第52話 餓狼の一撃(中編-3)
最終形態と思しき姿へと変身したバエル……それはボディビルダーのような体躯をした、屈強なる全裸のデーモンであった。
その見るからに魔王然とした姿からは、バッタ怪人であった前形態の面影は微塵も感じられない。本当に同一人物なのかと疑わずにはいられない程の変容ぶりだった。
その姿はもはやメタルノイドの長ではなく、地獄を支配する魔王バールゼブブになってしまったかのようだ。
「戦いを始める前に、先に忠告しておく……戦場でこの姿を目にして、今まで生き延びられた者は一人としていなかった。そしてこの姿になった我を殺せる者は……この宇宙には、存在しないッ!!」
バエルは両腕を広げて天を仰ぐと、自らが宇宙の絶対王者たる事を声高らかに宣言した。
それは死にゆく者への哀れみの警告か、それとも最強の存在である事をただ自慢したいだけなのか……。
「……」
背筋を伸ばして誇らしげにそそり立つ魔王を、ゆりかとミサキは腹立たしげに睨み付けたが、反論の言葉を挟む事は出来なかった。
もしエア・グレイブルでも力が及ばなければ、地球上に彼を殺せる者は一人もいなくなる。それは宇宙最強であるという彼の言動を証明するに等しかった。
今はただ、さやかがこの冷酷にして傲慢なる魔王を打ち倒してくれる事に、一縷の望みを託すより他なかった。
「ウウッ……」
突風に吹き飛ばされて地面に倒れていたさやかだったが、飢えた獣のような唸り声を発しながら、ゆっくりと起き上がる。
そして目の前の敵を威嚇するように睨み付けると、すぐに飛びかかっていった。
「ウォォオオオッ!!」
荒々しく吠えながら、全力を込めた右拳が放たれる。
バエルはその拳を一切避けようとはしない。まるで相手を舐めているかのように、腕組みしたままふんぞり返っている。そして挑発するようにフフンッと鼻で笑っていた。
そうしている内に、やがて少女の拳がバエルの腹へと命中した。
「ウァッ!?」
拳が触れた瞬間、さやかが驚きの言葉を発した。
六つに割れた魔王の屈強なる腹筋は、少女の拳がドフゥッと音を立てて衝突しても、微動だにしなかったのだ。
まるで幼稚園児が、ぎっしり砂の詰まったサンドバッグを殴り付けたかのようだ。無論相手が痛がっている様子は全く無い。
以前の彼ならば埃のように吹き飛ばせた一撃を、防御すらせずに無傷のまま凌がれた事に、さやかは強い精神的ショックを受けずにはいられなかった。
「フフフッ……どうしたぁ? お前の力は、そんなものかぁ?」
バエルがねっとりとした口調で、ニタァッといやらしい笑みを浮かべる。戸惑う少女の姿を、完全に娯楽として楽しんでいた。圧倒的優位に立ったがゆえの余裕とでも言うべきか。
「フゥゥ……」
驚くあまりぼう然と立ち尽くしていたさやかだったが、やがて思い立ったように前に一歩踏み出す。
そして左右の拳で、目の前にあるバエルの腹を、まるでボクシングの特訓でもするように何度も殴り始めた。
「オラララララァッッ!!」
気迫の篭った雄叫びと共に、少女の拳が腹筋に叩き込まれる。肉の壁に拳がぶつかるたびに、ドフッドフッとサンドバッグを殴り付けたような音が鳴る。
さやかは体力の続く限り相手の腹を殴り続けたが、バエルは痛がるそぶりを全く見せない。
小馬鹿にするように笑みを浮かべながら、平然と見下ろしている。まるで飼い猫に甘噛みされて笑っている飼い主のようだ。
口元からは、フッフッフッという笑いの声すら漏れていた。
「ウァァ……アァ……」
そうこうしている内に、さやかの体力が先に尽きてしまった。
身も心も疲れ果てて、激しく息を切らしながら全身グッタリさせている。
攻撃が全く効かない事への焦りと絶望が胸の内に広がり、狂戦士に目覚めたその心すら、折れてしまいかねない勢いだった。
「クククッ……」
完全に憔悴しきった少女の姿を目にして、バエルがさも愉快げに嘲り笑う。弱者を弄んだ、侮蔑的な目をしながら……。
もはや彼の中では、目の前にいる少女は巨大な毒蛇キングコブラなどではない。再びカゴの中に入れられてもがくだけの、無力にして惨めな昆虫へと戻っていた。
「フッ……何だ、その哀れなへっぴり腰は。拳に全然力が入っていないではないか。そのザマで私を殺せると、本気で思っていたのか? 親切な私が、貴様に身を以て教えてやろう……パンチというのは……こうやって繰り出すものだぁっ!!」
そう言うや否や、バエルは見本を見せてやるとばかりに、全力を込めた裏拳でさやかを殴り飛ばした。
「ウッ……ガァァアアアーーーーーッ!!」
時速二千kmで走る鉄の塊のような剛拳を叩き込まれて、さやかが悲鳴を上げながら吹き飛ばされていく。
ハエ叩きで叩かれたハエのようにあっけなく吹き飛んだ少女の体は、激しい力でビルの外壁へと激突し、そのまま壁をブチ抜いて内部へとめり込む。そして瓦礫に埋もれたまま全身を強打させていた。
「ウァァ……アァ……」
全身血まみれになり、激しく息を切らせるさやか……体中にビリビリと電流のような痛みが走り、一撃食らっただけで戦闘不能になりかねない程深手を負っていた。
それでも気力によって己を奮い立たせると、すぐにビルから飛び出して、迷いなくバエルへと襲いかかった。
「ウォォァァアアアッ!!」
勇ましい雄叫びと共に、気迫の篭ったパンチが放たれる。
その拳が触れかけた瞬間、まるでワープでもしたようにバエルの姿がフッと消えた。
「ウァァアアアッ!?」
敵の姿が目の前から消えた事に、さやかが声に出して動揺する。
慌てふためいて周囲を見回していると、彼女の背後から、巨大な悪魔のような影がヌゥッと現れて覆い被さった。それは背後にバエルが立っている事実を、容易に悟らせるものだった。
その事に気付いて慌てて振り向こうとした時、バエルが彼女の頭を素手で掴んで胸の高さまで持ち上げた。
「グッ……グァァアアアッ!!」
さやかが宙吊りになったまま、苦しげに悲鳴を発する。
バエルの大きな手は少女の頭をワシ掴みにしたまま徐々に力を強めており、メリメリと鈍い音が鳴っている。
まるでプレス機で挟まれたように強い力が頭蓋骨へと加わり、骨がミシミシと音を立てて砕けそうになる。
頭が裂けんばかりの痛みのあまり、無意識の内に手足をバタつかせてもがく。
「どうした? このまま振りほどけなければ、貴様の頭はトーフのように砕けてしまうぞ……」
苦しむ少女の姿を見ながら、バエルはいやらしそうにニタァッと笑ってみせた。完全に獲物をいたぶって殺すのを楽しんでいるようだ。
「ウウ……オァァアアアアッ!!」
さやかは突如勇ましい雄叫びを上げると、自分の頭を掴んでいたバエルの腕を、渾身の力で蹴り上げた。このまま殺されてたまるかという執念と気迫が篭った、凄まじい威力の蹴りだった。
その一撃によりバエルの手が離れて体が落下すると、咄嗟に両足を地について着地した後、すぐに後退して敵から距離を取った。
蹴りを入れられたバエルの腕には強い振動が伝わり、微かにビリビリと痺れている。
「ほう……やるじゃないか」
拳をグッと握り締めて腕の痺れを抑えると、バエルは素直に感心するように口にした。
それは圧倒的な力の差がありながらも、ただ殺されるのではなく、精一杯必死に抗おうとする敵の執念深さに対する、賞賛の言葉であった。
(つくづく殺すには惜しい女だ……決して飼い犬にはならぬと、分かってはいても……)
内心、彼女を配下に引き入れられない事を心苦しく感じていた。




