蘭丸と黒猫
戦国時代。
天正十年六月、本能寺。
天下統一直前だった織田信長は、家臣の明智光秀に謀反を起こされ自害した。
信長の近習(護衛、世話役)・森蘭丸もまた、この時に討ち死にしたと歴史は記している。
――だが、これは事実では無い。
森蘭丸は生きていた。
焼失した本能寺にて、現場を検分した役人は、主君の死を目の当たりにして気狂いした美青年を哀れに思い、記録上死んだことにして見逃したのだ。
煤で汚れ、焦燥した青白い顔の美青年・森蘭丸は、黒い仔猫を抱きしめ、薄ら笑いを浮かべてぶつぶつと何やら呟いていたそうだ。
生き延び、見逃された森蘭丸は、やがて黒猫と共に何処かへ姿を消した。
それ以降、森蘭丸が歴史の表舞台に現れることはない。
そして、織田信長の死骸も遂には見付からなかったという。
人の世の歴史の上では……。
それから三年後。
黒猫を抱いた森蘭丸は、伊予の国・松山にいた。夜の山奥を何かに追われ逃げるように進む。
「蘭丸。右だ、右へ行け」
「はい、信長様」
蘭丸は、小さな黒猫を“信長様”と呼んだ。
山奥の木々を右へ抜けると、古びた祠が。
「うむ。やはり! これは封印の結界であるな。この祠に“ヤツ”を閉じ込めてしまおう。蘭丸、封印の術式を用意せよ」
「かしこまりました、信長様」
蘭丸は、黒猫を恭しく地面に降ろし、懐からお札を取り出すと、呪文を唱え始める。
「来たぞ! 蘭丸、急げ」
黒猫は後ろ脚で立ち上がり、短い前肢を急げ急げとパタパタさせる。
ズザ、ズザザ
鬱蒼と茂った木々をかき分け、身の丈5mはあろうかという怪物が、ヌッと顔を出す。
「ここに居ったか信長ぁ。もう逃がしはせぬぞぉ!」
それは、正しく“鬼”であった。
全身の肌は赤黒く、渦を巻いた体毛は禍々しい文様を描き、額から歪に歪んだ角を生やした“化け物”。
耳まで裂けた口をニタリと開き、くすんだ白い牙を黒猫を近付ける。
「フーーッ!」
黒猫が全身の毛を逆立て威嚇する。
だが、鬼はますます顔を近付ける。
「憐れだのぉ、信長よ。
かつては“魔王”とまで呼ばれたおぬしが、非力な仔猫に転生するとはなぁ。
天罰てきめん、比叡山焼き討ちの怨み、今こそ晴らさせて貰うぞぉぉぉ~~!」
鬼の目が爛々と紅く耀き、黒猫を叩き潰すべく右の腕を高々と挙げる。
その腕が黒猫に降り下ろされんとしたその時、黒猫の背後が眩いばかりに輝き空間が開いた。
呪文を終えた蘭丸が術式を発動させたのだ。
「ぐぎゃぁぁぁ~~!!」
突如開いた結界が、凄まじい吸引力で鬼を飲み込む。
ズォォォォ~~
開いた空間は徐々に収縮し、古びた祠に吸い込まれていく。
「ニャ!?」
地面に爪を立てて踏ん張っていた小さな黒猫が、フワリと浮いて鬼もろとも結界に吸い寄せられた。
「信長様、危ない!」
蘭丸が咄嗟に黒猫をキャッチする。
「蘭丸、助かった! 大義である」
「お、おのれ~! これで終わりと思うなよぉ! おぬしに怨みを持つモノは、我らだけでは無いのだぞぉぉぉ……」
鬼を飲み込んだ結界が祠の中に消え、パタンと扉が閉じる。
……静寂が戻った。
「蘭丸、あれを見よ」
黒猫が前肢で指し示す先には、2m程の焼け焦げた憤怒の表情の仁王像が静かに立っていた。
「あれが“鬼”の正体ですか?」
「ふん! まったく、宗教を敵に廻すと録な目に逢わんな。
あの腐れ坊主ども、死ぬ間際に仏教の秘術でも使ったのか? あんな化け物を呼び寄せるとはな」
「でも、信長様もその“宗教”の力で転生出来たのでしょう? キリシタンの秘術で……」
「いや、蘭丸よ、これは宗教の秘術では無い。むしろその逆、呪いの類いだ。
今にして思えば、あの宣教師は噂に聞いた“悪魔崇拝者”だったのだ……」
本能寺で焼き討ちされた織田信長は、その肉体を悪魔に捧げられ、魂は寺に住み着いた野良猫が産んだ仔猫に囚われた。
それを成したのは、信長が明智光秀の軍勢に襲撃される数日前、本能寺を訪れたキリシタンの宣教師。
宣教師は、言葉巧みに信長に取り入り、信長に南蛮渡来の秘宝を献上し、洗礼を授けた。それは、信長が知るキリシタンの洗礼とはまるで違っていたが、西洋のキリスト教などさして興味の無かった信長は宗派の違い位にしか思っていなかった。
――だが、こうして“秘術”が発動し、転生した今、信長は悪魔の呪いを確信していた。
(俺は悪魔に肉体を捧げられ、魂は畜生に堕とされたのだ。
何の目的でそんなことをしたのかは知らんが……)
「信長様、祠の裏に洞穴が有ります。今日はここで夜を過ごしましょう」
「うむ。善きに計らえ」
「はっ、かしこまりました」
蘭丸は、洞穴に寝床を設え、焚き火をおこす。
(それにしても、蘭丸が生きていてくれて助かったな)
仔猫に転生してから、信長には人ならざる妖怪変化が見えるようになっていた。
もし蘭丸がいなければ、無力な仔猫などとっくに獲り憑かれ無惨に殺されていだろう。
転生してからの三年間、悪霊・怨霊に付きまとわれ、蘭丸に護られながら比叡山の放つ霊的な追っ手から逃げまわり、安住の地を探す当ての無い旅を続けていた。
蘭丸は、信長が生前目に見えない神憑り的なモノをいっさい信じない性格なので黙っていたが、生来“見える”体質だったらしい。
幼少の頃、心配した縁者の薦めで陰陽道を一通り学んでいたので、悪霊の対処法も心得ていた。