第46話 狼の牙
広場に隣接した大きな森……その森の奥深くに、廃れた小さな洋館のような建物があった。周囲はのびのびと育った雑草が足の踏み場も無いほど生い茂っていて、建物の外壁には蔓や苔がびっしりと張り巡らされている。庭の手入れをした形跡は全く無い。
壁は今にも崩れそうなほどボロボロに朽ちており、人が住んでいるようには到底見えなかった。
屋根の上にはカラスの群れが不気味にたむろしており、まるで侵入者を見張るかのように目をギラギラさせている。
遥か遠い昔に捨てられたまま廃墟と化したその建物が、協力者の隠れ家に使われている事を知る者は少ない。
建物の中にある、書斎のような一室……そこにある椅子に、仮面を被った男……バエルが座っていた。
「……」
さやかが病院で眠っていた頃、バエルもまた椅子に座ったまま眠りに就いていた。悪夢を見てうなされている様子は無い。
やがて目が覚めたのか、ンンッと気だるそうに声を漏らしながら、ゆっくり椅子から立ち上がった。
(……懐かしい夢を見た)
心の中でそんな事を口にしながら、昔の思い出に浸る。
◇ ◇ ◇
バエルの脳裏に浮かんだ光景……そこには筋骨隆々とした体格の、見るからに乱暴そうな顔付きをした人間の男がいた。
褐色に近い肌色、天然パーマのようなボサボサの黒髪に赤いバンダナを巻いて、上半身は黒のタンクトップ、下半身は迷彩服のズボンを穿いていた。体のあちこちには豊富な戦闘経験を積んだらしき古傷が付いている。
周囲は爆撃で半壊したようなコンクリートの廃墟であり、その外には広大な砂漠が広がっている。時折乾いた砂漠の風が、砂と共に吹き抜ける。
男はサバイバルナイフを右手に握って仁王立ちしながら、全長3mを越す巨大なドーベルマンのような猟犬と正面から向き合っている。
男の目は真っ赤に血走り、眉間には皺を寄せて、眉毛は逆立っている。
自分より大きな敵を前にしても決して物怖じしない殺気と闘志が、その表情からは伝わってきた。
「貴様ぁ……俺を誰だと思ってやがるっ! 俺はバエル……『狼の牙』と呼ばれた男だぞっ! 俺を噛み殺すというなら、噛み殺してみせろっ! 貴様が俺の喉元に食らいつく前に、俺が貴様の喉笛を掻っ切ってやるっ! 掛かってこい、この哀れなクソ犬がぁっ!!」
男はアクション映画の主役のように勇ましく吠えると、犬が駆け出したのとほぼ同時に、前方に向かって走り出した。
◇ ◇ ◇
……そんな回想に浸り、バエルがククッと声に出して楽しげに笑う。昔体験した出来事を思い出し、俄かに高揚感が湧き上がったようにも見える。
そうしてバエルが昔を懐かしんでいると、主人が起きた事に気付いたのか、黒服の男が部屋へと入ってくる。
「お目覚めになられましたか、バエル様……このような質素で窮屈な場所に、あなた様のようなお方を休ませてしまって、誠に申し訳ありません。何分急ごしらえで用意した隠れ家ですので……」
男が非礼を詫びるように平謝りする。この建物しか用意できなかったとはいえ、偉大な指導者たる主人をオンボロな廃墟に招いてしまった事で怒りを買い、処刑されてしまうのではないかと内心恐れを抱いていた。
「フッ……構わんよ。私のような成り上がり者は、たまにこういうボロ小屋で寝泊りした方が、昔の事を思い出せて風情があるというものだ」
懐かしさで機嫌を良くしたのか、バエルは自虐と余裕が入り混じったような言葉で、部下に対して寛大さを示した。
彼がふと、部下が腕に付けている時計に目をやると、約束の時間が間近に迫っている。
「さて……そろそろ狩りに出かけるとするか」
バエルはそう口にすると、部下をその場に残したまま、ゆっくり部屋の外へと歩き出した。
(赤城さやか……犬か狼か、お前はどっちだ?)
……そんな思いが彼の心をよぎった。
◇ ◇ ◇
数時間前に戦ったのと同じ広場にバエルが徒歩で到着すると、ほぼ時を同じくしてさやか達三人も、変身済みの姿のまま歩いてくる。
彼女たちの顔は揺るぎない闘志に満ち溢れていた。死を恐れるそぶりは少しも感じられない。
「まさか本当に来るとはな。素直に何処か遠くに逃げてしまっても、構わなかったのだぞ? もっともその時は、京都を火の海にしてやるがな……クククッ」
バエルが皮肉交じりに口を開いた。
彼がふと周囲を見渡すと、エルミナの姿が何処にもない事に気付く。
「あの機械人形の娘はどうした? てっきり四人で来るものだとばかり思っていたが……」
訝しげに問いかける。バエルにとってエルミナの存在は大いに目障りだが、それでも彼女がさやか達の中で一番の戦力である事実に変わりはない。その彼女が今この場にいない事に、違和感を覚えずにはいられなかった。
「アンタなんて、私たち三人だけで十分よっ! さあ、どっからでも掛かってきなさいっ! バラバラに引き裂いて、粗大ゴミに出してやるんだからっ!」
さやかは強気な口調で、あえて挑発するように言い放つ。拳をグッと握り締めて、敵を迎え撃つべくファイティングポーズを取る。
バエルがその挑発に乗る気配は全くない。彼女の言葉など気にも留めていないかのように冷静さを保っている。
「そうか……戦いが始まる前に、先にお前たちに見せておきたい物があった。あの小娘も一緒なら良かったのだが、まあいいだろう」
彼がそう言いながら合図を送るように指をパチンと鳴らすと、遥か上空から黒い物体のようなものが急速に落下してくる。
やがてそれはドォォーーンと爆発音のような音と共に地面に激突し、その衝撃で辺り一帯が軽く揺れた。まるで巨大な象でも落ちてきたのかと見紛うほどの振動だった。
「これは……ッ!!」
落ちてきた物体を目にして、さやか達が驚きの声を上げた。
それはジュースの自動販売機よりも二回りほど大きな、黒い石碑だった。前面にはさやか達四人の名前が、片仮名で刻まれている。
「文字通り、ここをお前たち四人の墓場とする……その為に、わざわざ墓石を用意してやったのだ。全て片付いたら、墓石の根元に大きな穴を掘って、お前たちの亡骸を埋めてやる。そして我に逆らいし愚か者共の名を後世へと語り継ぎ、その愚か者が埋葬された地として、ここを記念すべき観光地にしてやろう……ファッハハハッ!!」
ジョークとも本気ともつかない言葉を発しながら、バエルが楽しげに高笑いする。
やはり彼にとってこの戦いは、一時の退屈を紛らすための遊びでしかないのだ。
自身が殺されるかもしれないという恐れは、その態度からは欠片も感じられなかった。虫カゴの中のクワガタをおちょくって遊んでいる感覚だ。
「バエル……ッ!!」
さやかがギリギリと歯軋りして、怒りをあらわにする。
明らかに相手の力を舐めているバエルの態度は、彼女には到底許せなかった。それが両親を殺した仇なら、尚更の事だ。
内心この憎たらしい敵を地べたに這いつくばらせて、土下座させたい衝動にすら駆られた。
「バエル……生憎だけど、墓の下に入るのは私たちじゃなくてアンタよっ! アンタをバラバラのズタズタのグッチャグチャに引き裂いて、粗大ゴミにして、アンタの名前を刻んだ墓の下に埋めてやるんだからっ!」
湧き上がった怒りを全てぶつけるように、さやかが言い放つ。
そんな彼女の気迫を前にして、バエルは一歩も引かない。
「クククッ……良いだろう。ならば我とお前たち、どちらが墓の下に入るか……その身で確かめてやろうっ!!」
そう言い終えると、突如両手をグワッと開いて、両腕を目の前でX字に交差させる構えを取った。
「……蒸着ッ!!」
『STAND BY!! 3……2……1……Deposition!!』
バエルがニヤリと笑いながら口にすると、それに合わせてナビゲートらしき機械音声が流れ出す。
直後頭上にブラックホールのような黒い球体が現れると、彼の姿をすっぽりと包み込んだ。
「なっ……!?」
目の前で起こった出来事に、さやか達が困惑する。
相手の身に何があったのか全く理解出来ず、混乱するあまり一歩も動けずにいた。
さやか達三人がそうして何も出来ずにいる間に、黒い球体がボコッボコッと音を立てて不気味に蠢き、やがて突然それは黒い霧を一気に吐き出して、物凄い速さで蒸発しだした。
……球体が完全に消えて霧が立ち込めた後に、人影が立っていた。
それは背丈2.5mほど、バッタが人型になったような外見をしており、全身は濃い緑色に染まっている。背中には巨大なトンボのような虫羽を生やしている。
左胸にはギリシャ文字の『T』が刻印されている。
その姿は殺人ロボットというより、特撮ヒーローに出てくる悪の怪人のように見えた。
「バエ……ル……!?」
まず間違いなく彼の戦闘形態であろう姿を目にして、さやかは驚きを隠せない。
騎士の鉄仮面を被っていた以前の姿も異様だったが、今目の前にいる男の姿はそれを遥かに上回っていた。
想像の遥か斜め上を行く彼の変身した姿に、戦慄を覚えずにはいられなかったのだ。
あまりの不気味さに恐れおののく少女に向かって、バエルは宣戦布告するように口を開いた。
「改めて名乗らせて頂く……No.031 コードネーム:バエル・ゼブブ……かつて世界に史上最悪の絶望と混沌を撒き散らし、『大魔王』にして『大君主』と恐れられた男よッ! さあ、始めようか……血と暴力と狂気に染まった、少女たちの嘆きの宴をッ!! 今宵、世界は地獄へと変わる……」




