒猫殿が転生されたのが三年前でしたな? だとすると、そのお身体は、猫にしては少々成長が遅いように思えますが?」
「ふむ、言われてみれば。俺は何か病にでもかかっていると言うのか?」
「いえいえ、そのようなことではございません。先程申し上げたように、黒猫殿からは、秘めたる妖気を感じます」
「妖気とな?」
「はい。おそらく、信長殿はただ猫に転生しただけでなく、妖怪に成られたのではないかと」
「何と! 俺が妖怪だと申すのか!?」
「もし、そうなら寿命もそれなりに永いので、普通の猫より成長は遅いかと」
「俺が妖怪に……おい! 蘭丸、おぬしは知っていたのか?」
「い、いえ。黒猫様は可愛らしい、普通の仔猫だとばかり……」
(こ、こやつ、俺の事を“可愛らしい”などと思っておったのか?)
若干、黒猫が狼狽える。
「今の黒猫殿は、妖力に蓋がされている状態で、人間には普通の仔猫としか認識されぬでしょうな。
蓋を外してやれば、妖術も使えるようになるやもしれません」
「なに!? 妖術が使えるのか? 興味深いな!」
「もしよろしければ、儂が指南してさしあげましょうかの?」
「おう! ありがたい。隠神刑部殿、いや、師匠! ぜひ俺に妖術の指南、お願い申し上げる!」
こうして、黒猫は、隠神刑部に弟子入りする事になった。