第48話 ブラック・ナノマシン(後編)
「エア・ナイト……ブーストモードッ!!」
掛け声と共に背中のバーニアから青い光が蒸気のように噴出し、キラキラ美しく光る粒子となって宙を舞う。その青く光る粒子が吸い込まれるように肌に付着して全身がオーラに包まれると、ゆりかは二十倍に跳ね上がった速度で、バエルに向かって一直線に駆け出した。
「ムオオォォッッ!!」
その時突然、男が不気味な雄叫びを発した。まるで飢えたヒグマの遠吠えのような叫び声だった。
敵の想定外の速さに、怒りのあまり激昂したようにも見える。
男はゆりかを必死に素手で掴もうとするものの、彼女の超高速の動きに付いていく事が出来ず、周囲を飛び回る蚊を何度も手で叩き潰すのに失敗したように翻弄される。
ゆりかの目論見は成功したかに見えた。
「……勝機ッ!!」
ナノマシンが今の自分に追い付けない事を確かめると、彼女の中に揺るぎない勝利への確信が湧き上がる。
その確信を胸に抱いたまま、ゆりかはバエルの目前まで迫っていった。
「これで終わりよっ! ……ブースト・ファングッ!!」
全身全霊を賭けた槍の一撃が、掛け声と共に放たれる。
ドリルのように高速で回転する槍の刃先が触れる寸前、バエルはそれを素手で掴んで押し止めた。
「なっ……!?」
ゆりかは驚くあまり、開いた口が塞がらなかった。
十倍の速さに反応された事もそうだが、回転速度も十倍に跳ね上がっているドリルの刃先を素手で掴んだ腕力に、驚嘆せざるを得なかった。並みの力では到底不可能な事だ。バエルの力は底が知れなかった。
「クククッ……十倍速くなって、その程度か? 笑わせる……私がその気になれば、今のお前の数倍速く動けるぞ……」
ショックのあまりぽかーんと口を開けたゆりかを見て、バエルが声に出して嘲笑う。素早さという彼女の強みを、全く相手にしていなかった。
素手で掴んだまま、槍の刃先をギリギリと力ずくで押し返す。そして虚を突くように足払いを決めると、すぐさま彼女を地面に組み伏せて抑え込んだ。
「うぁぁあああっ!!」
柔道の技を決められたように力でねじ伏せられて、ゆりかが苦しそうな声を漏らす。
地面に横向きに寝っ転がる彼女の顔を、バエルは事もあろうに足で踏み付けた。
「私の足の裏を、貴様の舌で舐めて綺麗に掃除しろ……そうすれば命だけは助けてやる」
そう言いながら、ゆりかの口元を塞ぐように足の裏をグリグリと押し付けた。本気で彼女に足裏を舐めさせる屈辱を味あわせようとしているようにも見える。
肌が白くて顔立ちが整っていて知的な美人であるゆりかを、この傲慢にして卑劣な悪魔のような男は辱めようというのだ。
「んんんんんーーーーっ!!」
口を塞がれて目をつぶったまま、ゆりかが悔しまぎれに声を発する。
敵の足裏なんて、死んでも舐めてやるものかと言いたげだった。彼女にも戦士として、女として誇りがあった。
その誇りを野獣のような男に穢されたくなかったのだ。
「ゆりちゃんに何て事をっ!」
「その汚い足、今すぐどけろぉっ! このド変態がぁあああーーーっ!!」
さやかとミサキが共に声を荒らげながらバエルに飛びかかる。
バエルが咄嗟に飛び退いて距離を開けると、二人はすぐにゆりかに駆け寄った。
「ゆりちゃんっ!」
「大丈夫かっ!?」
二人して心配になって声を掛けながら、慌てて彼女を抱き起こす。
「だっ、大丈夫……ゴメン、二人とも……何の役にも立てなくて」
ゆりかは疲れたように全身をグッタリさせて半笑いしながら、申し訳無さそうに謝る。深い傷を負った訳ではないが、二十秒が経過してバイド粒子を全放出した事により、力を使い果たしていた。
その事に負い目を感じるあまり、自分が二人の足を引っ張っているのではないかと思わずにいられなかった。
「気にするな……お前にはこれまで何度も助けられた。十分に感謝している」
彼女の負い目を払拭しようと、ミサキが優しく言葉を書ける。
それは決して嘘偽りなき心から出た言葉であり、彼女がいなければ難局を乗り越えられなかったという切実な思いが込められていた。
ミサキのその言葉に救われたのか、ゆりかは少しだけ嬉しそうに微笑んだ。
「よくもゆりちゃんを……絶対に許さないっ!」
さやかは友の顔を踏みにじられた事への怒りを滲ませると、バエルをキッと睨み付けて、ゆっくりと立ち上がった。
大切な物に泥を塗られて穢された心境になり、激情を覚えずにはいられなかった。
「最終ギア……解放ッ!!」
掛け声と共に右腕のギアが高速で回りだし、エネルギーが物凄い速さで溜まっていく。
そしてエネルギーが溜まりきると、さやかは気合を込めるように右拳をグッと握り締めて、技を放つ構えに入った。
黒い男は主人を守るようにさやかの前に立ちはだかると、真似するように彼女と全く同じ構えをした。
それでもさやかは技を中断するそぶりを全く見せない。そのまま男をブチ抜いてやるつもりでいた。
「オメガ・ストライクッ!!」
技名を口にしながら、さやかの全力を込めた拳の一撃が放たれる。
男もそれに合わせて全く同じ動きで、同じタイミングで右拳を突き出し、互いの拳と拳が激しくぶつかり合った。
ドォォーーンと爆発音のような音が鳴り響き、それと共に生じた衝撃波が周囲に伝わって、空気が俄かにビリビリと振動する。
そして一瞬の静寂が訪れる。ゆりかとミサキは思わずゴクリと唾を飲み込んだ。
「ムッ……ムオオォォッ!?」
直後、衝突した男の右腕がボコボコと音を立てて沸騰したように泡立ち、その異変が右腕から全身へと伝わっていく。それが技の威力によるものである事は一目瞭然だった。
「ブッ……バァァアアアアーーーーーッッ!!」
男は何とも奇妙な叫び声を発すると、まるで風船が割れたようにバァーーンと爆発して、跡形もなく消し飛んだ。
「や……やったぁ……」
さやかが勝利の喜びに浸り、一瞬気が緩んだ時だった。
全身に振動が伝わったようにブルッと震えた後、拳がぶつかった衝撃が後から一気に彼女へと襲いかかった。
「うっ……うわぁぁああああっ!!」
生じた時間差により遅れて襲いかかった痛みに、さやかはまるで目に見えない攻撃でも食らったかのように、何も無い場所からドォォンと後ろに弾き飛ばされてしまう。
「ううっ……」
「さやか、大丈夫っ!?」
地面に倒れたまま苦しそうに呻き声を漏らすさやかに、ゆりかとミサキが慌てて駆け寄った。
「相打ち……だったのか……」
ミサキが苦悩を滲ませた表情で口にした。
「相打ち? フッフッフッ……それはどうかな」
ミサキの言葉を聞いて、バエルが意味ありげに不敵に笑った。
劣勢に追い込まれた男が吐く言葉では決してない。その言動からは明らかに余裕が見て取れた。
バエルが合図を送るように右手を掲げると、男が立っていた場所に黒い霧が集まっていき、再び人の形を成していく。そして男は拳を突き出した姿勢のまま、さっきと全く同じ場所に立っていた。
まるで相打ちになって消し飛んだ事実など無かったかのように……。
「分散させる事までは出来ても、機能停止には追い込めなかったようだな……力が足りなかったという訳だ。残念だったなぁ……アハハハハッ」
さやかの努力を無駄な行為だと断ずるように、バエルが声に出して嘲笑った。
「う……そ……」
消滅したはずの敵が即座に復活を遂げた事に、さやかは深いショックを受ける。
勝利の喜びに満ちていた希望は粉々に打ち砕かれ、敵は無限に復活するのではないかという途方もない絶望と恐怖に呑み込まれていく。
もはや頭の中に、敵に勝てる未来のビジョンを全く思い描けなかった。
ゆりかとミサキの心にも動揺が広がり、何の打開策も見出せない事への焦りが募り出す。
「ここまでか……そろそろ潮時だな」
そんな彼女たちを見ていて、バエルが少し落胆したように溜息をついた。相手の実力が想定を上回らなかった事に失望したようにも見える。
やがて意を決したようにバエルが右手を掲げると、男の姿はまたも霧のように散っていき、彼の右手へと集まっていく。
そして八芒星の形をした黒い巨大な手裏剣へと姿を変えた。
「ナノマシン・ギロチンブレイド……これでお前たちの首を刎ねてやろう。少し名残惜しいが、ここでお別れだ。お前たちの事は一生忘れん……せめて我が思い出の中で、永遠に生き続けるがいい……さらば、装甲少女たちよッ!!」
死を宣告すると、バエルは分厚い鉄板のような手裏剣を、さやか達に向かって力任せに投げ付けた。
手裏剣は風を切るような音を鳴らして回転しながら、物凄い速さで飛んでいく。なすがままにさせておけば、三人の少女の首が飛ぶ事は間違いなかった。
だが身も心も絶望に染まった今のさやか達には、手裏剣を受け止める力も、避ける気力も残っていなかった。いっそこのまま死を受け入れてしまおうかという、諦めの感情すら湧き上がっていた。
完全に気力を失った彼女たちの目前まで手裏剣が迫った、その時だった。
「っ!?」
さやか達も、そしてバエルですら、突然の出来事に目を丸くさせた。
空の彼方から赤く光るレーザーのような物体が高速で放たれると、さやか達に迫った手裏剣を一瞬にして撃ち抜いていた。
閃光に切り裂かれて二つに割れた手裏剣は細かい粒子となって分解されて、大気へと散っていく。機能停止となったかどうかはまだ判別が付かない。
「……来たか」
強敵の来訪を予感してバエルが咄嗟に身構えると、それに応えるように、空の彼方から一人の少女がバーニアを噴射させて飛んでくる。
むろん言うまでもなく、その少女はさやか達の味方の戦闘用ロボット、エルミナだった。
「フフフ、待っていたぞ。さあ、どちらが本当の強者か……決着をつけようじゃないかッ!!」
本命の到着を待ち望んだかのようにバエルが口にする。口元には微かな笑みを浮かべている。
駆け出しの兵士だった昔を思い出したのか、口調が少しだけ若返っていた。
エルミナはバーニアの出力を調整してゆっくり地面に降り立つと、宣戦布告するように目の前の敵を睨み付けた。
「ママの敵は……私が倒すっ!!」




