信長と亡霊
黒猫は、船が横転した瞬間二度目の死を覚悟した。
――人間五十年、夢幻のごとくなり。
自分が猫に転生したのは、本能寺で焼き討ちされ死を覚悟した刹那に見ている夢幻なのだ。そんな風に思えた。
「八十姫様~!」
船から投げ出された吾妻虎清が叫ぶが、夜の海は一面の闇。八十姫を見付ける事は叶わぬだろう。
その八十姫は、幼い胸に仔猫を抱いて転覆した船室に取り残されていた。
船室は既に海水で充たされ、八十姫は何とか脱出しようと抗うが、荒れる波に揺さぶられ天地の方向すら分からなくなっている。
最早、これ迄。
そう思われたその時、西の空が明るく光り轟音が響き渡った。
――鬼一法眼の奥義・豪雷撃覇と巨竜の業火が引き起こした大爆発である。
神の御加護か悪魔の策略か?
一際大きな波が船を襲い、ひっくり返った船底を真っ二つに叩き割った。
吾妻虎清が、爆炎で明るく照された割れた船底の中に、溺れていた八十姫の赤い着物を見付ける。
――爆発の衝撃波で黒猫を祟る悪霊・怨霊は吹き飛ばされた。
今、吾妻虎清を邪魔するモノはいない。
仔猫を抱いた八十姫を助け出すと、船の大きめの破片の木材にしがみ着く。その木材に八十姫を乗せ横たえると、水を吐かせて無事を確認する。
八十姫と仔猫は、そろって気絶していた。
――夢を見ていた。
信長に向けられる怨嗟の声。その多くは民・百姓。
長島一揆、越前一揆、比叡山延暦寺、荒木一党……。
数多くの軍戦で巻き込まれた、或いは誡めのために信長が虐殺してきた、無数の戦う術を持たぬ、力無き人々。
「そうで、あったか……」
信長は、自分が非力な猫に転生した理由を理解した気がする。
――戦いに臨む者は、ある程度死を覚悟して、もし死んでも諦める事が出来る。
死んで諦めきれず怨霊と化すのは、理不尽に殺された力無き民衆なのだ。
「俺は、この者達の行き場の無い怨みを引き受けなければならぬのだな……」
信長に獲り憑き、地獄へ引き込もうとする怨霊の群れ。
(蘭丸には悪いが、俺はここで死ぬ。
俺などを護る意味など何も無かったのだ。
俺の因果は始めから定まっていた。こうして地獄に落ちる事こそが運命……)
信長が諦めたその時。
「信長様! 諦めてはなりませぬぞ」
懐かしい声がした。
「おぬしは、平手……」
声の主は、平手政秀。
若い頃“大うつけ”と呼ばれた信長を庇い、最後は信長のために切腹した信長の守役。
良く見れば、平手政秀の背後には、信長との跡目争いに敗れ死んでいった兄弟達、信長が合戦で討ち破ってきた武将達、今川義元、浅井長政、武田勝頼……無数の敗けて死んでいった亡霊達の姿。
その亡霊達が、信長に群がる怨霊を退けていく。
「俺を、嘲笑いに来たのか?」
「そうではありませぬ。信長様は、今はまだ死ねぬのです。あれをご覧下され」
平手政秀が、地の底を指差す。
信長は見た。怨霊の群れのさらに奥、深淵の底で蠢く、一際禍々しく邪悪で巨大な影を。
「あれなるは、正真正銘の第六天魔王・他化自在天の神体。
信長様が獣に転生したのは、あれをこの世に呼び出すため、南蛮より渡来せし悪魔が企てし儀式の一部にございます。
信長様の魂無き亡骸は、すでに魔王の依代と化し、活動を始めております。そして、獣に宿らせしその魂が怨霊と共に地獄に落ちれば、儀式は成就するのです。
さすれば、アレが現世に顕現する事になり、この世は悪魔が支配する真の地獄と化すでしょう。
我らは冥府にてその事を知り、こうして亡霊となりて馳せ参じたのです」
「義兄上」
ある意味、信長を最も怨んでいるかもしれない義弟・浅井長政の亡霊が語りかけてきた。
「今は、この国を悪魔の手から護る事こそ大事。生前の恨み事など言っている場合では無いのです。
義兄上は、余りに無辜の民草を無意味に殺し過ぎた。悪魔の儀式の牲贄に選ばれるのも当然でしょう。
だが、あの怨霊の群れは、悪魔に利用され儀式に巻き込まれた亡者達。
あの怨霊達を救うためにも、悪魔を討ち滅ぼすまでは義兄上に死は許されません」
「信長、生き続けろ」
「悪魔を滅ぼせ」
「世界を護れ」
亡霊達が口々に信長を責め立てる。
(ミナ、スマナカッタ、ユルシテクレ……)
――そこで黒猫は目を覚ました。