第132話 迷いの森(後編)
「いやぁ……」
自分を転ばせたのが人間の死体だったと知って、リサがうっすらと涙目になる。彼と同じ運命を辿るかもしれない恐怖のあまり目眩がして、意識が遠くなりかけた。手足は血が抜けたように力が入らなくなり、もはや自力では立ち上がれなくなる。
「グルルルルゥ……」
内股のまま地面にへたり込むリサに、メタルハウンドが一歩ずつにじり寄っていく。本物の生きた犬のように唸り声を発しながら少女を睨む瞳は、ギラギラした殺意に満ち溢れていて、彼女を殺そうとする意図が明確に伝わる。
だらしなく涎を垂らした口元は、心なしか笑っているように見える。
お前も、そこに転がる死体と同じ運命を辿るんだよ……少女には犬がそう言いたがっているように思えた。
「グルルゥ……ウウ……グァァァアアアアアッッ!!」
しばらく牽制するように距離を保った犬だったが、やがて痺れを切らしたように大口を開けて雄叫びを上げながら、少女目がけて飛びかかった。
「いやぁあああっ! 誰かっ! 誰か助けてぇっ! 私、こんな所で死にたくないよぉぉおおおおおっっ!!」
リサが森中に響かんばかりの声で泣き叫んだ。ろくに身動きすら出来ない少女にとって、それはたった一つの、そして精一杯の悪あがきだった。後は奇跡が起こるよう神に祈る事しか残されていなかった。
だが祈る気持ちも空しく、犬の牙が少女に届きかけた瞬間……。
『うぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおっっ!!』
何処からともなく男の叫び声が放たれる。それと同時に車のタイヤくらいの大きさの岩が物凄い速さで飛んできて、メタルハウンドの胴体に命中する。
「ギャワワワンッ!!」
ロボット犬が悲鳴を上げながら豪快に吹き飛ぶ。横っ腹を殴られた強い衝撃で大地に叩き付けられて、派手に何度も地面を転がった。
突然の出来事にリサがぽかんと口を開けたまま呆けていると、巨大な何かがドスンドスンと足音を立てながら彼女に近付いてくる。
『お母さんが言っていたリサというのは、君の事だな? 大丈夫かっ! 助けに来たぞっ!!』
そう言いながら身を屈めて少女の顔を覗き込んだのは、彼女を助けに森へと向かった、他ならぬトータスだった。
「あっ……うん」
リサが呆気に取られたまま気の抜けた返事をする。命が助かった事への喜びと、メタルノイドに命を救われた驚きが複雑に混ざり合い、まともに思考を働かせられなかった。
『……それは良かった』
トータスは少女が無事な姿を見て安堵の笑みを浮かべると、倒れた犬の方に向き直りながら、彼女を庇うように仁王立ちする。この命に替えても少女に手出しさせまいとする強い決意を秘めた瞳でロボット犬を睨み付けた。
「ウウゥ……」
メタルハウンドは相手を威嚇するように唸り声を発しながら、ゆっくりと地面から起き上がる。岩をぶつけられた箇所の装甲が砕けて内部の機械が露出したものの、致命傷にまでは達しておらず、体をよろめかせながらも敵に向かって歩き出す。
「ウウゥ……ウォォォオオオオオオオオオッッ!!」
やがて残された力を振り絞るように勇ましく吠えると、迷わずトータス目がけて飛びかかる。そして大口を開けて彼の右腕にガブリと噛み付いた。そのまま顎に力を入れて牙を食い込ませようとしたものの、トータスの装甲は鋼のように硬く、牙が全く通らない。せいぜい牙の塗料が剥げ落ちて、噛み跡となって腕に付着しただけだ。
しょせん量産ロボとメタルノイドでは、ウサギとライオンほどの戦力差があり、ロボット犬如きの牙などで手傷を負わせられる筈も無かったのだ。
『フンッ!』
トータスはロボット犬がしがみ付いたままの腕を高々と振り上げて、大地に向かって一気に振り下ろす。
「……ッ!!」
振りほどかれた衝撃で地面に叩き付けられたメタルハウンドは五体バラバラに砕け散り、悲鳴を上げる暇すら与えられずに息絶えた。
トータスにしてみれば、肩に止まったハエを手で振り払うに等しかった。
「……」
一連の光景を、リサはただ黙って眺めていた。
敵であれば恐ろしいメタルノイドだが、味方となればこれほど頼もしい存在があっただろうか。人類の敵であったはずの大男は、今や少女のピンチに駆け付けるヒーローとなったのだ。
その事にリサ自身、うまく言葉では言い表せない感情を覚えて、少し戸惑っていた。
『大丈夫か? 何処も怪我はしていないか?』
敵を完全に仕留めると、トータスは少女の方へと振り返り、改めて安否の確認を行う。口調はとても穏やかで優しく、まるで娘に話しかける父親のようだった。
少女は一瞬だけ怖がったものの、男の腕に付着した塗料の噛み跡を目にして、彼は自分を助けるために敵と戦ってくれたんだと心の底から実感する。その事に感謝したい気持ちが、胸の内から急激にこみ上げる。
「あの……その……本当に、ありがとう」
うまく感謝の気持ちを伝えられず、不器用な言葉が口から飛び出す。それでも思いは伝わったのか、トータスが満足げにニッコリと笑う。
『母さんが君の帰りを待ってる。俺が村まで送ってあげよう。さぁ、ここに乗っておいき』
カメ男はそう言いながらしゃがんで背を低くすると、腹の前に両手を添えて、少女が乗れるくらいのスペースを作る。リサが指示に従って手のひらに乗ると、男はすぐに立ち上がり、少女を落とさないように慎重に歩きながら森の外に向かって歩き出す。
森はずっと同じ景色が続いたものの、大地には巨大な足跡が残ったため、カメ男が道に迷う事は無かった。
◇ ◇ ◇
トータスが村の近くまで来ると、柵の囲いの入口に何十人もの男女が集まっている。その中にはさやか達一行、銃を持った見張りの男、そしてリサの母親、その夫と思われる人物がいた。
「リサが……リサが、戻ってきたぞぉぉぉおおおおおおっ!!」
リサの父親と思しき男が、トータスの手に乗せられた娘の姿を目にして歓喜の言葉を漏らす。娘が無事だった嬉しさのあまり、表情が感動一色に染まる。
「ああっ……リサ……リサァァァアアアアアアーーーーーーーーッッ!!」
母親が大声で名を呼びながら、たまらずに娘の元へと駆け出す。
他の者も後に続くように一斉に走り出して、カメ男の前にはあっという間に人だかりが出来る。
「パパ……ママ……うわぁぁぁあああああんっ!」
リサはカメ男の手から飛び降りると、すぐに両親に抱きつく。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
そしてヒックヒックと小声ですすり泣きながら、何度も声に出して謝る。自分のやらかした事で多くの人に迷惑を掛けたと深く反省し、申し訳ない気持ちになる。
「もう良い……もう、良いんだ」
両親もそんなリサを、あえて責めたりしない。普段なら厳しく叱っていた所だが、娘が無事だった嬉しさで胸がいっぱいになり、とてもそんな気分になれなかった。何より娘が自分で反省しているのに、そこに更に追い打ちを掛けるような真似はしたくなかった。
「ああっ……貴方様のおかげで、娘の命が救われましたっ! このご恩にどう報いれば良いやら……」
母親がお礼の言葉を述べる。娘を助けてくれた事に心の底から感謝するように頭を下げて、お祈りするように何度も手を合わせて拝んだ。もはや母親にとってカメ男は畏怖の対象ではなく、大切な家族を救った命の恩人だった。
「トータスとやら……俺達からも礼を言わせてもらう。アンタが村の子供を助けた事は、紛れもない事実だ。アンタはデスギュノスのような悪魔とは違う……それは村の多くの者が認めるだろう」
銃を持った見張り役の男が、少し照れ臭そうに頭を手で掻きながら言う。不器用ながらも、遠回しにトータスを受け入れると言いたげだ。
他の者たちも賛同するように頷き、カメ男の罪を赦そうとする空気が場に漂う。
だが男の言葉を聞いても、トータスの表情は晴れやかでは無い。何処か寂しそうな目をしながら、儚げに顔をうつむかせている。
『……俺には、礼を言われる資格なんて無い』
小声でそう呟くと、人だかりからゆっくりと離れていく。そして村人に背を向けたまま、地べたに座り込んでしまう。
「カメのおじさん……」
トータスの反応を目にして、リサが悲しそうな顔をする。たとえ他人に許されようとも、自分で自分を許せない……そう言いたげなカメ男の態度に、村人が一様に顔を曇らせる。どうにかしてあげたい気持ちに駆られたが、方法が思い付かない。
さやか達も考えは同じであり、やりきれない思いがして、背中がむず痒かった。
「トータス……」
ミサキは哀愁漂うトータスの背中に、かつての自分を重ねて、複雑な心境になる。けれども掛ける言葉が見つからずに、ただ見守る事しか出来なかった。
その場にいる者全てが無言のまま落ち込んでいる姿を、曇り空を飛ぶカラスの群れは、遠くからただ静かに眺めていた。
◇ ◇ ◇
その日の夜……皆が寝静まった頃。
迷いの森に放置されたままのメタルハウンドの残骸に、巨大な人影が忍び寄る。
人影は手から細いワイヤーのようなものを伸ばして、地面に転がった犬の頭部に突き刺す。
『ゼハハハハッ……トータスめぇ……こんな所にいやがったか』
人影の正体は、森にメタルハウンドを解き放った張本人であるデスギュノスだった。残骸に記録された視覚のデータを読み取って、トータスと少女の姿を見たのだ。それによって近くに人里があるだろう事も、推測ではあるものの突き止めた。
『首を洗って待っていろ……新装備によって生まれ変わった俺が、装甲少女ともども皆殺しにしてやるッ!!』
……森に広がる暗闇に、邪悪な男の瞳が怪しげに赤く光った。




