第77話 犠牲になる覚悟
証明写真を撮るための箱型機械に本物のエルミナを隠し、バスタオルで包んだ袋入りのポテトチップスをエルミナであるかのように偽装しながら逃げ続けるアミカ……やがてトタン板の塀で囲まれた広大な空き地のような場所へと辿り着く。
そこは巨大ビルの建設予定地であったらしく、H形の鋼材が空き地の隅にぎっしりと山のように積まれている。まだ本格的な施工には取り掛かっておらず、建物の骨組みは出来上がっていない。ビルを建設するための重機も搬入していない。
本当に鋼材が置かれただけの、何も無いただの空き地だ。
アミカは空き地に辿り着くと、道路からは見えない位置にある塀の裏側へと身を隠す。そのまま背中から倒れ込むように塀に持たれかかった。
「ハァ……ハァ……」
トタン板に支えられたまま呼吸が荒くなる。これまで全力疾走してきた疲労が少女の体へと一気に襲い掛かり、心臓が締め付けられたように苦しくなる。足はガクガクと小刻みに痙攣して力が全く入らない。体の芯から火照ったように熱くなり、肌の表面にブワッと汗が噴き出す。
これまで精神力だけで支えてきたものの、少女の体はとうに限界を迎えていた。
それでも敵を撒けたかもしれないという微かな希望を抱いて、安心しようとした時……。
『見ぃーーつけたぁーーっ』
希望を打ち砕くように邪悪な声が響き渡り、背後から巨大な影がヌウッと現れて、少女の体をスッポリと呑み込んだ。
「……ッ!!」
アミカが真上を見上げると、ヘルザードが塀から身を乗り出すように前かがみになって、彼女を覗き込んでいる。そして勝ち誇ったようにニタァッといやらしい笑みを浮かべていた。
「ああっ……あっ……」
恐怖のあまり顔をこわばらせながら、アミカが無意識のうちに後ずさる。もはや何処にも逃げ場は無いという思いに駆られて、急速に心が絶望に呑まれてゆく。全身の血液が凍り付いたような感覚を覚えて、体の震えが止まらなくなる。
彼が今ここにいる状況は、彼を止めに入った自衛隊が難なく蹴散らされたという非情な現実をこれ以上無いくらい明確に伝えていた。
屈強なる兵士が二十人がかりでも、このトカゲの化物を止められなかったのだ。ましてや十二歳という幼い少女一人に、一体何が出来るというのか。
『ケケケッ……もう何処へも行かさんぞッ! 鬼ごっこはそろそろ終わりにさせてもらおうかッ! 痛い目に遭いたくなかったら、さっさとエルミナを渡せッ! 大人しく言う事を聞けば、命だけは見逃してやるッ!』
怖がる少女の姿を見て、目的達成を確信したヘルザードが大声で勝ち誇ったように吼える。塀の入口から空き地に足を踏み入れると、一歩ずつ少女へと迫ってゆく。そして瞳を邪悪に光らせながら、いやらしく舌なめずりした。
「いっ……いやぁぁああああーーーーっっ!!」
アミカが心の底から死の恐怖に怯えたような悲鳴を発する。さながらホラー映画の殺人鬼に追われるヒロインのようだった。その勢いのままヘルザードから逃げるように駆け出した。
相手が出入り口を塞いで立っている以上、逃げられるアテがある訳ではない。せいぜい空き地の隅っこに寄って、少しでも相手から距離を開けようとするのが関の山だ。それでも逃げずにはいられなかった。
『クククッ……大人しくしなッ!』
ヘルザードは少女の空しい抵抗を嘲笑いながら、右手首からフック付きのワイヤーを前方に向けて射出する。ワイヤーの先端が片足に絡まって、アミカは前のめりに転んでしまう。
「うあっ!」
豪快に地面に顔を打ち付けて、思わず痛がる声が漏れ出す。擦りむいた膝が赤くなって、傷口から血が流れ出す。
倒れた衝撃で両手に抱えていたバスタオルの包みが少女の前方へと投げ出され、中からポテトチップスが飛び出す。
『……はぁっ!?』
包みから出てきたポテトチップスを目にして、ヘルザードの表情が固まる。一瞬何が起こったのか、全く理解出来ていない様子だった。
『どっ……どういう事だぁっ!? 猫が……猫が、ポテチになっちまったッ!! そっ……そんな馬鹿なッ! 一体何が起こったッ! どういう事だッ! 何故なんだッ! 一体何が……どうなっちまったんだよォォオオオオオッッ!!』
パニックに陥ったあまり、トカゲ男がなりふり構わず大声で喚き散らす。もはや正気ではいられなかった。
彼の脳内では、バスタオルの中には確かに猫が入っていた。猫が入っていると完全に思い込んでいた包みの中から、猫ではなくポテトチップスが出てきた事に、理解力が追い付かないあまり、猫が魔法でポテトチップスに化けたような錯覚すら覚えていた。
『う……嘘だッ! こんなの、何かの間違いだぁっ! 嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ、嘘だぁぁぁああああああーーーーーーッッ!!』
目の前の事実が受け入れられず、ヘルザードはだだをこねるように悲痛な声を上げる。今にも泣き出しかねない勢いだった。
ただのポテトチップスをエルミナと間違えて追い回していたなど、冷静に考えれば失態以外の何物でも無い。そのようなミスが組織内に知れ渡れば、同僚には馬鹿にされ、上司の怒りを買う事は目に見えていた。
ましてや彼の主君たるバエルは、間違いなくこの戦いを見ている筈なのだ。致命的なミスを犯した今の姿をバエルが見たら、どんな感想を抱くか……想像しただけで目まいがして卒倒しそうになった。
気が動転して頭がおかしくなりかけていたヘルザードだったが、ふと冷静に立ち返って視線を向けると、アミカが彼の方を見ながらニヤリと笑っている。
その不敵なしてやったり顔は、策略が成功した喜びに満ち溢れている。トカゲ男がパニックに陥る姿を見て満足したのか、先ほど湧き上がった恐怖心も何処かへと吹き飛んでいた。
『こんーーーーのっ、クソガキャァァアアアアーーーーッ!! よくも……よくも俺様を、だましてくれやがったなぁぁああああーーーーッ!! 許さねえッ! 絶対に許さねえぞぉぉおおおおおおーーーーーーッッ!!』
まんまと乗せられた事に気が付いて、ヘルザードは瞬間的に沸騰したように頭に血が上る。コケにされてプライドを傷付けられた事に対する怒りは炎のように激しく燃え上がり、もはや相手のはらわたを食い散らかさねば収まらぬ勢いだった。
そして湧き上がる怒りのままに、少女に向かって駆け出していた。
『こうなったら、力ずくでもエルミナの居場所を吐き出させてやるッ! 俺に恥をかかせた事を、死ぬほど苦痛を味わいながら後悔し続けるがいいッ!』
ヘルザードは大声で叫び散らすと、自身の手首から伸びたワイヤーを思いっきり強く引っ張る。ワイヤーが足に絡まったままのアミカは遠心力で引っ張られて空へと打ち上げられて、そのまま墜落するように地面へと叩き付けられた。
「うぁ……あ……がっ……」
全身を強打した痛みのあまり、アミカが思わず苦しそうな声を漏らす。三階建ての屋上から飛び降りて地面に激突したような衝撃が体中を駆け巡り、白目を剥いて手足をピクピクさせながら気を失いそうになる。
だがそれでヘルザードの気が済んだ訳では無い。ワイヤーを少女から離れさせて手首に収納すると、地べたに寝転がったままの少女を、今度は自らの足で踏みだした。
『オラァッ! 吐けぇっ! エルミナを何処に隠したか、吐きやがれぇっ! さもないと殺すッ! 絶対に殺すッ! じわじわと拷問するように痛め付けてなぶり殺しにして、切り落とした生首を見せしめとして交差点の信号機に吊るしてくれるわぁぁああああッッ!!』
八つ当たりするように執拗にアミカを踏み付けながら、エルミナの居場所を吐かせようとする。彼の目は何としても恨みを晴らさんとする殺意に漲って、ギラギラしている。怒りで我を忘れたあまり、何処にいるか分からない猫を見つけ出す事よりも、今目の前にいるアミカを殺す事が目的のようにすらなってしまっていた。
「がぁぁああああっっ!!」
いたいけな少女の悲痛な叫び声が上がる……トカゲ男の巨大な足が彼女の体へと落下するたびに、肉が潰れたような鈍い音が鳴り、真っ赤な鮮血が辺り一帯へと飛び散る。
ヘルザードは一踏みでは殺さないようにわざと加減して踏んでいたが、それでもこのまま制裁が続けば、彼女が命を落とす事は目に見えていた。
凄惨な拷問を受け続けて、やがて少女の体はケチャップに塗れたボロ雑巾のようになってしまう。
「ううっ……」
見るからに痛ましい姿になったアミカが、今にも消え入りそうにか細い声を発する。頭がボーーッとして猛烈な眠気に襲われて、もはや痛みを感じる事すら出来なくなった。彼女の命の火は、今まさに尽きようとしていた。
(エルミナ……どうか無事でいて……)
それでも薄れゆく意識の中、アミカはただ一途にエルミナの無事だけを願い続けた。彼女を救えたのなら、いっそ自分はここで死んでしまっても構わないとさえ思うようになっていた。




