第74話 ひとりじゃない(中編)
抗い難き魔力を秘めた男の提案は、無垢なる少女の心に剣のように鋭く突き刺さる。一瞬、誘いの言葉に乗る考えが彼女の頭をよぎった。だが……。
「……嫌よっ!」
口をついて出たのは、拒否する言葉だった。それも無意識の内に出たような曖昧なものでは無く、強い確信めいた意思が込められた、はっきりとした口調だった。
「お姉ちゃんは、アンタ達に騙されたせいで死んだ……そのアンタ達がお姉ちゃんを生き返らせると言っても、私は絶対に信じないっ! もし生き返らせるのが本当だとしても、その時はきっと私もお姉ちゃんも操られて、殺されるハメになる……そんなの、私やお姉ちゃんが望んだ形での復活なんかじゃないっ!」
それは姉が死んだ経緯から、彼女なりにバロウズのやり口を予測した上で導き出した結論だった。
どんな手を使ってでも姉を生き返らせたいと願った事は確かだが、それでも連中が自分たち姉妹を破滅させた張本人であるという厳然たる事実を、決して忘れる事はしなかった。
その事が少女に、連中が律儀に約束など守る訳が無いという冷静な思考を働かせたのだ。
「……ゴミが」
男が唐突にそう口走る。
断られるなどとは想像もしていなかったのか……少女の返答を聞いた直後、男は苦虫を噛み潰したような顔をしながら、体を小刻みに震わせる。見る見るうちに顔が怒りの色に染まっていく事が、サングラス越しでも伝わってくる。
思い通りに事が運ばない事に苛立つあまり、男は堪忍袋の緒が切れかけていた。
「……このゴミクズがぁっ! まだ毛も生え揃ってないションベン臭い青二才のメスガキのくせして、いっちょまえな口の利き方しやがってぇ! 大人に逆らったらどういう事になるか、その足りない脳みそで思い知るがいいッ!」
頭に血が上がってカッとなったのか、それまでの落ち着いた物腰を捨てて、怒りをぶちまけるようにありったけの罵詈雑言で喚き散らす。そしてコートの裏側から拳銃のような物を取り出した。先端の銃口にはサプレッサー(消音装置)が取り付けられている。
「これは麻酔銃だ……万一貴様が言う事を聞かなかった時、力ずくで連れていく為のなぁっ! 命中すれば、巨象だろうと十秒で眠る超強力な麻酔だっ! いくら泣いて叫ぼうが、助けが来る事は絶対に無いっ! 諦めて眠るがいいっ! フハハハハハハッ!」
銃の正体について説明しながら、男が勝ち誇ったように高笑いする。
「ああっ……あっ……」
麻酔の銃口を向けられて、アミカが恐怖のあまり顔を青ざめさせる。今すぐこの場から逃げたいのは山々だが、足が震えてすくんでしまい言う事を聞かない。仮に大声で助けを呼んだとしても、誰かが来る前にさらわれる事は目に見えていた。
少女はもはや蜘蛛の糸に絡め取られた蝶のようになってしまった。
「次に目覚めた時、貴様は姉と同じパワード・スーツの中に入っているだろう。姉と同じ運命を辿れる事を、喜ぶがいい……フフフッ」
アミカが動けないのを見て、男が皮肉めいた言葉を口にする。勝利への強い確信を抱きながら、銃の引き金を引こうとした瞬間……。
「ニャァーーーーッ!!」
何か小さな物体が、叫びながら男の顔に飛びかかった。妙に生暖かくてモフモフした感触が、触れた肌越しに伝わる。
男は一瞬野生のムササビかイタチが現れたのかと思った。
「グッ! 何だ、これはっ!?」
目の前が見えなくなった事に戸惑いながらも、自分の顔に触れた物体を左手で引き剥がして、力任せに足元の地面へと叩き付ける。
「エルミナっ!」
男に飛びかかった物体の名を、アミカが口にする。彼女を助けに現れたのは、エルミナのメモリチップを搭載した猫型ロボットだった。彼女を追ってここまで駆け付けた時、男に襲われそうになっているのを見て、咄嗟に飛びかかったのだ。
「このクソ猫がぁっ! よくも俺の邪魔をしてくれたなぁっ!」
男は腹立たしげに叫ぶと、地べたに転がった猫を何度も足で踏み付ける。
靴を履いた男の足で踏まれるたびに鈍い音が鳴り、猫の苦しそうな声が発せられる。それは動物虐待と呼べる域を通り越して、完全に猫を殺そうとする勢いだった。
「ニャ……ァ……ア」
虫の息になりながらも、猫は必死にアミカの方に顔を向けて、今にも消え入りそうにか細い声を発する。それは男の意識が自分に向いている内に逃げろと、少女に対して言っているようにも見えた。
「嫌ぁっ! お願い、もうやめてっ! それ以上いじめられたら、エルミナが……エルミナが死んじゃうっ!」
アミカが涙目になりながら必死に懇願する。さっき泣いたばかりだというのに、再び泣き出しそうになっている。今の彼女にとって唯一の心の拠り所であるエルミナまで失ったら、もう生きていけないという思いがあった。
だがいくら必死に訴えかけても、少女の要求を男が聞き入れる気配は全く無い。ただ感情の赴くままに猫を踏み続けているだけだ。このまま何も出来なければ、猫が息絶える事は目に見えていた。
(誰か……誰か助けてっ! 誰でも良い……誰か……エルミナを……)
アミカが藁にもすがる思いで、必死に祈った時……。
「うぉぉおおおおおおっっ!!」
勇ましい雄叫びと共に一人の少女が現れて、そのまま勢いで男に体当たりをぶちかました。
「グワーーーーッ!」
不意を突かれたあまり、男は思わず奇妙な叫び声を発しながら豪快に吹っ飛んでいく。まるで猪の頭突きのような強烈なタックルを食らわされた挙句に地面に叩き付けられた衝撃で、つい麻酔銃が手から離れてしまう。
男を突き飛ばした少女は、身を呈して庇うように、背を向けたままアミカの前に二本の足でしっかりと立つ。
「マイ……お姉ちゃん?」
アミカが思わず姉の名を口にする。無論死んだ姉が生き返った筈は無い。自分を守ろうとする少女の立ち姿に頼もしさを感じたあまり、亡き姉の幻影が重なって見えただけだ。
「大丈夫だったか?」
少女が心配そうに声を掛けながら振り返る。
高校の制服を着ながらも、かなり大きめの背丈……陽の光を反射して艶っぽく黒光りする、長めの黒髪……モデルのように美しい体型……凛として透き通った声……整った顔立ち……全身から溢れ出る、年上のお姉さん然とした雰囲気。
「ミサキ……さん」
少女の姿を目にして、アミカの口から安堵した声が漏れ出す。彼女を助けに現れたのは、他ならぬ霧崎ミサキだった。アミカが研究所の外に出たと聞いた時、誰よりも真っ先に後を追いかけていたのだ。
「……」
祈りが届いたように駆け付けてくれた彼女の行いに、心の底から感謝したい気持ちがアミカの中に湧き上がる。
彼女に対してわだかまりを抱えていた筈だった。姉を救えなかった事への恨みもあった。何より、理由はどうあれ直接姉を手にかけた仇だ。
だが今こうして自分のピンチに駆け付けてくれた彼女のヒーローぶりに感激するあまり、それらのネガティブな感情は完全に吹き飛んでいた。
――――ミサキの事、恨まないであげて。
亡き姉の遺言が、少女の胸に深く突き刺さる。
その時になってアミカは全てを理解した。姉は自分が死ぬ間際になっても、妹とミサキが和解する事を、ただひたすらに望んでいた事を。そしてミサキ達三人に、大切な妹を託した事を……。
姉の思いを理解できずに、意固地になって心を開こうとしなかった自分の行いをアミカは深く恥じた。