第73話 ひとりじゃない(前編)
助手の報告を聞いてゼル博士が慌てていた頃、アミカは自分に懐いてくれた猫と一緒に研究所の外に出て、街中の歩道を歩いていた。特定の目的地を目指していた訳では無いが、その足は自然にある場所へと向かう。
「ニャーーン」
少女と歩調を合わせるように歩きながら、猫は時々機嫌が良さそうに鳴く。久々に街中を散歩できてウキウキしているようだ。尻尾をピンッと垂直に立てていて、満面の笑みを浮かべている。
「……」
アミカはそんな猫の一挙手一投足を、興味深そうに観察しながら無言のまま歩き続ける。
彼女からすれば、この猫は不思議な事だらけだった。話しかければ明らかに人語を理解した反応を返すし、横断歩道で信号が赤になっていればピタッと止まる。そして青になれば再び歩き出す。外に連れ出されたというのに何処かに逃げようとする素振りは微塵も無く、少女の行く先々に大人しく付いていこうとする。
とても猫とは思えない知能の高さに、少女は驚かされてばかりだった。それがエルミナのメモリチップを搭載した精巧な猫型ロボットなどとは、露ほども知らずに……。
そうこうしているうちに、やがて一人と一匹は街路樹に囲まれた公園へと辿り着く。
そこは市民が憩いの場として利用している、広大な敷地のある自然公園だった。中央の広場には噴水が設置されており、その周辺では子供たちが楽しそうに水浴びをしている。
だが眼前に広がる風景とは裏腹に、少女の心は晴れやかでは無かった。幸せそうな家族の姿を見かけるたびに、彼らを羨む気持ちが胸の内に募り出す。必死に目を背けようとしていた、一人ぼっちになってしまったという事実を突きつけられた心地がして、自分が惨めに思えてくる。
辛い事を忘れようと思って来た筈なのに、周囲の団欒は、二度とそれを得る事の叶わぬ少女の心をかえって曇らせていた。
(……こんな所、来なければ良かった)
公園に来た事を内心後悔したアミカであったが、せめて少しでも楽しい気分に浸ろうと、砂場へと向かう。そして誰もいない砂場にしゃがみ込むと、両手で砂をかき集めて山のような物を作り始めた。
猫はちょこんと大人しそうに座り、少女が山を作るのをただじっと眺めている。
見るからに機嫌が悪そうな表情を浮かべたまま砂の山を作り続ける光景は、明らかに周囲から浮いている。少女の異様な姿に気圧されるあまり、公園にいた者は誰も砂場に行こうとはしなかった。
(私……何してるんだろう)
砂の山を作っている内に、ふとそんな疑問が胸に湧き上がる。
今日のアミカはやる事なす事、全て裏目に出ていた。周囲の声を聞かないように山を作る事に集中しようとすればするほど、楽しそうに遊ぶ子供たちの声が耳に入ってくる。ましてやこんな砂の山など完成させた所で、それを褒めてくれる姉はもう何処にもいやしないのだ。まるで抜け出そうとあがけばあがくほど、アリ地獄にハマっていくような心境だった。
ふと冷静に立ち返って、そんな自分の現状を客観的に見つめ、私はなんて馬鹿な女なんだろうとやるせない気持ちになる。
それでも今さら後戻りは出来ないと半ば意地になって山を作り続けていたアミカであったが、その時何処からかゴムボールのような物が飛んできて、彼女が築き上げていた山へと激突してしまう。
「うわあっ!」
目の前にあった砂山が破裂して、飛び散った砂をモロに浴びたアミカが、驚いて悲鳴を上げながら尻餅をつく。咄嗟に目をつぶったため目には入らなかったものの、全身砂まみれになってしまう。
「ううっ……ぺっぺっ!」
突然の出来事に一瞬怒りを覚えたアミカだったが、すぐに冷静になって立ち上がると、体中に付いた砂を手で払い落として、口と鼻に入った砂を、唾と一緒に吐き出す。
「すいませんっ! 怪我はありませんでしたかっ!?」
そう言いながら、ボールを投げたらしき連中が少女の元へとやってくる。
アミカの前に現れたのは、妻と夫、その息子と思われる三人家族だった。幼い息子は不安そうに父親の足にしがみついており、両親はボールが飛んでいった事を必死に平謝りする。
「……」
仲の良さそうな家族を目にして、アミカは思わず押し黙る。
彼らに悪気は全く無かったが、今の少女の心境からすれば、家族は嫉妬の対象でしか無かった。更には、これまでの行いを無駄と嘲笑うように倒壊した砂の山も、少女の心に追い打ちをかけた。
「……うっ……うわぁぁああああーーーーっっ!!」
それまで溜め込んでいた鬱憤を全て吐き出すように大声で叫ぶと、アミカはそのまま何処へともなく走り出す。今の彼女は心の堤防が完全に決壊して、必死に塞き止めていた感情が洪水のように溢れた状態になっていた。
「待ってくれっ!」
「ニャァーーーーッ!!」
背後で猫と家族が何か叫んでいたものの、頭が真っ白になった少女の耳には届いていなかった。
◇ ◇ ◇
「ハァ……ハァ……」
現実から逃げるようにがむしゃらに走り続けていたアミカであったが、やがて公園の端にある一本の木へと辿り着く。周囲に人の気配は無く、楽しく遊ぶ子供たちの声も遥か彼方に聞こえる。猫ともはぐれてしまい、彼女は一人ぼっちになっていた。
少女の前にそびえ立つ木は、公園に生えている他の木よりも一回り大きく、遠くから見るとよく目立つ。何も考えずに走っていた彼女は、無意識の内にこの木を目指していたらしい。
しっかりと大地に根を張って、青々と葉っぱを実らせた頼もしい大木の姿は、全てを受け入れる包容力があるようにも見える。
「……」
アミカは最後の拠り所を求めるように木の幹に優しく寄り添う。
「……マイお姉ちゃん」
寂しさのあまり、思わず姉の名を口にする。亡き姉に会いたい気持ちはどんどん強くなり、会えない悲しみで胸が張り裂けそうになる。目にはうっすらと涙が浮かんでくる。
「お姉ちゃん……会いたい……会いたいよぉ……うっ……うわぁあああんっ……」
神頼みでもするように膝をついて木にすがりつくと、声に出してわんわんと泣き出す。目からは大粒の涙を溢れさせ、時折グスッと鼻水をすする音が聞こえる。
むろん少女が泣いて訴えた所で、木がその願いを叶えられる筈も無い。ただ少女の涙の訴えを無言で聞く事が出来ただけだ。アミカ自身もその事は理解していた。それでも何かに対して、溢れる思いの丈をぶつけずにはいられなかったのだ。
深い悲しみに包まれた少女が、一人孤独に泣き続けていた時……。
「そんなに会いたければ、おじさんが会わせてあげよう」
背後から、そんな言葉が発せられた。
「誰っ!?」
少女が声のした方へと慌てて振り返ると、黒のトレンチコートを羽織ってサングラスをかけた一人の男が立っていた。年齢は二十代から三十代くらいに見える。
見るからに怪しげな服装は、素性を知らずとも警戒心を抱かせるには十分だったが、アミカはその男に心当たりがあった。
「バロウズの……協力者っ!!」
さやか達から、姉を悪魔の計画に引き込んだ男の存在について知らされていたため、正体を容易に推測する事が出来た。
「何しに来たのっ!」
アミカは目の前の男を腹立たしげにキッと睨み付ける。彼女にしてみれば、連中は姉を死に追いやった真の仇……いわば自分たち姉妹を悲しみの奈落へと突き落とした諸悪の根源だ。到底許せるものでは無かった。
だが少女に凄まれても、男は全く意に介さない。狩りの獲物をじわじわと追い詰めるようににじり寄っていく。
「もし我々の仲間になれば、君の死んだお姉さんを生き返らせてあげよう。悪い話では無いと思うがね……フッフッフッ」
そして取引を持ちかけながら、不敵な笑みを浮かべる。少女が誘いに乗る事への強い確信を抱いているようだった。
「……!!」
アミカは動揺せずにはいられなかった。姉が生き返る……今の彼女にとって、男の発した言葉がどれほど魅力的に聞こえた事か。もしそれが本当ならば、少女はもう二度と戻らないと諦めていた幸せを、再び掴めるかもしれないのだ。




