前編
【序章】
満月に少し足りない月が浮かぶ夜空を、赤と緑の星が舞い踊る。赤い光は大小様々なビルの屋上を弧を繋ぐように描いて飛び跳ね、緑の光は赤に追いつかれないように速度重視で一直線に空を行く。
「まったく、しつこいわね」
弾んだ息の間から魔女は愚痴を空にこぼした。長い銀髪を後ろにたなびかせ、白いワンピースを伸びやかな体にまといながら魔女は空を駆ける。
「ロック!《閉紋:愚者の道:駆動》」
言葉とともに、魔女のつま先は空を踏みしめ体を前へと跳躍させる。それを追うように、左手の薬指にはめられたエメラルドの指輪は川面のように煌めき、迷いのない軌跡を夜空に描いた。
後ろから追いかける赤の光は曲線を描き、緑の直線と赤の円弧が交差する。そして魔女の背後を、轟音を伴った風が横殴りに通過した。
「おっと」
だが、魔女は風に逆らうことなく体を回してやり過ごす。背後を向いた視線の先を、カーバンクルを思わせる燃えるような赤の五線が流れていった。
「乙女の柔肌がそんなに恋しいの?」
からかうような笑みを残して、魔女は再び前を向く。
「いい気になるなよ! フェンリルの亡霊が!」
流れ行く銀髪を野太い声が震わせる。それは闇に浮かぶ灰色の巨躯から発せられた。全身は剛毛で覆われ、丸太のような腕の先には赤光を宿す爪が不気味に自己主張している。そして、言葉を発した顔は狼のそれだった。
「亡霊を捕まえようだなんて、それこそいい気になってるんじゃないの? 人狼さん」
舞うように軽いステップを踏みながら、魔女は空を滑るように獣の先を行く。
「減らず口をっ!」
円弧を直線へと近づけながら人狼は宙を加速する。二つのラインは交錯する頻度を増し、人狼は何度も腕を振っては魔女へと殺意の爪を振り伸ばす。しかし、そのたびに魔女はテンポを刻んで逃げていく。
「ロック、ロック、ロック、ロック」
連続で放たれる言葉とステップは流れるような疾走へと繋がり、夜空に輪舞を描いて人狼の攻撃をかわしていく。
《ナンバー13》
すると、魔女の頭に中性的な音声が響いた。
「何よ、黒兎。いいところで……」
両手を広げて突き出された殺意の切っ先をかわしながら、魔女は後ろに跳んで音声に答える。
《警告:リンク解除まで残り百八十秒です》
「げっ!? もうそんな時間!?」
抑揚のない警告に魔女の表情は歪み、動きが一瞬乱れを見せる。
「もらったッ!」
人狼の歓喜にも似た声とともに、なぎ払うように鋭い爪が魔女に襲いかかった。それは脇腹を抉るような軌道で、赤い五本の光が迷いなく伸びていく。
「遊びもここまでね」
魔女がつぶやいた直後、その体から分厚い肉を叩きつけるような音と石を砕くような音が連続して夜空に響く。
「ぐっ!」
くぐもった声を吐き出すと、魔女は流れ星のようにビルの群れへと緩やかに飛んでいく。
人狼は追撃をしかけようと体制を整え、そして魔女の声を聞いた。
「デュアル・ロック《永続閉紋:獣の本質:駆動》」
その直後、人狼の視界で魔女の姿が一瞬揺らめき、流れる銀髪は闇へと溶けて形を失う。
「どこへ行った!?」
人狼は周囲を見回し魔女の気配を探る。すると、いつの間に移動したのか遙か遠くに魔女の気配を微かに感じた。そちらへ目をやれば、星の光に紛れて微かに緑の輝きが見てとれる。
「おのれ、無駄なあがきを。逃がさぬぞ!」
人狼は獲物を睨みつけ、獣の咆哮とともに再び跳躍を繰り返す。
赤の色が夜空をかきむしり、追走劇はまだ続く。
【第一章】
静かな深夜の空に月が煌々と輝いている。
町外れの忘れられた廃墟ビルの屋上で、少年――立川アユムは空を見上げていた。
「はぁ、どうしよう……」
ため息混じりに漏れた言葉に答える者は無く、昼間の熱い日差しの名残が生温かい風となって吹き抜けていく。
空に浮かぶ月へと手を伸ばしてみても、宙をかくだけの手のひらに距離を感じて、アユムは腕を力なく下ろした。
「明日になったら、もう……」
そこまで言って思い浮かべた想い人の顔に、アユムは胸を押さえると肩から力を抜いてゆっくりと息を吐き出す。その顔には、諦めにも似た苦笑が浮かんでいた。
普通に高校に入って、普通に勉強して、普通に友達と遊んで、そして、いつの間にか恋をしていた。
それは同じクラスの女子だった。みんなから頼られる学級委員長で、少し冷たい感じもするけど優しくて、でもどこか周囲とは一線を引いているような、少し不思議な雰囲気をまとった少女だった。
何をやっても空回りな僕とは大違いだ。
アユムは数々の失敗を思い出して、ため息をついた。
プリント運びを手伝ったら緊張してプリントを廊下にぶちまけて、それを拾って顔を上げたら彼女のスカートの中だったり、教室を掃除してたら雑巾を踏んで足を滑らせた拍子に彼女を押し倒していたり、それ以外にも似たようなことが何度かあって、ついに彼女は僕を見るなり無言で距離をとるようになってしまった。そして、昨日のお別れ会では彼女の胸にジュースをこぼして、慌てて拭いた僕は彼女の見事な平手打ちを頬に食らった。
気のせいか少し熱くなった頬をさすりながら、アユムは手のひらに蘇った感触に思いを馳せる。
それにしても、柔らかかったなぁ。
「……て、僕は何を思い出してんだよ!」
アユムはコンクリートの床に倒れるように寝転ぶと、背中に当たる硬い感触に少し顔を歪めてため息をついた。
明日になれば彼女は引っ越してしまう。たしか、お父さんの仕事の関係で外国に行くとか言っていた。そうなれば、もう彼女と話せる機会なんて無いんだろうな。
「……話すとか。僕の場合は、それ以前のことか……」
アユムは右手を空に向けて伸ばすと、何も掴めない自分の手にため息をついて、視線を隠すように腕で顔を覆った。
真っ暗になった世界で、アユムは深呼吸をすると耳を澄ませる。すると微かに鼓動のような何かが聞こえてきた。それは一定のリズムで、風の音にも掻き消されそうなのに決して消えることなく、耳の奥へとじんわりと浸透してくる。
木琴を叩くように鉄琴をはじくように幾つもの音が連なって、それは水面に落ちる雫のように体中へと広がっていった。
どこまでも透き通った歌声のようなそれは、耳を澄ませるほどに輪郭がぼやけてしまい、捉えどころの無い、寄せては返す波のような感じがした。
これに気付いたのは二年前、中学三年の夏休みだった。祖母の葬式の最中に僕は親戚の輪から一人離れて、祭壇に飾られた祖母の写真をじっと見ていた。そのとき何か聞いたことの無いような不思議な音が聞こえて、僕は周りを見回した。けれど、自分以外には誰にも聞こえていない様子で、最初は耳鳴りか気のせいだと思っていた。しかし、その音が鳴り止むことは決してなかった。
気にしなければ聞こえなくなるような些細な音。日常の中に隠れるようにして存在するこの音が、アユムは世界が自分に何かを語りかけているようで気になった。そして、いつしか気が向くと夜中に一人で、この廃墟ビルの屋上に来ては世界の音に耳を澄ますようになっていた。
「ばあちゃん……」
アユムは音を掴むことをやめると、聞こえるままに世界の音に身を委ねた。
世界と一つになってるみたいだ。
その包み込まれるような安心感に、アユムは小さい頃、祖母の膝の上でいろいろな話を聞いていたこと思い出す。
二年前に亡くなってしまった祖母。いつでも明るく、元気な笑顔で自分を勇気づけてくれた人は、しかし今はもういない。
「僕が告白なんて、やっぱり彼女には迷惑かな?」
アユムは両腕を大の字に広げて空を見上げると、今日何度目かのため息をついた。
◆
「ん?」
アユムは、上空で何か小さな爆発音が鳴ったような気がしてじっと目を凝らした。すると、夜空が少し揺らめいたように見えた。
さらに目を凝らせば、闇の中で月の明かりを反射するように時折、銀色のうねりが浮かんでは消え、それは徐々に近づいてくる。それは背後に黒い影のようなものを従えていて、風を切る音とともに月明かりを背にして輪郭を浮かび上がらせた。
それは人だった。
「え!? ええーーーーっ!」
ワンピースを着た長髪の人影が自分のほうへと落ちてくる。
「ちょ、ちょっと? え、うわぁああああ!」
アユムは慌てて立ち上がると、白い布をはためかせながら自由落下を続ける人影を見て両腕を構えた。落下地点を予測しながら位置を微調整しようと、右へ左へ前へ後ろへと足を動かす。そして、少し後ろへ行こうとして、
「うわっ!?」
小石を踏んづけて後ろへこけた。
「いったたたた……」
強く打ちつけたお尻の痛みに顔をしかめながら、アユムは布が風を打つ大きな音に気づいて目を向けた。そこには数メートルという近さで、女性の顔があった。肌は色白で、ゆで卵のように小さな顔が可愛らしい。特に、その小さな唇は……。
て、そうじゃなくて! やばいッ!
アユムは妄想を振りい払うと、とっさに立ち上がって腕を伸ばした。そして思わず目を閉じた。すると、機械音のような声が空気を震わせる。
《永続閉紋:衝撃を喰らう鳥:駆動》
そして、それ以外は何も起こらなかった。
人が落ちるような音も自分に何かがぶつかるような衝撃もなく、虫の鳴く声が微かな風の音ともに聞こえてくる。
「あれ?」
想像とは違う展開に疑問を感じて、アユムは恐る恐る目を開ける。
そこには、色白のきれいな女性が長い髪を横たえて宙に浮かんでいた。艶やかな腰までもある長い髪は毛先から半分までが銀色で、残り半分は栗色をしていた。しかし、すぐに銀色の部分も色あせるように栗色へと変わっていく。
女性は重さを失ったかのようにアユムの胸の高さで浮かんだまま、しかし少しずつ、ゆっくり下へと降りていく。そして、伸ばしたままだったアユムの腕に触れると、いきなり重さを取り戻した。
「うわっ!?」
なんとか女性の脇に腕を入れるようにして体を支えると、アユムは体制を整えようと両腕を彼女の体の前へとさらに回した。そして、背後から抱きしめるように自分の体へと引き寄せる。
ふにゅ。
それはアユムの手のひらで起きた。しかも両手同時に。ワンピースの布越しに、何か柔らかなものが両手を優しく押し返す。その感触にアユムは覚えがあった。
つい最近、これに似た感触をどこかで……。
「うわわわっ!?」
彼女から受けた平手打ちの感触とともにそれを思い出して、アユムは慌てて彼女の胸から自分の手を離そうとする。でも、呻き声とともに体をよじった彼女の細い体が、腕からずり落ちそうになって、
「おっと……」
再び胸を鷲?みにしてしまった。
や、やわらけぇ!
その甘美な感触に、アユムは思わず心の中で感想を叫んでいた。一瞬で意識は手のひらへと集中し、指の一本一本がまるで磁石のように双丘に吸い付いて離れない。
「……いったた。あの狼、女の華奢な体になんて馬鹿力を……」
突然聞こえた女性の声に、アユムは我に返って固まった。すると、抱きかかえた女性の首が静かにこちらへと振り向いて言う。
「あなた、誰?」
「ご、ごめんなさいッ!」
怪訝そうな視線を向けてくる彼女にアユムは反射的に謝った。しかし、彼女は無言でアユムの顔を見続けると、こつ然と腕の中からいなくなった。
「えっ!?」
そして、いきなりアユムは背後から首を絞められた。
「!? く、苦し……」
回された腕を外そうとしても、まるで鉄塊のようにびくともしない。
腕の中でもがくアユムを無視して、女は首を絞めたまま周囲を注意深く見回した。そして、近くに危険が無いことを確認すると安堵の吐息とともにつぶやいた。
「……ひとまずは、ごまかせたみたいね」
そして腕の力を緩めると、力なく崩れ落ちるアユムを見下ろして言う。
「あなた、機関の連中じゃないわね?」
「ごほっ、げほっ……き、きかん?」
咳き込みながら見上げて聞き返すアユムに、女は無表情に手を伸ばす。
「え? やめっ……」
何かされると身構えたアユムの襟首を掴んで、女は長髪を翻すと階段のほうへと歩き出す。
「ちょっと、私に付き合いなさい」
「え? ちょっと!? 待って、何? どういうこと?」
後ろ向きで引きずられながら戸惑うアユムに、女は振り向くことなく答えた。
「あなたには人質になってもらうわ」
◆
夜の住宅街を、ジーパンに焦げ茶色のレザージャケットという格好をした男が歩いている。
周囲の一軒家やマンションに明かりはほとんど無く、街灯の無機質な明かりだけが一定の間隔で道の存在を示していた。
アスファルトに蓄えられた静かな熱気が、月明かりに沈んだ町の闇とともに男の肌にまとわりつき、男は不機嫌そうな目つきで何も無い道の先を睨みつけたまま、栗色の短髪をかき上げるように額の汗を拭った。
「まったく、なんでこの国の夏はこんなに蒸すんだ? キノコでも栽培してんのか?」
聞く者のいない問い掛けを独りごちると、男はため息をついて広い空へと視線を向ける。
「満月……には少し足りないか」
闇の薄まった空には、月が静寂をたたえて浮かんでいる。
「……兄貴……」
言葉とともに握りしめた左手から、紙の潰れる音がした。
「あ、いけね」
男は左手を上げると、その手に持った花束を見て大丈夫か確かめる。それは橙色の鈴を連ねたような、立派なホオズキの花束だった。
「兄貴も変わったものが好きだよな」
そう言って男はホオズキを月にかざした。
鬼灯と月か……。
それは男に一つの言葉を想起させる。
「……フェンリルの魔女……」
男の右手が、自然と腰のナイフホルダーへと触れる。
そのナイフホルダーからは、燃えるような赤い光が音もなく漏れ出ていた。
◆
「あのー、どこまで行くんでしょうか?」
アユムは手首をきつく掴まれ引かれながら、前を早足で歩く女性に話しかけた。
女は無言で周囲を見回しながら、先へ先へと歩いていく。そして小さな公園を見つけると、中を窺い入っていった。
公園には三、四人掛けのベンチが一つある。女性はベンチに腰掛けると、堂々と両手を広げて月を見上げた。そして、一息つくなりアユムに言った。
「あなた、喉が渇いたから何か飲み物、買ってきてくれる?」
「え?」
立ったまま動かないアユムに、女は面倒くさそうに彼へと視線を向ける。
「何、ぼけっと突っ立てるの? そうね、炭酸系でいいから、さっさとしてくれる?」
そう言って公園の向かいにあるコンビニを指さした。
「えーと、炭酸系ですか……」
状況が今一つ飲み込めず、アユムは彼女の言葉を繰り返す。
そんなアユムに女は呆れた視線を向け、
「あなた、バカなの? それとも体に直接言わないとわからない部類の人?」
そう言って眉間に皺を寄せると、ベンチの背もたれに載せた腕に力を込めて拳を握った。
その瞬間、ベンチの背もたれが軋んだような音を上げ、アユムの顔にピリピリとした殺気が突き刺さる。そして女の背後には、どす黒い殺気のようなものが渦巻いているようにアユムには見えた。
「た、炭酸系ですね! 買ってきますっ!」
顔を引きつらせながら、アユムは急いで向かいのコンビニへと走っていく。
女はアユムがコンビニへ入ったのを確認すると、ワンピースの胸元を指でつまんであおぎだした。
「あー、暑い」
◆
「あ、あの、これ、買ってきました」
数分後、アユムは走って公園に戻ってくると、そう言って水滴の付いた缶を女に差し出した。
女はぐったりとベンチに張り付くようにしながら、目を閉じたまま口だけを開く。
「私、今疲れてるの。開けてくれる?」
「…………」
「早くしてくれるかしら?」
「あ、はい」
丁寧な口調とは裏腹に有無を言わせない迫力を感じさせる女の言葉に、アユムは思わず返事をするとプルタブに指をかけた。
「あ、あれ?」
でも、さっきまで強く手首を掴まれていたせいか緊張からか、うまく指に力が入らない。
「ねぇ、まだなの?」
女が片目を開けてのぞきながら言ってくる。
「いや、その、ちょっと力が……」
急かされたアユムは、言うことを聞かない腕をぷるぷると振るわせながら、思いっきり指先に力を込めてプルタブを引っ張った。
すると、ふたの開く小気味よい音が聞こえて、
「やった!」
アユムの声とともに、炭酸の吹き出す爽やかな音が女に向かって飛んでいく。
「あ……」
二人の間に生まれた小さな噴水は女の全身をずぶ濡れにして、缶を掴んだままのアユムの指を少しだけ濡らした。
アユムは、すっかり軽くなった缶から視線をゆっくり女に向ける。
「…………」
そこには半眼で自分を睨みつける彼女の顔があった。
女は顔を引きつらせたアユムを見て鼻で笑うと、口を三日月のように歪ませる。
「私はね、シャワーが浴びたかったんじゃなくて喉を潤したかったんだけど。これは、いったいどういうことかしら?」
肌に張り付いたワンピースを広げながら、女は静かな口調で言ってくる。でも、そのこめかみには太い青筋がくっきりと浮かんでいた。
「ひ、ひぃいい、ご、ごめんなさい!」
そのどす黒い雰囲気に気圧されて、アユムはとっさに逃げ出そうと踵を返した。しかし、すぐに後頭部を鬼のような力で掴まれて、体が恐怖で動かなくなる。
「どこへ行こうというのかしら?」
頭を万力のように締め付けながら、女は落ち着いた口調でアユムに言った。
「お、お助けぇええ、殺さないでぇええ!」
夜中の公園にいたいけな少年の悲鳴が上がる。
「静かになさい。近所迷惑でしょ?」
そう言って、女は泣きわめくアユムの首筋に素早く手刀を打ち込んだ。
「ぐがっ!」
短い呻き声とともにアユムの体から力が抜ける。
静かになったアユムに女はため息をついて、
「仕方ないわね。じゃあ、あなたの望みどおりシャワーでも浴びに行きましょうか」
と、気怠そうにつぶやいた。そして、全身ずぶ濡れのまま片手でアユムの頭を掴み直すと、彼を引きずりながら公園をあとにした。
◆
「んん……。あれ? ここは……」
アユムが目を開くと、そこには仰向けの自分がいた。
周囲は薄暗く、それでも快適な空調と風や虫の音が聞こえないことから、自分が室内にいることはわかった。
背中に感じる柔らかな感触が心地いい。
目の前の自分は、フリフリの可愛らしい布地の上に大の字で寝転がっていて、よく見れば、それは大きな花型のベッドだった。
「……これって……」
天井の大きな鏡に、どこか見覚えがあるような気がしてアユムは体を起こそうとする。しかし、沈み込むような柔らかさにバランスを崩しそうになって、思わず動かした首の痛みに顔をしかめた。
「いててて……。寝違えたかな?」
「ようやく起きたのね」
女性の声に首を押さえながら視線を向けると、あの女がバスタオルを巻いただけの姿で立っている。その背後には、湯気の立ち込めるガラス張りのシャワールームがあった。
「…………」
目の前の状況から導き出される結論が理解できず、アユムの思考が停止する。
女は手にしたドリンクに口をつけながら、呆然と自分を見つめるアユムを見下ろした。そして、胸を片腕で抱えるように持ち上げると小さく笑う。
「ご、ごめんなさい!」
アユムは反射的に謝り慌てて背を向け俯くと、状況を整理しようと頭を抱える。
なんだ? ここどこ? どうしてこうなった?
「何を謝ってるのかしら?」
女は愉快そうにそう言って自分もベッドに腰掛けると、アユムの隣へと近寄ってきた。
風呂上がりの石けんの香りが、ほのかな湯気とともにアユムのほうへと流れてくる。
「な、何って……、それはこっちが聞きたいんですけどっ!」
俯いたまま声を上げれば、肘に柔らかな感触が当たった。
何かと思って横目で見れば、そこには白いバスタオルがある。それは二つの膨らみを優しく包み込んでいて、アユムの脳裏ではその感触が自動再生を始めていた。
お、おっぱい、やわらけぇ。
「ねぇ、どうだった?」
女の囁くような声が聞こえる。
「……ぬわぁああああ!」
脱兎の勢いでアユムはベッドの上を後ずさり、女は体の曲線を強調するようにくねらせながら、四つん這いでそれを追いかける。
「どうって、な、何がですか?」
追い詰められながら、アユムは裏返った声で聞き返した。それに女は、片腕で自分の胸を抱くようにしながら舐めるような視線を向けて言う。
「私の胸、揉んだでしょ?」
「…………」
アユムの顔が見る間に赤くなって、でも視線は吸い付くようにタオルから覗く胸の谷間へ向けられる。女は、その視線を楽しむように少しだけ動きを止めると、時間切れとでも言うように、すぐにタオルを直して隙間を隠した。そしてベッドの上に座り直すと、飽きたとでも言うように素っ気ない口調でアユムに言った。
「まあいいわ。それより、お互いに自己紹介がまだだったわね。私はフラウ。フラウ・オリハタよ。あなたは?」
「え? ぼ、僕ですか?」
いきなり追求から解放されて戸惑うアユムに、フラウは目で促した。
「僕は、その……立川アユム、です」
「アユムね」
視線を逸らしながら恥ずかしそうに言うアユムに、フラウは人差し指を唇に当てながら尋ねる。
「ねえ、アユム。あなた、あんな廃墟で何をしていたの?」
「僕は、ただ、星を見ていただけ、です」
視線を逸らしたまま、アユムは少し不機嫌そうに答えた。
「本当に?」
猫のような怪しげな視線とともに、フラウがアユムの頬へと左手を伸ばす。すると、アユムは顔をしかめて右耳を押さえた。
「どうしたの?」
「ちょっと音が……」
「音?」
左手から顔を離そうと傾けるアユムに、フラウは眉をひそめた。そして、再び左手を伸ばしてアユムの顔に近づけた。
「や、やめてくださいよ!」
手を払って嫌がるアユムにフラウは大人しく手を引っ込めると、薬指にはめられた指輪とアユムの顔を交互に見て楽しげに言う。
「ふーん。まさかキーホルダーに会えるとはね。これもギアの巡り合わせってやつかしら?」
「キーホルダー?」
アユムは鍵を束ねるリングを思い浮かべて首をかしげる。
なんなんだ、いったい。無理矢理こんなところに連れ込んで、わけのわからないことを言って。
怪訝そうな視線を向けても、フラウは面白そうに笑みを浮かべるだけだった。
アユムは釈然としない気持ちを吐き出すように、目の前で指輪を見つめる女に問い掛けた。
「その、あなたは、いったい何なんですか? いきなり空から降ってきて僕を連れ回して……。それに、人質とか言ってたし……」
アユムの疑問に、フラウは頬を人差し指で軽く叩きながら口を開く。
「そうねー。簡単に言うと私は……魔女かしら? フェンリルの魔女?」
「魔女?」
お互いに疑問符を浮かべ、でも構わずフラウは続ける。
「本当は違うんだけど、説明するのも面倒だから、取り敢えずそういうことにしといてくれる?」
「そんな、いい加減な……」
胡散臭い上に曖昧な回答に、アユムはため息とともに肩を落とした。
「そう? でも、あなたみたいな嘘つきよりはいいんじゃない?」
「どういう意味ですか?」
棘のある言葉に、アユムはとっさに聞き返していた。
不機嫌な視線を受け止めながら、フラウは見下すような視線を返して言う。
「あんな明るい月の夜に天体観測なんて、あなたはやっぱりバカなのかしら?」
「……バカって失礼な」
「じゃあ、何をしていたのかしら?」
ふくれっ面でそっぽを向くアユムをのぞき込むようにして、フラウが面白そうに聞いてくる。
そんな彼女をアユムはしばらく無視していたが、しつこくのぞき込んでくる彼女の胸が気になって、ため息をつくと諦めたように口を開いた。
「相談を、していたんですよ」
「誰に? 何を?」
隙を逃さないとばかりに彼女が一気に体を寄せてくる。
「ち、近いですよ!」
「誰に何を相談していたの?」
抗議を無視してフラウは詰め寄る。
「そ、それは、その……」
迫る柔肉が気になりながらも、アユムはなんとか声を絞り出す。
「天国の祖母に、好きな子へ告白するかどうか、を……」
尻すぼみになる声とともにアユムの体も小さくなっていった。
フラウは体を少し離すと、小馬鹿にするように感想を口にする。
「ふーん、お子様らしいお話だこと」
「お子様って……」
不満そうな顔で振り向くと、フラウが自慢げに自分の指輪を見せてきた。
「それが、どうしたんですか?」
顔をしかめて訊いてくるアユムに、フラウはやれやれと大げさに首を横に振る。そして、エメラルドに輝く指輪を見せつけながら言った。
「そんなんだから、お子様だって言うのよ。これは結婚指輪よ。わかる? け・っ・こ・ん」
「……けっこん……」
言葉を反芻するアユムにフラウは得意げに続ける。
「そう、結婚。つまり私は人妻ってわけ」
「…………」
アユムは思った。
ラブホで高校生相手に、嬉しそうに指輪を見せつけるバスタオル姿の人妻って、普通いるのだろうか。
目の前の現実に、アユムは一応これが夢か確認してみることにした。
頬をつねると確かに痛い。どうやら、これは現実らしい。
でも念のため、
「まさかー」
アユムはそう言ってみた。
起伏のない平坦な言葉に、笑みを浮かべていた人妻の表情が変わる。
「何? 信じられないって言うわけ!?」
「え? いやー、こんなところに高校生を連れ込んで、そんな格好で言われても……」
困り顔で言うアユムに、フラウは自分の格好をまじまじと見ると胸を張って言う。
「まったくわかってないのね。これが人妻の余裕ってやつよ。あなたみたいなガキは眼中にないってこと。そんなことにも気付かないなんて、これじゃ、告白しても結果は見えてるわね」
フラウの哀れむような視線に、アユムの胸が締め付けられる。
「そんなこと……」
否定しようとして、アユムは俯くと小さな声で聞いていた。
「……あの、僕ってそんなにダメですかね?」
「そうね」
と少し考えて、フラウは一気に言葉を続けた。
「どさくさに紛れて人妻の胸は揉むし、ジュースをぶちまけて人妻を濡れ濡れにするし、人妻の指輪にも気付かないし、全然、これっぽっちも、まったく役立たずのダメダメね。むしろ迷惑なんじゃないかしら?」
次々に突き刺さるフラウの言葉に、アユムは虚ろな瞳で乾いた笑い声を漏らしながらベッドに倒れ込んだ。
ばあちゃん、僕はやっぱりダメみたいです。
天国にいる祖母に告げながら、アユムは柔らかなベッドへ沈み目を閉じた。
◆
それはアユムが中学校に入学したばかりの頃、桜が舞い散る春のことだった。
「ばあちゃん!」
病室の扉を勢いよく開けて、アユムはそこにいるはずの人へと叫んだ。
「アユム、静かに!」
しかし、返ってきたのは母の声と幾つもの視線で、アユムは乱れた息を整えると、周囲のベッドから視線を向けるお年寄りたちにお辞儀をして、母のほうへと歩いていく。
周囲には白いベッドが六つ。そして、ベッドを区切るための淡いクリーム色のカーテンと、白と木目調の壁が落ち着いた雰囲気を醸し出していた。窓は開けられており、白いカーテンを揺らしながら春の温かな風が心地よく室内へと入ってくる。
「まあまあ、大目に見てやりなよ。あんなに息を切らして駆けつけてきたんだから」
その声に視線を向ければ、窓際のベッドを囲むように母や姉、それに祖母の茶飲み友達が何人かいて、その中心に声の主が上半身を起こしてベッドの上にいた。
「ばあちゃん、事故って……大丈夫なの?」
アユムが訊くと、祖母は自分の足を指さして笑いながら言った。
「いやー、見事にバキッといっちゃったよ。バキッと直角に」
そこにはギプスで固められた左足が宙づりにされている。
「バキッと直角って……」
その様子を想像して顔をしかめながら、アユムは足以外にも幾つか包帯が巻かれているものの、本人は元気そうで胸を撫で下ろした。
「まったく、みんなして、たかが骨折くらいで騒ぎすぎなんだよ」
「もう、お母さんったら! 心配したんですよ?」
怒る母に、それでも祖母は笑顔で「生きてたんだからいいじゃないか」と笑い声を上げる。
「母さんの言うとおりだよ。幾ら元気だからって、もういい年なんだから無茶しないでよ」
アユムも気遣って注意するが、祖母は鼻にもかけない調子で続けた。
「無茶なもんか。それに人間、いつ死ぬかわからないんだから年なんて関係ないさね」
「また、そんなこと言って……」
まだまだ現役だと言うように、祖母は親指を立てて見せつける。
そんな男勝りな祖母に、アユムは小さな頃に膝の上で訊いた武勇伝を思い出す。
柔道家を目指していたバリバリ体育会系の祖母は、名だたる大会でことごとく優勝し、「嵐のウメ」と呼ばれていたらしい。その実力から、結婚とともにあっさり第一線を退いたときには惜しむ声が結構あったらしいのだが、そのことを祖母は鬱陶しかったと言うだけだった。ただ、引退してからもその快活な性格とパワフルな行動力は衰えることがなく、むしろ火事場から祖父を担いで逃げ出したり、海で溺れていた子供をライフセーバーよりも先に救出したりと、引退後のほうが周囲を驚かせていた。
「で、今度は誰を助けてこうなったのさ?」
アユムは心配するだけ無駄かもしれないと思いつつ、茶飲み友達と楽しげに話す祖母に尋ねた。
「ん? いやね、いつもみたいに散歩してたら遠くに妊婦さんがいたんだよ。結構お腹が大きくて辛そうな感じでさ。で、横断歩道を渡ってたから大丈夫かなと思ってたら、いきなりうずくまるじゃないか。向こうからはトラックが来るし、よく見たら運転手は手にした端末を見てて気付いてないし。あたしゃ焦ったよ。なにせ、そこまで七、八十メートルはあったからね」
アユムは無言で額を押さえると上を向いた。
その距離でトラックと競争して勝つって、どんだけなんだよ。
感心を通り越して呆れる彼の横で祖母は続ける。
「あんなに可愛らしいお嬢さんに気付かないなんて、あの運転手の目は節穴かね?」
ばあちゃんから見たら確かにそうだろうね。
アユムは引きつる頬を一息ついて元に戻すと、祖母を真っ直ぐに見て言った。
「だからって自分が轢かれてどうすんのさ。今回は骨折で済んだから良かったけど……」
「なら良いじゃないか」
気軽に祖母は言い返す。
「でも……」
それ以上言えないアユムに、祖母は窓の外へ視線を向けながら話し始めた。
「いいかい、アユム? いつも言うけど、人間なんてシャボン玉みたいなもんさね。風に吹かれてどこまでも行くかと思ったら、次の瞬間には前触れもなく割れちまう」
そう言う祖母の瞳は、空ではないどこか遠くを見ているようだった。その悲しげで、でも、どこか力強いその視線にアユムは胸が少し苦しくなった。
「でも、シャボン玉はそんなこと気にしちゃいない。ただ、きれいな虹のように輝いているだけ」
そこで祖母は大きく息をついた。そして続ける。
「アユム、おまえはあのシャボン玉の虹が何に見える?」
窓の外をよく見れば、どこから飛んできたのかシャボン玉が幾つか浮かんでいた。外の広場で子供が遊んでいるのかもしれない。
「いきなり、そんなこと言われたって……」
何に見えるのだろう?
アユムはすぐに答えられず、祖母は自分の話を続けた。
「あたしには、あれが笑顔に見えるんだ。それに、シャボン玉で遊ぶときの子供の笑顔が、あたしは何よりも好きでね」
祖母はアユムのほうを向くと、シャボン玉と言うより太陽みたいな笑顔で言った。
「だから、アユム。いつまでも辛気くさい顔してないで笑ったらどうだい? あたしゃ、いつでも笑顔をつくれる男が好きなんだ。あんたのじいちゃん、翔ちゃんもそうだったよ」
祖父の名を口にすると、祖母は再び窓の外へと視線を向けた。
アユムはそんな祖母の横顔を見ながら、苦笑を浮かべることしかできなかった。
そして三年後の冬、祖母はシャボン玉のようにあっけなく死んだ。心筋梗塞だった。
いつでも笑顔をつくれるように。
棺で眠る祖母の顔は相変わらずの笑顔で、口癖だったその言葉だけが、アユムの耳元で響き続けていた。
◆
「やっぱりダメなんかじゃないっ!」
勢いよくベッドの誘惑から飛び起きて、アユムは目を開けた。でも、なぜか目の前は暗いままで、しかもふにゃりと柔らかかった。
「ん? あれ?」
「あらあら、甘えん坊さんね」
上から聞こえる声に、アユムは目の前の感触を思い出す。
「うわああああ!」
のけ反るアユムを見下ろして、フラウは面白そうに尋ねる。
「何がダメじゃないのかしら?」「あ、あなたには関係ありません!」
「そう? 関係ならあると思うけど、肉体的な意味で」
「変な言い方しないでください!」
胸を強調して言うフラウを睨んで、アユムは顔を赤らめながら叫んだ。それを彼女は含み笑いで一蹴すると、アユムを追い詰めるように近づいて話しかける。
「ねぇ、実は私、悪い連中に追われてるのよね。協力してくれたら、君の相談に乗ってあげるわよ?」
「いきなりなんですか。それに協力? 人質の間違いでしょ?」
「それは、あなたの意志が決めることよ」
「そうですか。じゃあ、僕は告白があるんでここで」
ベッドから下りて立ち去ろうとするアユムの背後で、フラウのため息が聞こえる。
「あら、人妻の体を散々弄んでおいて見捨てるの?」
「いい加減にしてください!」
そう言って振り向いたアユムの前にフラウの姿はなく、ベッドの上にはバスタオルだけが残っている。そして背後から声がした。
「わかったわ。じゃあ、さっさと人質にしてあげる」
耳元で囁くような冷たい声と首筋に当てられた鋭い感触に、アユムの体が硬直する。一気に鼓動が加速して、背中を冷や汗が流れ落ちる。そして、首筋の感触が消えたかと思うと次の瞬間、
「なーんてね」
背後から抱きしめられて、背中に柔らかな感触が押しつけられた。
アユムの背から一気に別の汗が噴き出し、息苦しさに胸を押さえる。
乱れた息を無理矢理整えると、アユムは脱力とともに諦めの言葉を口にした。
「わかりましたよ。協力すればいいんでしょ?」
「そうそう。従順な男の子は可愛くて私は好きよ」
胸を押しつけながら、フラウが楽しげにアユムの耳元で囁く。
「……生憎、お役に立てる自身はこれっぽっちもありませんけどね」
「もう、ふて腐れちゃって可愛いんだから」
不機嫌そうにそっぽを向くアユムの頬をつつくと、フラウは体を離して言った。
「まあ、私はどっちもでいいんだけど、役に立たないようなら盾になってもらうだけだしね」
離れたフラウを追うようにアユムが視線を向けると、そこには白い下着姿の彼女がワンピースの掛かったハンガーを手にしていた。
「あれ? ……下着?」
「ん? もしかして裸だと思ってた?」
そう言うと、フラウは笑い声を押さえるように口元を手で隠す。しかし、その目は明らかに笑っていた。
耳まで真っ赤にして、アユムは肩を怒らせながら部屋の出口へと向かっていく。
「やっぱり僕、帰ります!」
◆
「もう、そんなに怒らないでよ。いろいろと勉強になったでしょ?」
大股で先を行くアユムにフラウが横から声をかける。
「何が勉強ですか……」
振り向くことなく言って、アユムはさっさと前を歩いていく。それを追いかけるように、フラウは少し駆け足になりながら話しかけた。
「ほら、ブラの性能とかラブホの使い方とか……」
「そんなの知りたくなかったですよ!」
街灯の下で立ち止まると、アユムは勢いよく振り返って抗議した。
そんな彼を疑いの眼差しでフラウはからかうように見つめ、アユムは彼女から目を逸らして尋ねる。
「そんなことより僕、勝手に歩いてますけどいいんですか?」
「何が?」
少し腰をかがめて上目遣いで訊いてくる人妻に、アユムはこめかみをひくつかせながら拳を握りしめてさらに訊いた。
「だ・か・ら、悪い連中に追われてるんですよね?」
「んー、そうね」
フラウは唇に指を当てると、何も言わずにアユムの横を通り過ぎた。
街灯の下から出て闇の中へと行く彼女を、今度はアユムが追って横につく。
月明かりに照らされていても、人のいない通りは静かで日常とは違う雰囲気がする。その何か得体の知れない、まとわりつくような空気の中を、フラウは躊躇うことなく靴音もさせずに歩いていく。
彼女は月の浮かぶ空を見上げた。
その瞳は前髪に隠れてアユムには見えない。けれど、シャボン玉を見つめる祖母のように、それはどこか遠くを見ているようで、そんな彼女にアユムの胸はざわついた。
「……魔女……」
ふと出たアユムの言葉に、魔女がゆっくりと腕を上げる。
「あそこ……」
その声に感情はなく、標識のように掲げられた腕から伸びる指は、今いる商業地区の向こう側、そこにそびえる山を指していた。
「あそこに行きましょ」
そして彼女はため息をついた。
気になってアユムが横を見ると、彼女は眉間にしわを寄せている。そしてアユムは思い出す。あの山にあるものを。それは祖母の遺骨が眠る場所。
「……墓地、ですか?」
「そうよ」
短く言うフラウに、アユムは顔をしかめて続ける。
「隠れる場所もありますし人も余り来ませんけど、墓地に逃げるなんて縁起悪くありません? まあ、僕の場合は祖母のお墓があるんで守ってくれるかもしれませんけど……」
「あら奇遇ね。一応、私もあそこに彼のお墓があるのよ」
「え?」
たまたま自分も近くに住んでたみたいに答えるフラウに、アユムはすぐに反応できなかった。
アユムの脳裏に、結婚指輪を見せつけるフラウの笑顔が蘇る。そして今、横ではそんな彼女が苦笑を浮かべ自分を見ている。
「なんか、その……、すみません」
気まずさに謝りながら、アユムは彼女の表情を伺う。
「ああ、いいのよ、別に気にしなくて」
そう言って彼女は手を振りながら、なぜか苦笑を濃くして笑いをこらえるように話を続けた。
「だって、彼は死んでないし」
「は?」
豆鉄砲をくらった鳩のようなアユムを横目に、フラウは大きく息を吸い込むと、ため息を吐き出すように月を見上げて言葉を続ける。
「まあ、三年前に戦死したことになってはいるんだけどね」
そして首をかしげるアユムの前で手を握ると、月へと向けてそれを掲げる。
ゆっくりと手を開けば、こぼれる星のように手のひらから細い銀鎖が流れ落ち、軽い音を立てた。その先には小さな板状のものがあり、揺れて月明かりを反射する。
それは、一枚のIDタグだった。
◆
腰まで流れる栗色の髪が風に揺れている。
ブックバンドでまとめられた教科書とノートを両手で上品に持ちながら、フラウは芝生で覆われた中庭を横切る石畳の小道を歩いていた。
昼休みが終わって次の授業が行われる教室へと向かいながら、彼女は首をかしげて何度もため息をついていた。
「なんで受け入れてくれないのかしら?」
唇に人差し指を当てながら、フラウは眉間に小さなしわを寄せてつぶやく。
日差しは温かく、花壇には色とりどりの花が咲いて周りはすっかり春だというのに、フラウの心はしぼんだままだった。
いつになったら私のところにも春が来るのかしら?
胸の中に吹くすきま風を吐き出すように大きなため息をついて、フラウは自分を困らせる人の名を口にした。
「……カケル……」
それだけで想いは膨らみ、心の隙間を埋めるように胸が苦しく締め付けられる。
フラウは少し熱くなった頬を自覚しながら、自分をこんな気持ちにさせる彼の顔を思い浮かべた。
彼は東洋系のせいか、自分よりも集団を重んじるようで融通が利かないところが結構あった。今日だって、お昼を一緒にと思って誘っただけなのに「あなたの貴重な時間を自分が独占するわけにはいかない」とか言って、一人でどこかに行ってしまった。
でも、そんなときの彼は少し慌てた感じで、
そんな彼も可愛らしくて好きなんだけど……。
そう思うだけでフラウの心は浮き立ち、自然と楽しくなって顔が綻ぶ。
「……いけない、いけない」
フラウは自分の頬が緩んでいないか手を当てて確認すると、拳を握りしめて決意を心の中で叫んだ。
「よし、明日は絶対告白するわよ!」
すると近くで息を呑むような小さな驚き声が聞こえる。そして、小さな笑い声が幾つか続いた。
周囲を見回せば、いつの間にか自分は廊下にいて、廊下や教室にいた学生の視線が自分へと向けられている。
「……えっと……」
その状況にフラウは自分の顔が熱くなっていくのを自覚する。そして、慌てて持っていた教科書で顔を隠すと猛ダッシュで廊下を駆け抜けた。
◆
「今日こそは頷かせてみせるわ」
フラウは芝の広がる小さな丘を登りながら、拳を握りしめて言った。
時折吹く風にスカートを手で押さえ、フラウは頂上へと向かう。そこには立派なオークの木が一本だけ、その葉をゆっくりと雲のように揺らしながら立っていた。
その木を見てフラウは思い出す。
東洋には「いわく付きの木の下で交わした約束は絶対」という有名な掟があるらしい。
そんな噂を友達から聞いたフラウは、さっそくカケルを個人的な相談があるからと言って呼び出していた。
いつものことながら「相談なら先生にしたほうがいい」と速攻で断られそうになったけれど、とっさに「世界の秘密を知ってしまって悪の組織に追われている」と言ったら、彼はなぜか神妙な顔になって、「そういうことなら」と来てくれることになった。
気になってネットで調べてみたら、どうやら自分のついた嘘はチュウニビョウという東洋に伝わる隠語で、家族にも言えない秘め事を意味するらしい。
「まあ、来てさえくれれば何でもいいわ」
フラウは余計な考えを振り払うように周囲を見回した。
どこまでも続く芝の緑と空の青、そして所々に浮かぶ雲の白が清々しく、近くを流れる小川は春の日差しを反射して宝石のように輝いていた。
絶好の告白日和じゃない。
そう思いながら小川に掛かる小さな橋を見れば、そこを渡ってこちらに来る人影が一つある。
「やって来たわね」
獲物を待ち受ける虎のような視線を向けながら、フラウは十三回目の告白に向けて準備に取り掛かった。
◆
「やあ、フラウ。待たせてしまったね」
困り顔でそう言うカケルに、フラウは首を横に振って笑顔で出迎えた。
「ううん。わざわざ来てくれてありがとう」
「それで相談したいことって?」
神妙な顔で聞いてくるカオルに、フラウは俯くと用意していた小さな箱を手にして彼を見上げる。
「うん。実は……」
そして小箱を彼の手に握らせると、その手を握りしめながら上目遣いでフラウは言った。
「カケル、私と結婚しましょう!」
「……え、ええっ!?」
思わず受け取った赤いハート型の箱を手に、カケルはのけ反りながら後ずさった。
「け、結婚って、僕らつき合ってもいないじゃないか……」
想定内の答えにフラウは余裕の笑みを返す。
「そうね。でも、あなた何度言ってもつき合ってくれないじゃない」
「それは……、僕たちまだ学生だし、そういうことは早いと……」
手にしたハートとフラウの顔を交互に見ながら、カケルは眉根を寄せる。
「だから、それは結婚してから考えることにしたの」
「そんな無茶苦茶な……」
呆れるカケルにフラウは詰め寄る。
「そんなことないわ。順番が変わっただけだもの。それに早い遅いの問題じゃないの。人生は儚いものだもの、乙女ならなおさらでしょ? だから私は自分の心に従って、あなたと一緒にいると決めたの」
そう言ってフラウは自分の左手を挙げてみせる。その薬指にはエメラルドの指輪があった。
「私、知ってるのよ。東洋では、いわく付きの木の下でした約束は絶対なんでしょ?」
困惑の表情を浮かべるカケルを無視してフラウは続ける。
「知ってた? このオークの木には見えない猫が住んでるっていう言い伝えがあるのよ」
胸を張って言うフラウにカケルは大きなため息をつくと、手の中のハートを彼女の頭の上に載せて言った。
「言ってることがよくわからないけど、君が自分の心に従うのなら、僕は自分の考えに従わせてもらうよ」
そして彼は振り返ると、さっさと橋へ向かって歩き出そうとする。
「ごまかす気? 今日は絶対逃がさないわよっ!」
叫んでフラウは彼の手を掴むと、自分のほうへと強引に引っ張った。コマのように手を引かれたカケルの顔が振り向いて、フラウは少しだけ背伸びをする。そして二人の顔が近づいて、
「うぷっ!?」
合わせた唇から漏れる彼の声を塞ぐように、フラウはさらに手を引いて体を密着させる。そして、バランスを崩して倒れる彼を下にして、覆いかぶさり芝の上へと押し倒した。
「観念なさい。私からは逃げるなんて時間の無駄よ?」
彼の見開いた目をのぞき込んで、フラウは不敵な笑みとともにそう囁いた。
◆
「じゃあ、行ってくるよ」
カケルは仕事にでも行くような口調で、玄関に立つフラウへ声をかける。しかし、フラウは応えることなく黙って彼の袖を掴んだ。
そんな彼女を見下ろして、カケルは静かな声で、でも確かな意志を口にする。
「大丈夫。必ず帰ってくるから」
「うん。信じてる。信じてるけど……」
口を覆うように人差し指を唇に当てながら、フラウは俯いて黙り込む。これ以上何か言ったら、もう自分を抑えられない。そんな予感にフラウは怯えていた。
小さく震える彼女に彼は言う。
「君からは逃げられない。そうだろ?」
そう小さく笑いながら、彼の大きな手のひらが彼女の肩を包み込む。そして、優しく何度も撫でて、緊張にこわばったフラウの体を解かしてく。
自分の弱さを改めて実感しながら、フラウは彼を求める自分の心に微笑を浮かべた。そして深呼吸をすると、カケルを見上げて口を開く。
「お願い。もっと温もりを……」
なんて自分勝手なのだろうとフラウは思う。
でも、私は自分の心を裏切れない。
彼の思いを無視して強引に結婚し、つき合って、そうやって関係を深めた末に待っていたのは、彼を死地へと向かわせる未来だった。
彼は世界のためだと言うけれど、自分と結婚していなければ無関係でいられたはずの場所。そんな運命へと彼は今日、向かおうとしている。それは彼の考えで、結局のところ、私の心は彼の考えを変えられない。でも、
「……お願い……」
言葉とともにフラウの右手がカケルの頬へと伸びていく。その手をカケルは掴んで体ごと引き寄せ、彼女の唇に自分のそれを重ねた。
震えを奪うような優しい口付けに、フラウの心と体が溶けていく。
フラウは望むままに彼を求め、カケルは求める彼女を支えて応え続ける。そんな体温と唾液の交換はしばらく続き、二人は息苦しさにやっとお互いの唇を離した。
「続きは戻ってから」
惚けた顔で見上げるフラウにそう言って、カケルは何事もなかったように玄関の扉を開けた。それをフラウは力なく玄関に座り込んで見つめる。そして乱れた息を抱きしめるように、重ねた両手を胸に当てた。
開いた扉の先へと歩いていくカケルの背中が少しずつ小さくなって、
「あ、そう言えば……」
門扉に手をかけながら彼は振り返る。そこには何気ない笑顔があって、フラウは息を呑んでそれを見つめた。
さっきまで触れていた彼の唇が、フラウへと言葉をつくる。
「あのオークにいるのは、本当は猫じゃないんだ」
「え?」
「戻ってきたら、それも教えてあげるよ」
フラウの口から漏れた疑問の声を避けるように、彼は踵を返して門の外へと、戦地へ続く道へと踏み出していく。
彼を追うように伸ばしたフラウの左手でエメラルドが朝日に輝き、そのまぶしさにフラウは思わず目を閉じ思い出す。
オークの木の下で私が言った、どうでもいいような言い伝え。それを彼は残して去っていく。
目尻からこぼれ落ちる一粒の涙に、フラウは強く瞳を閉じて唇を噛み締めた。
涙も泣き声も彼が戻ってきたときのためにとっておこう。悲しみじゃなくて喜びを伝えるために。
その想いとともに、フラウは自分の気持ちを心にしまって前を見る。門の先に彼の姿はもうない。けれど、その瞳には笑顔で戻ってくる彼の姿が浮かんでいた。
それから四カ月で戦争はあっけなく終了した。
しかし、フラウが彼の笑顔を見ることは二度となかった。
◆
「……戦死、ですか……」
「そう、戦死。でも、帰ってきたのはこれと……」
銀鎖に繋がれたIDタグを握りしめて手品のように消すと、フラウは月を見上げたまま言った。
「誰かもわからないような左手の薬指が一本だけ」
苦笑を浮かべて彼女は話を続ける。
「まったく実感がなかったわ。だから私は信じなかった」
「…………」
アユムは言葉が見つからず、どんな表情をすればいいのかもわからなかった。
「そんな悲しそうな目で見ないでよ。本当に、彼は死んでなんかいないんだから」
そう言って困ったような表情を浮かべながら、フラウは辛気くさい空気を払うように「本当に違うから」と手を振った。
「じゃあ、なんで行くんですか?」
やるせない思いと話が見えないじれったさに、アユムは少しふて腐れたように尋ねる。
するとフラウは、笑いをこらえるように口の端を歪めて言った。
「あそこに行けばいるって言うのよね。兎が」
「兎? いる?」
その言葉に月を見上げる彼に、フラウは憎々しげに低い声でその名を口にする。
「彼を私から遠ざける元凶。ナンバー11」
ますます話が見えなくなって、アユムはお手上げといった様子で説明を求めた。
「ナンバー11? さっきから何の話をしてるんですか?」「ああ、そうね」
フラウは眉根を寄せるアユムを見ると、少し考えながら話し始める。
「ナンバー11っていうのは私と同じギアのことよ。そいつが私と彼の再開を邪魔してるの。で、そいつが今日、あの墓地に来るはずなのよ」
「同じって、その11っていうのも魔女なんですか?」
「さあ?」
「さあ?って、同じ仲間なんでしょ?」
アユムの言葉に、フラウはあからさまに嫌な顔をした。
「仲間? 冗談はよしてよ。人の恋路を邪魔するような陰険な奴なのよ? 会ったこともないし、男か女かも知らないわ。まあ、同類であることは間違いないけど……」
最後のほうは嫌々ながらという感じで、吐き捨てるようにフラウは言った。
「じゃあ、同じとか同類っていうのは?」
「それは機関の奴等に追われる立場っていう意味でよ」
不機嫌さの残る口調でフラウは答えた。
「じゃあ、その機関っていうのがフラウさんを追いかけてる悪い奴等ってことですか」
アユムの言葉に、フラウは大きくため息をつく。
「グングニル機関。それが奴等の組織の名前。奴等は、私みたいな世界から祝福された存在を妬んでいるのよ」
そして月を見ながら彼女は話を続けた。「だから奴等は私たちのことを、憎しみを込めてフェンリルの魔女とか亡霊って呼ぶの。私たちは、自分たちのことを世界の歯車って意味でギアと呼んでるけどね」
「なんかややこしいですね」
アユムも月を見ながら腕を組んで首をかしげた。
「まあね。そんな呼び名なんて、何だっていいんだけど……」
歩きながらフラウは頭を軽く振ると、両腕を伸ばして伸びをする。長い髪がさらさらと揺れて、ほのかにシャンプーの香りがアユムの鼻腔をくすぐった。
こうして見てると普通のお姉さんっていう感じなのにな……。
そう思いながら、アユムは同時に脳裏に蘇った彼女の強引な行動や言動に「そうでもないかも」と肩を落とした。そして、なんだか少しほっとしている自分に気付いて、アユムは笑顔を浮かべながらフラウに言った。
「でも、ようやくフラウさんの立場というか状況が、なんとなくわかりましたよ」
するとフラウの足が止まる。
いきなりのことに、アユムは数歩進んで振り返った。
「どうかしたんですか?」
「ううん、ちょっと……。なんていうか、名前で呼ばれるの、よく考えたら久しぶりだなって……」
少し驚いた様子で彼女は言う。そんな彼女にアユムは仕返しとばかりに聞き返す。
「呼び名なんて、どうでもよかったんじゃないんですか?」
「う、うるさいわね!」
そう言って彼女は早足で先へ行く。
その背中を見ながら、アユムは彼女が通り過ぎていくときに見せた赤い横顔にほっとして、でも少し胸が締め付けられるような想いを抱いていた。
やっぱり、普通のお姉さんだよな。
そしてアユムは頷くと、彼女のあとを追いかけた。
◆
アユムは歩きながら、周囲の雰囲気が変わりつつあることに気がついた。暗くて余り気にしていなかったが、どうやらさっきまで廃墟近くの倉庫街を歩いていたらしい。
あの廃墟にはよく行くけど、ほとんど夜に行くから周囲を歩き回るなんてしないしな。近くにラブホなんてあったのか。
そんなことを思いつつ、アユムは少しずつ家屋が多くなっていく景色を眺めつつフラウに話しかけた。
「フラウさんは、ここら辺に詳しいんですか?」
「んー、結婚する前に彼に連れられて数回来たくらいだから、全然詳しくなんかないわよ」
フラウも周囲を見ながらアユムに答える。
「それじゃあ、なんでラ……」
そこまで言って、アユムは口を開けたまま言葉を止めた。
「ラ?」
聞き返してくるフラウに、アユムは目を逸らして「ら?らら?」と口ずさむ。そして何食わぬ顔で続きを口にした。
「あ、そう言えば、なんであのホテルのことを知ってたんですか?」
「…………」
フラウの視線が頬に痛く突き刺さる。
アユムは視線を逸らしたまま「ららら~」と再び口ずさんでみるが、フラウの視線は変わらない。
「えっとですね、だから、あの……」
耐えかねて質問を繰り返そうとするアユムの横で、フラウが小さく笑い出す。
「……何が、おかしいんですか?」
そう言って頬を膨らませるアユムに、フラウは口元を手で隠し、
「ごめんごめん」
そう謝りながらアユムの質問に答えた。
「ラブホは周りを見回したら、たまたまあっただけよ」
そして大きく息をついて話を続ける。
「自分に縁のある場所は、基本的に機関の連中に狙われやすいからね。ギアになってからは自分の家にも帰ってないわ」
フラウは夜空へ視線を移し、アユムも同じ空を見ながら、ふと思った疑問を口にした。
「じゃあ、墓地にも機関の人たちがいるってことですか?」
「その可能性は高いでしょうね」
平然と彼女は言い、アユムはさらに頭に浮かんだ疑問を口にする。
「そんなところにナンバー11でしたっけ? は、なんで来るんですかね?」
「知らないわよ。そんなこと」
お手上げというように両手を軽く挙げて、フラウは面倒臭そうにため息をつく。
「じゃあ、もしナンバー11に会ったらどうするんですか? やっぱり、いきなり首締めですか?」
「何、物騒なこと言ってるのよ」
フラウが呆れた顔でアユムを見た。
「会ったら、まずは私の邪魔をする理由を聞くわよ。世の中、大抵のことは話で解決するのよ? ただ、それに必要な時間がないだけでね」
そんなこともわからないのかと、彼女は哀れむような視線をアユムに向ける。そんな彼女に、アユムは信じられないというような視線を返した。
「何よ、その顔は?」
「いいえ、別に……」
アユムは首をさすりながら視線を逸らす。
「まあ、話せるかどうかは相手次第だけど、少なくとも顔くらいは見ておきたいわね」
真面目な声で言う彼女を横目で見て、アユムは一息つくとしょうがないという感じで口を開いた。
「わかりました。そういうことなら僕も協力しますよ」
「あら、積極的ね? 私、前向きな子は好きよ」
フラウが唇に指を当てて言ってくる。
「茶化さないでください。要は追っ手から逃げつつ、そのナンバー11に会えばいいんでしょ?」
少し不機嫌になって訊いてくるアユムに、フラウは少し考えると試すような口調で言った。
「そうね。でも大丈夫? 機関の奴等との戦闘は避けられないわよ? もしかしたら、今日があんたの命日になるかも」
「大丈夫ですよ。僕には、ばあちゃん譲りの体力がありますし。それに、やばくなったら全力で逃げます!」
握りしめた拳を掲げながらアユムは笑顔で応える。
そんな彼の首に腕を回すと、フラウは頭をぐしゃぐしゃと撫でながら、あることを思い出した。
そう言えば、今日は彼の命日ってことになってたわね。
彼のお墓がある山を見ながら、フラウはなぜか胸がざわつくのを感じていた。
◆
「ねえ、アユム」
夜が明け始めた住宅街を歩きながら、フラウがアユムに話しかける。
「なんですか?」
紺色の空気に白の光が混ざり始めるような夜と朝の狭間を眺めながら、アユムは少し眠い頭でぼんやりと返事をした。
「あんた、おばあちゃんが亡くなったとき、どう思った?」
向かってくるスクーターから距離をとるように道の端に寄りながら、アユムはフラウの質問にすぐには答えず、少し俯いて黙り込む。
そんな彼の沈黙を気にすることなく、フラウは自分の話を続けた。
「私はね、彼が死んだって聞いた途端に体中の力が抜けちゃって、そのときから何もかもが止まってる。彼が戦地へ行ったときに、それは心のどこかで覚悟はしてたけど、だからかな、悲しいとか感じる前にそんな世界から自分を遠ざけていたのよ」
アユムは何も言わず、フラウも特に返事を待つわけでもなく話を続ける。
「それでも世界って奴は残酷でね。死んだ証拠だとか、供養しないと彼が浮かばれないとか……。私は、そんなこと望んでないのに……」
フラウは背伸びをして大きくあくびをする。そして、目をこすりながらアユムを見て言った。
「いいじゃないね。終わりのない永遠があったってさ」
迷いのない真っ直ぐな瞳を向ける彼女に、アユムは病室で空を見上げる祖母を思い出していた。
なんか、ばあちゃんみたいだな。
強引なところ以外は見た目も考え方もまったく違うというのに、そんなことを思う自分にアユムは苦笑を浮かべた。
「何、にやけてるのよ。気持ち悪いわね」
一歩を引いて言うフラウに、アユムは「ひどいな」と心の中でだけ思って別のことを口にする。
「僕は、ばあちゃんが死んだとき、すぐに泣きましたよ」
アユムは、ベッドで眠るように横たわっていた祖母を思い出す。
それは雪が深々と降り続ける一月のことだった。病院に運ばれたと聞いてアユムがいつものように駆けつけると、そこにはいつもの太陽みたいな笑顔も元気な声もなく、ただ穏やかな表情で無言のままベッドに横たわる祖母の姿があるだけだった。
母の話では、幼稚園から逃げ出した兎を追って近くの雪山へと入り、兎を抱きかかえたまま木の下で倒れていたらしい。
何でそんなことをという思いと、ばあちゃんらしいという思いがない交ぜになって、アユムの頭で兎を追いかける祖母と目の前で静かに眠る祖母の姿が重なっていく。
そして、いつだったか小さいときに聞いた祖母の言葉をアユムは思い出していた。
(あたしゃね、本当な怠け者なんだ。でも欲張りだから、自分のやりたいことはとことんやりたい。けど、体が動かないときもある。そんなとき、どうするか知ってるかい?)
当時のアユムは、ほとんど考えることもなく首を振っていた。
(自分を追いかけてくるゴールを思い浮かべるのさ。そうすれば、自然と気持ちが背中を押して動かしてくれる)
その答えにアユムは首をかしげ、「ゴールは追いかけるものだし、もしゴールが追いかけてくるならどうして待っていないの?」と祖母に言ってみた。でも、祖母は「確かにそうだね。どうしてだろうね」と言って笑うだけだった。
アユムは祖母の楽しそうな顔を思い浮かべながら口を開いた。
「本当にばあちゃんは一生懸命で、だから、ばあちゃんが死んだって聞いたとき、僕はすぐにわかったんです。ばあちゃんはゴールしちゃったんだなって……」
「アユムは、それで良かったの?」
フラウの問い掛けに、アユムは首をかしげて苦笑を浮かべる。
「良かったかどうかは、正直わかりません。僕だって死にたくはありませんし。でも……」
「でも?」
視線を横に感じながらアユムは話を続けた。
「当たり前かもしれませんけど、今の僕に死に対する実感なんてないですし、ピンとこないんですよね。なんか言葉にすると変ですけど、自分が死ぬような気がしないというか、どこか他人事なんですよね」
フラウは何も言わず、先を促すような視線にアユムは、なんだか恥ずかしい気がして苦笑を浮かべながら続けた。
「だからですかね。ばあちゃんみたいに誰かの役に立ちたいのに、自分のことでさえうまくいかないのは……」
朝の冷えた空気を吸い込むと、アユムは遠くの空を見つめて言った。
「だとしたら僕にも必要なのかもしれません。ばあちゃんの言うゴールが」
それきり二人は何も言わなかった。
すっかり夜は明け、人々の生活が音を立て始めていた。
◆
公園のベンチで一人の男が横になっている。
男は栗色の短髪を朝の涼しい風に晒しながら、その胸に花束を載せて静かな寝息をたてていた。
男の左手は花束を抱えるように優しく添えられ、一方で右手は腰のナイフを握りしめていた。
「……父さん……」
寝言とともに花束が揺れて、花弁についた朝露が男の頬へとこぼれ落ちた。
◆
どこまでも追いかけてくるような満月を背後に感じながら、栗色の髪の少年は手に懐中電灯と父の着替えを抱えながら林道を歩いていた。
「まったく、急に宿直になるとか、どんだけ人手不足なんだよ」
文句を言いながら少年は気持ち足取りを速めた。
ここのところ町では無差別殺人や失踪事件が頻発し、警察は総動員で捜査と警戒に当たっていた。父もその一員として、そして失踪者の家族として、連日情報収集に明け暮れ、帰ってくるたびに手がかりのなさを嘆いていた。
……姉さん……。
義兄さんを追うように消えた姉の顔を思い浮かべて、少年は唇を噛み締めた。すると抱えた紙袋が音を立てた。中を見れば、そこには洗い立ての父の制服があり、少年は父の大きくていかにも元軍人といった感じの背中を思い出すと、首を振って俯いた気持ちを振り払った。
さっさと用事を済ませて帰らないと。
そう思って前を見ると、そこには異様なものがあった。
「……なんだ、あれ?」
それは闇の中にゆらゆらと浮かんでいるようだった。目を凝らしてよく見れば、それは白い人影のようで、細い手足を持っていた。体には白いスーツ、そして手足には白い手袋と白い靴を身に付けている。しかし何よりも奇妙なのは、その頭部だった。顔には目や鼻や口はなく、ただ真っ白な卵のような頭が載っている。
卵人間? 何かの仮装か?
訝しむ少年の前で、その卵人間は手のひらを揺らめかせながら口のない顔で話し始めた。それは機械のような人工的な声で、耳にこびりつくような嘲るような震えを帯びた音だった。
「……世界の音が聞こえるか?」
少年は、それの言っている意味がわからなかった。
でも、それは気にすることなく質問を続ける。
「歯車の音が聞こえるか?」
「…………」
動くことなくふらふらと言葉を発する卵人間に、少年は吐き気にも似た気持ち悪さを感じていた。
こいつは危険だ。
本能の囁きに従って、少年は卵人間の問いかけを無視すると、下を向いてその横を早足で通り過ぎようとした。そして、何事もなく通り過ぎて視界から人影が消えた直後、少年の足はピタリと動かなくなった。
なんだ? 体が言うことを聞かない!?
それは突然背後に現れた異様な黒い威圧感のせいだった。
体が動いたら危険だと、命に関わる恐れがあると、筋肉に信号を送っている。
少年の全身からは汗が噴き出し、同時に鳥肌と寒気が全身を覆う。
ヤバイ! ヤバイヤバイヤバイヤバイ!
とにかく危険を知らせる信号だけが脳裏を駆け、少年の思考を埋め尽くしていく。
しかし、早く逃げろという感情だけでは体が動かず、危険を把握しようと思考が勝手に首を後ろへ振り向かせていく。
そして少年は闇の中にそれを見た。
満月を喰らうように細い三日月が闇の中で浮いている。
◆
ダメだ、死ぬっ!!
少年へと、月明かりを宿した大鎌が笑うように振り下ろされる。それは卵人間の表情を代弁するかのようで、切っ先は少年の首をさらうように音もなくスライドする。
誰か助けてっ!!
針のような殺気が首筋をかすめ、しかし、それが首に食い込む直前、火薬の炸裂音が闇の中に響き渡る。そして、金属音が少年の耳元で悲鳴を上げた。
――――――――――――――――!?
頭を締め付けるような感覚とともに、強烈なめまいが少年を襲う。
体はふらつき、視界がゆっくりと傾いていく。それでも金縛りに遭ったかのように体は言うことを聞かなかった。
そんな中、少年は歪む視界の隅で赤い小さな光を見た。それは流れ星のように遠くへ飛んでいき、同時に大鎌も動きを巻き戻すように闇の中へと消えていく。
何が……。
そう思った少年の耳に聞き慣れた声が届く。
「無事か!? カイル!」
それは父の声だった。
ふらつく頭を声のほうへなんとか向けると、少年――カイルは自分の足が一歩を踏み出していることに気がついた。
体が動く!?
「早く、そいつから離れろ!」
力強い父の言葉に引かれるように、カイルは父の方へと体を傾け走り出す。
父の隣へ来て振り向けば、卵人間は追いかけることなく闇の中に佇んでいた。
「カイル、大丈夫か?」
父がこちらを見ることなく緊張した面持ちで聞いてくる。
その手には拳銃が握られ、硝煙の臭いが漂っていた。
「……あいつ、何?」
カイルは白い人影を見ながら震える声で父に尋ねる。
喉が渇いて、張り付いたようにもどかしい。
「……エンプティ・ダンプフィル。フェンリルの死神か……」
独り言のようにつぶやいて、父は唾を飲み込んだ。頬を一筋の汗が流れ落ち、絞り出すような声で父は言う。
「まさか、おまえが犯人だったとはな……」
犯人?
その言葉にカイルは一人の女性を思い浮かべた。
強気で一途でわがままだった自分の姉。最愛の人を失い消えた姉。それが卵人間の表情のない顔へと吸い込まれていく。
こいつが姉さんを?
確信にも近い疑問が、カイルの視線を卵人間へと釘付けにする。
隣では父が大きく息を吐き、そして、手にした銃を前に突き出し狙いを定める。
「だが、そんな大鎌一本で俺はやられんぞ」
しかし、父の怒気を含んだ低い声に卵人間は首をかしげただけで、再び煙のように現れた大鎌を軽々と構えた。それに対して父は、右手で拳銃を構えたまま左手を背中へと伸ばし、そこにあるものを掴む。
「ありがたく思え、俺が冥土に送ってやる。この亡霊がッ!」
そして、勢いよく背中から散弾銃を取り出すと、父は横へと走りながら白い影へ引き金を引いた。
木々を振るわせるように銃声が轟き、その先端から無数のレーザー光にも似た赤い光が伸びていく。それは面となって卵人間へと迫った。
よし、当たる!
カイルがそう思った直後、白い影が震えた。
「ロック《閉紋:攻撃を望む標的:駆動》」
それは何かが噛み合うような音だった。
カイルの目の前で、幾筋もの赤い光が闇の中へと消えていく。
そして近くに突然現れた威圧感に横を見たとき、そこには二発目を撃とうと銃を構えた父がいて、その銃口の先、触れそうな位置に白い影が立っていた。
カイルは自分の目を疑った。
父の顔が驚きに歪み、しかし、すぐに獲物を睨みつけると引き金にかけた指に力を込める。
今度こそやったとカイルは思い、白い影が赤い散弾を受けて煙のように吹き飛ぶ様を思い浮かべた。
しかし、銃声は鳴らなかった。
「ぐはっ!」
代わりに聞こえてきたのは父のくぐもった声で、カイルの前を大きな体が宙をのけ反りながら飛んでいく。その全身からは花火のように細かな血しぶきが上がり、力の抜けた四肢を連れて弧を描きながら地面へ落ちていく。
「……父さん!?」
父を追いかけようとするカイルの目の前で、しかし、それは落ちることなく動きを止めた。
その背後には白い影が浮かび上がり、それは血を滴らせた十数本の小さな鎌を周囲に連れて静かに佇む。
「……冥土は、どこだ?……」
口さえも動かせないカイルの前で、それは父の体とともに闇の中へと溶けて消えた。
◆
「……ん?」
目を覚ますと、カイルは自分の頬が濡れていることに気がついた。
目の前には橙色のホオズキがあって、可愛らしく揺れている。その向こうに広がる空は、いつの間にか明るくなっていて、朝の訪れを告げるように鳥が鳴いていた。
「朝か……」
息を吐き出すように独りごちて、カイルは心臓がドキドキと脈打っていることに気がついた。首筋にはじっとりと汗が浮かび、朝の風が冷たく感じられる。
嫌な夢を見たな。
そう思ってカイルは汗を拭おうと右腕を動かした。しかし、手首から先を何かに掴まれたように、幾ら力を入れても腕が持ち上がらない。
何度か動かして、カイルはようやく自分が右手を強く握りしめていることに気がついた。
「…………」
深呼吸をして体中の力を抜く。
すると右手の力も抜けて腕が持ち上がる。空を背に手のひらを見ると、そこにはナイフの柄に刻まれた模様がくっきりと浮かんでいた。
グングニルの槍とグラムの剣。
交差する神の槍と英雄の剣を見ながら、カイルは自分の使命を再確認する。
自分は義兄を戦争で失い、父は殺人鬼に殺された。そして母は病床で姉の帰りを待っている。だから、姉だけは絶対に取り戻さなくてはならない。フェンリルという名の怪物から。
カイルは上半身を起こすと、軽く伸びをして周囲を見回す。公園には自分以外に誰も人影はなく、けれど、いつもの日常がいつもと変わらない時を刻んでいる。
その中に自分がいることをカイルは幸せだと思った。そして、姉はなぜここにいないのかとも。
カイルは立ち上がると、もう一度腰のナイフに手を当てて助けるべき人の名を口にした。
「……フラウ姉さん……」
花束と牙のごときナイフを携えて、青年は公園をあとにする。
【第二章】
「気になってたんですが……」
水の入ったグラスに手を添えながら、アユムはフラウに尋ねた。
「ん? 何? 分けてあげないわよ?」
テーブルの上では黒い鉄板がソースを弾けさせ、そして、鉄板一面に鎮座した分厚い肉の塊にフォークを突き刺しながら、フラウは肉汁滴る固まりを頬張りつつ答えた。
……なんか、台無しだ……。
早朝のファミレスで朝食をとりながら、アユムはため息をついて肩を落とした。
目の前には見た目のきれいな女性がいて、二人きりで食事というシチュエーション。なのに、まるでがさつな姉に無理矢理呼び出された挙げ句、問答無用でおごらされている弟のような気分になってくる。
「いや……、そのキロステーキではなくてですね」
アユムは落ち込みそうになる気分を振り払うと、自分の頼んだイングリッシュマフィンのモーニングセットはまだなのかと、少し苛立ち混じりに話を戻す。
目の前の光景を見ているだけで、お腹が悲鳴を上げそうだった。
「じゃあ、何?」
切り終わった肉塊を口へ運びながらフラウは言う。
「こんなところで、のんきに食事なんかしてていいんですか?」
お腹をさすりながらアユムは尋ね、フラウは肉の塊を喉の奥へと流し込んでから、それに答えた。
「緊張してるの? 大丈夫よ。私、今は普通の人間とほとんど変わらないから」
「緊張はしてませんけど……。て、それ、どういうことですか?」
少し不機嫌そうに言うアユムに、フラウは強がりを言っていると思ったのか、小馬鹿にしたような笑みを浮かべて話を続ける。
「機関の連中は、魔女の力を目印に私を追いかけてるの。でも、今の私にはその力がほとんどないわけ。だから、普通にしてれば連中も簡単には見つけられないわ」
「木の葉を隠すなら森の中ってやつですか……」
「まあ、そんなところね。でも、力がないってことは見つかったら即アウトってことでもあるから……」
「ダメじゃないですか!」
付け合わせのフライドポテトをフォークで刺しながら言うフラウに、アユムは身を乗り出して声を上げる。そんな彼の口にポテトをねじ込んで黙らせると、彼女は子供を叱る母親のように言った。
「大きな声を出さないの。アユムは私に協力してくれるんじゃないの?」
「しますけど……」
口の中のポテトを味わいながら、アユムは大人しく腰を下ろすと周囲を見回す。
そんなアユムの前でフラウがテーブルを指で叩く。
「だから、そんなにキョロキョロしないの」
「……すみません」
席で小さくなりながら謝るアユムに、フラウは肉を切りながら話を続けた。
「即アウトって言っても相手にもよるし、それに今はキーホルダーのあんたもいるから大丈夫よ」
肉を刺したままのフォークで自分を指しながら言うフラウに、アユムは肉汁溢れる断面と脂の甘い香りに思わず顔をしかめた。
ポテトを食べたせいか、余計にお腹が空いてきた気がする。
生唾を飲み込むと、アユムは空腹を誤魔化すように質問を口にした。
「前も言ってましたけど、そのキーホルダーって何なんですか?」
そんな彼の目の前で、フラウは口を大きく開けると躊躇なく肉をその中へと放り込む。そして数回噛んだだけで呑み込むと、唇についた脂を舌できれいに舐め取った。
脂で光るフォークを揺らしながら彼女は答える。
「キーホルダーっていうのは、ギアになれる可能性を持った人間のことよ。アユムも聞こえるでしょ? 世界の音が」
今は世界の音よりも腹の音が聞こえそうだとアユムは思った。でも、フラウはお腹を押さえるアユムを気にすることなく話を続ける。
「あ、でも連中もキーホルダーを探してるんだっけ。じゃあ、連中に見つかったらアユムもやばいかもね」
そう言って、フラウは口に入るのかと思うくらいに大きく肉を切り分け始める。ナイフを進めるたびに溢れる肉汁を見ながら、アユムは再び生唾を飲み込むと相づちを打った。
「……そうなんですか……」
その視線は肉に釘付けで、言葉も上の空だった。しかしフラウは肉を見たまま話を続ける。
「表向きは保護って言ってるけど、機関の連中、裏ではギアへの対抗策のために人体実験も平気でやってるみたいだしね。たまに人狼とか襲ってくるし」
空腹の狼はこんな感じだろうかと思いながら、アユムはフラウの口へと向かう肉を見つめていた。
その真っ直ぐな視線に気付くと、フラウは何を思ったのか、肉を見せつけるように左手を掲げてアユムに言った。
「そうだ。アユムも試してみる?」
「え? いいんですか?」
喉を鳴らして驚くアユムに、フラウは楽しげに笑みを浮かべる。そして、その手にした指輪を外して彼の目の前へと置いた。
「…………」
これは食べられないよなと思いながらも、アユムはなんとなく指輪を手に取った。すると、いきなり機械音のような声が聞こえる。
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周囲を見回すアユムを面白そうに見つめながら、フラウは楽しげに声に答えた。
「始めてちょうだい」
そしてアユムは別の音を聞く。それは何かが噛み合うような、動き出すような重くて硬い金属のような音だった。
次の瞬間、アユムは落下していく感覚に襲われ、闇に吸い込まれるように視界から光が消えていく。
突然のことに手を伸ばしても、視界に手は見えず声も出ない。そんな中、わずかな光の隙間からフラウの声がこぼれるように聞こえてきた。
「世界の裏側、ユグドラシルへようこそ」
それは楽しげで、どこか子供を寝かしつける母親のように優しい声だった。
◆
薄暗い空間にぼんやりと光が広がっている。
アユムはまぶしさに目を細めながら、ゆっくりと周囲に視線を向けた。
すると車のエンジン音やピコピコという様々な電子音、そして重火器を撃つような音や爆発音が聞こえてくる。それらは途切れることなく混ざり合って、まるで音の嵐に巻き込まれているようだった。
ただ、どの音も正面から流れてくるようで、確かめようと視線を向ければ光が壁のように広がって、アユムは思わず目を閉じた。
それでも少しずつ目を開ければ、そこには両手を広げても抱えきれないほどの大きなディスプレイがあった。
ディスプレイには、赤土の荒野を上空から見たような広大な風景が映し出され、大小様々な起伏が入り組んだ迷路のようになっていた。そして、その中にある大河のような谷間を、色鮮やかな車や戦闘機のようなものが何台も先を競うように進んでいく。
それは、いわゆるバトルアクション系のレースゲームだった。
「おい! ふざけんなッ!」
いきなり子供のような少し高めの怒声が聞こえて、アユムは肩を縮めて周囲を見回した。
でも、人影らしきものは何も無い。
相変わらずゲーム音だけが響く中、アユムは少し怯えながらも、もう一度ディスプレイへと視線を向けた。すると、そこにはさっきまでと同じようなゲームの映像と、
……あれ? なんか……
その映像を遮るように、二本の白い棒のようなものが立っていた。それは表面をもふもふとした毛で覆われていて、ピョコピョコと左右に揺れている。
あんなもの、さっきあったっけ?
まだ少しぼんやりとした頭でアユムが首をかしげていると、
「おっしゃあ! 吹っ飛べや!」
さっき聞こえた声とともに、白いそれは急にピンと真上に伸びる。そして、その下にも何かあることにアユムは気付いた。
よく見てみると、ディスプレイの前には大きなソファーが一つ。そして、そこに何かが乗っている。
アユムは嫌な予感に顔をしかめながらも、少しずつソファーへ近づいて、それを横からのぞき込んだ。
すると、そこには白い兎のようなものがいた。
「ここからがワイの本領発揮や。ぶっちぎってやんよ!」
兎は黒い大きなサングラスをかけ、同じく黒いコントローラーを小さな手で器用に操作しながら声を上げる。そして体を右に左に傾けながら、ディスプレイに向かって叫び声とともに拳のように長い耳を振り回していた。
「あ、あの……」
アユムは鞭のように向かってくる耳を避けながら、兎に声をかけてみた。
しかし兎はアユムを見ることなくゲームを続け、
「おんどれは黙ってワイの後ろをついてればええんじゃ! 金魚の糞みたいになっ!」
口の端をつり上げてそう言うと、コントローラーのボタンを激しく操作しながら狂ったように笑い出した。
これ、兎なのか?
不安しか覚えない目の前の状況に頬を引きつらせながらも、アユムは取り敢えずもう一度声をかけてみる。
「あのー、すいませーん」
しかし兎は聞こえなかったのか、ディスプレイのほうを向いたまま、ちぎれそうなほど耳を振り回してひたすらゲームを続ける。
こいつ大丈夫なのか?
兎に人間の判断基準を当てはめていいのか迷いつつも、ほかに誰もいない状況に、アユムは仕方なく再度、今度は兎の前で手を振りながら声をかけてみた。
「すいませーん」
すると、今度はさすがに気づいたのか兎の耳がピンと真っ直ぐに伸びて止まり、コントローラーを握っていた手から力が抜ける。そして、コントローラーが床に落ちる音がして、
「チッ」
吐き捨てるような舌打ちとともに、兎はゆっくりとアユムのほうへと顔を向けた。その眉間には何本もの皺が寄り、眉もつり上がって明らかに怒りの表情を形作っている。
その様子にアユムが困惑していると、兎はアユムを見つめたまま、ゆっくりとサングラスを持ち上げた。
その顔にアユムは一瞬息を呑む。
……目が、縫い付けられてる……
兎の閉ざされた両目に気味悪さを感じながらも、アユムはそこから感じる刺すような視線に目を逸らすことができなかった。
「よくも……」
兎が奥歯を噛み締めながらつぶやく。
その小さな手は強く握りしめられ、アユムがそれに気づいたときには、兎はもふもふの白い拳を繰り出しながら叫んでいた。
「兎様がゲームしとるのに邪魔するとはいい度胸やッ! 一遍死んで来いやああああああああああッ!!」
彗星のように白い拳がアユムの顔を直撃し、それは、そのまま捻りを加えながら顔面を抉るようにディスプレイへと振り抜かれた。
「うぼげばぁあああああああ!」
そしてアユムは、今まで口にしたことのないような叫び声を上げながら、ディスプレイの向こうに広がる荒野へと落ちていった。
◆
「いててて……」
痛む頬を手で押さえながら、アユムは上半身を起こした。
すると体についていた砂が落ちて、さらさらと乾いた音を立てていく。
口の中に入った砂がザリザリと気持ち悪くて吐き出すと、吸い込んだ息とともに血の臭いが口の中に広がった。アユムは恐る恐る舌で口の中を確かめて、傷口に触れた途端に痛みで顔をしかめる。
「いっつうぅぅ」
それでも、取り敢えず歯が折れていないことに安堵しながら、アユムは周囲を見回した。
そこには赤土でできた大地が広がり、太陽の光を反射して陽炎が揺らめいている。その光景にアユムは既視感を覚えた。
たしか、さっき……。
そう思って上を向けば、空に穴のような黒い長方形が浮いている。そして、その中では小さな白いものが楽しげに飛び跳ねていた。
「あいつ!」
思わず奥歯を噛み締めて、アユムは痛みに顔をしかめた。
頬を手で押さえながら兎のいる穴へと視線を戻せば、そこにはもう兎の姿はなく、アユムは空に浮かぶ黒い長方形を見ながら力なく肩を落とす。
あそこから落ちてきたのか……。
よく生きてたなと感心しながら、アユムは白い兎の顔を思い浮かべてため息をついた。
あいつは、なんなんだ?
わけがわからないという思いだけが頭に浮かび、その理不尽な態度に怒りが込み上げてくる。
「いっててて……」
再び走った頬の痛みに顔を歪めて、アユムはゆっくり息を吐いた。
もう、アイツのことを考えるのはやめよう。
無駄なことだと割り切って、アユムは目の前に広がる荒野に視線を移す。
「それにしても、どうするかな……」
独りごちてぼんやり地平線を眺めていると、アユムの耳に一つの音が聞こえてきた。それは背後から段々と自分のほうへと近づいてくる。
嫌な予感とともにやって来るそれは激しい鼓動のような機械音で、アユムは大きくなる予感に恐る恐る背後へと振り向いた。
すると、そこには毒々しい色彩のトラックがあった。トラックは砂煙を上げて、猛スピードでこちらへ向かって走ってくる。しかし、その座席に人影はなく、代わりに二本の白い長耳が揺れていた。
「…………」
アユムは自分の嫌な予感に納得し、目の前の絶望にうなだれた。
しかし、そうこうしている間にも、トラックは自分のほうへと車体を激しく揺らして向かってくる。
「ちょ、ちょっと待て!」
無駄なことを言っているとは自分でも思いながら、アユムは口の痛みを無視して叫ぶと急いで立ち上がる。その間もトラックは狂ったようなスピードでアユムへ迫り、すでに十メートルもない距離まで来ていた。
壁のような恐怖から離れようと、アユムは前へ走り出す。
乾いた大地に足を取られながら、アユムは遮る物のない荒野をひたすら真っ直ぐに駆けていく。
爆発するようなエンジン音と大地を抉るタイヤの叫びは、呪いのようにアユムを追いかけ、瀑布のように迫る恐怖にアユムは手足を前へ前へと振り回す。
そんな中、アユムは気になって少しだけ後ろへ振り向いた。
「!?」
一瞬、アユムはそれが何だか理解できなかった。よく見れば、それはトラックの鼻先で、太陽の光を反射して不気味な輝きを放っていた。そして、アユムの背中に熱くなった鉄の塊が押しつけられる。
「うわあああああ!」
アユムは叫び声を上げて加速した。それは一瞬だけ数十センチの隙間をつくり、しかしトラックのスピードにかなうはずもなく、その距離はエンジンの唸りとともにあっけなく無意味になる。
そして、次のエンジン音とともにアユムの背骨は砕け、ひしゃげる音ともに大地のそれとは別の赤を空へと盛大にまき散らした。
◆
……うぅ……
アユムは四肢の痛みに意識を取り戻した。
目を開けて前を見れば、そこには滝のように巨大な木がある。そして周囲へ視線を向ければ、どこにも同じような巨木ばかりが立ち並び、下のほうに生えている草も見たことがないほど大きかった。
……なんだ、ここは?……
一見して森のようだったが、何もかもが巨大で異様な空間に、アユムは体を動かそうとして別の異変に気がついた。
……体が、動かない?……
手足を動かそうとしても、感覚はあるが何かに固定されているかのように動かせない。
……そう言えば、さっきトラックにはねられて……
そのせいで体が言うことを聞かなくなってしまったのかと、アユムは試しに首を動かしてみた。すると、首は普通に動いて振り向くこともできそうだった。
安堵したアユムは後ろへ振り向いて、そして目を見開いて息を呑んだ。
そこにあったのは巨大な人の顔だった。空を覆い隠すほどの幼さを感じさせる大きな顔が、無邪気に楽しそうな視線を自分に向けている。
アユムはとっさに逃げだそうとした。でも、手足がまったく動かない。
……いったい、なんなんだよ!?……
焦る気持ちにアユムは自分の体を見て、そして探した。でも、視界には節くれ立った黒い棒があるだけで、自分の体が見当たらない。
仕方なく黒い棒をよく見れば、それは六本あって大きな指につままれている。
……なんだ? これは……
試しに手足を動かしてみれば、なぜかその六本が震えるように動きを見せる。そしてアユムは、視界の上端にも同じように黒くて垂れ下がる枝のようなものがあることに気がついた。
……まさか……
思考とともに視界の下でも何かが動く。それは太くて牙のような形をしていた。
アユムは目に見える断片を自分の記憶と重ね合わせる。それは小さい頃に祖母の庭先でよく見た誰もが知っている生き物で、
……虫の体……
そして一つの結論にたどり着く。
……僕は、アリ、なのか?……
疑問に答える者はなく、アユムは答えを求めるように巨人へと視線を向けた。
……じゃあ、これは子供……
声にもならない問い掛けに、子供はにやりと口を歪める。そして、つまんでいた足を三本ずつ左右に引っ張り始めた。
……!? や、やめろ!!……
しかし、子供は目を輝かせたままアユムの足をゆっくりと引っ張っていく。
伸びきった足は節々で悲鳴を上げ始め、
……痛い!痛い痛い痛い痛いっ!!……
そして、ブチッと何かが引きちぎれるような嫌な音がアユムの体に響いた。
……ぎゃあああああああ!!……
ブチッ、ブチッ、ブチッ、ブチッ、ブチッ。
聞こえるはずもない悲鳴を無視して、子供は花びらのようにアユムの足をすべて引きちぎっていく。
体中に走る痺れと熱と喪失感に、アユムの意識は塗りつぶされていく。そんな中、アユムは子供の指が自分の頭に近づいてくるのをぼんやりと見ていた。
ブチブチッ。
音がして指が去ると、枝のように伸びていた触角は視界から消えていた。
……あ、ああああ……
体中が痙攣するように危険を知らせ、しかしアユムに為す術は無く、そんな彼を見下ろして子供は口の端をつり上げる。そして、指の上にアユムを載せると狙いをつけて、その小さな体を指で軽くはじき飛ばした。
……ぐあっ……
重い衝撃とともにアユムの体は真っ直ぐに宙を飛び、ゴムのような餅のような柔らかな何かに張り付いた。
熱にうなされるような虚ろな意識の中、アユムはここが危険であることを本能的に感じていた。しかし、同時に今の自分ではどうすることもできないことも知っていた。
……死……
その一文字が脳裏に浮かぶ。
そして、それはアユムの近くへ来ると、のぞき込むように顔を近づけた。そこには丸い目が幾つかあり、そのどれもが感情もなく自分を見つめている。目の表面には、どれにも黒い塊と化した自分が、万華鏡のように映っていた。
それは、ため息をつくように牙を一度動かすと、その奥にある口を見せつけながらアユムへと近づいてくる。そしてアユムの体に牙を突き立てると、何かをゆっくりと流し込み始めた。
熱いようなむず痒いような感覚が、牙を中心にしてアユムの体を侵していく。それはアユムの意識をゆっくりと、体とともに溶かしていった。
◆
「おい! しっかりしろ!」
肩を痛いくらいに叩かれてアユムは目を覚ました。
驚いて隣を見れば、そこには迷彩柄の重そうなヘルメットをかぶった男がいた。その全身は迷彩服で覆われ、真っ直ぐな瞳が自分を見ている。
男はアユムと視線を合わせると、背中を思いっきり叩きながら耳元で叫んだ。
「ぼけっとするな! 死にたいのかッ!」
その言葉にアユムは肩を縮こまらせ、思わず握りしめた手の中に固い何かがあることに気がついた。
何かと視線を移してみれば、そこには一丁のアサルトライフルが、ずっしりとした重みとともに存在していた。
「よし、次はおまえだ!」
「……え?」
いきなり次だと言われ、アユムは再び背中をバンッと叩かれる。
わけがわからず男へ視線を送ると、
「行け!」
そう言って男は、無理矢理アユムを前へと押し出した。
つんのめるように前へと進み出て、アユムはそこで立ち止まる。
周囲を見回せば、砂埃の立ち込める廃墟が視界一面に広がっている。
石でつくられた建物はどれもが崩れ落ち、舗装されていない道の端々には倒れた人が土嚢のように積まれていた。
「おいっ! 止まるな!」
背後からの怒声に振り向いた瞬間、アユムの耳元をヘルメット越しに擦過音が突き抜けた。そして、耳鳴りに似た痛みに顔をしかめるアユムの目の前で、男が隠れていた家の壁に小さな穴が開く。
男は素早く銃を構えると、アユムに向けて発砲した。
「ひっ!」
それは連続する銃声を短く響かせ、しかしアユムは痛みもなく立ち尽くす。
背後で何かが倒れる音がして振り向けば、地面に見知らぬ男が倒れていて、乾いた地面が濡れていく。
黒く湿っていく地面に呆然と視線を落とすアユムに、またあの声が怒鳴りつける。
「走れ!走れ!走れ!走れ!」
男は銃口を向けながら、先へ行けと促し叫ぶ。
容赦ない男の声に押されて、アユムはわけもわからず一歩を踏み出し、そのまま廃墟の中を走り出した。
手にした銃と服は重く、うまく足が動かず思うように走れない。
それでも足を動かし前へと進むアユムの前に、突然建物の影から長い筒を肩に抱えた男が現れた。
男は筒の先端を迷わずアユムに向け、アユムは思わず動きを止めた。途端に服の重さに引っ張られてアユムは地面に膝をつく。
「止まるな! 走れ!」
後ろから再び怒鳴り声が聞こえ、その声に目を向ければ、自分の視線をたどるように煙が横を駆け抜ける。そして、次の瞬間には男が隠れていた家が吹き飛んだ。
呆然とするアユムの背後で足音がする。それは確実に近づき、アユムの体はびくつき震えた。
足音は影となってアユムを覆い、そして何かをはめるような金属音がする。
絶望的な恐怖を感じながら、それでもアユムは奇跡的な助けを求めてゆっくりと振り返る。しかしそこには、ただ黒い穴があるだけだった。
火薬の臭いがする。
恐怖に麻痺し始めた頭でそんなことを思いながら、アユムは目だけを動かして銃口の上へと視線を向ける。そこには大きなゴーグルに覆われたひげ面の顔があって、その口元はなぜか楽しげに歪んでいた。
引き金にかけられた指が無言で引かれていく。それはスローモーションのようにゆっくりで、まるで結末から逃げるように動きを緩めていく。
しかし、亀を追いかけるアキレスのようにはいかなかった。
アユムが何か弾ける音を聞いたときには目の前には青い空が広がり、顔を温かい何かが広がっていく。
青い空は光を失ってモノクロになり、そして、自分を取り囲んでいた銃声や爆発音も次第に鳴りを潜めていった。
思考さえも止まりかけた世界で、アユムはそれらをただ受け入れることしかできなかった。
◆
アユムは再び痛みで目を覚ました。そしてアユムは再び殺された。それは何度も何度も何度も何度も繰り返された。
◆
カチッカチッとリズムを刻んで何かが噛み合う音がする。
それは早かったり遅かったり、大きかったり小さかったりして、幾つも幾つも重なって一つの鼓動を生み出していた。
アユムは横になったまま、海に浮かんで波間を漂うような心地よさに目を閉じていた。
酷く体が重い。
そんな感想しか出てこなかった。
いきなり知らない場所に放り込まれ、そして理不尽に殺される。それが何十、何百、何千と繰り返され、アユムはいつしか激しく明滅を繰り返す電球のように、自分が生きているのか死んでいるのかわからなくなっていた。
僕は生きているのか?
そんな疑問さえ、浮かんではすぐにどうでもよくなって消えていく。
「おい、起きろ」
それは酷く耳障りな音だった。同時に、穏やかだった闇が大きく揺れて体が傾く。
「起きろって言ってるだろ?」
揺れは徐々に大きくなって、なぜか揺れるたびに脇腹に痛みが走り始めた。
痛いってことは、僕は生きてるのか?
他人事のように思いながら、アユムはしつこい痛みが気になり始める。
その間隔は次第に短く早くなり、痛みも大きくなっていく。
そして、アユムが痛みに耐えられなくなって目を開けようとした、そのとき、再びあの声がやかましく聞こえた。
「いい加減に起きろや! このボケがッ!」
脇腹に鋭い痛みが走り息が詰まる。
体をくの字に曲げてなんとか痛みに耐えると、アユムは大きく息を吸って文句とともに吐き出した。
「痛いなッ! 何すんだよ!」
そう言って勢いよく上半身を起こしたアユムの視界にあったのは、どこかで見たもふもふの白い小さな拳だった。
「それが兎様に対する態度かッ!」
顔面に拳を受けて、アユムは再び暗闇へと落ちていった。
◆
「それで、輪廻転生は楽しかったか?」
二人掛けのソファーに寝転がって、黒いサングラスをかけた白兎は興味なさそうにアユムに尋ねた。
「……酷い目に遭ったよ」
アユムは一人掛けのソファーに座って、痛みの残る鼻をさすりながらつまらなそうに答えた。
周囲を見回せば、闇に浮かぶように幾つものディスプレイが淡い光を放ち、その裏には大小様々な歯車が蠢いている。そして、その中心には幾つかのゲーム用コントローラーが無造作に置かれた小さなガラス製のテーブルがあり、白兎とアユムのいる大小のソファーと大画面のディスプレイがそれを囲んでいた。
ゲーム画面を映していたディスプレイには、今は別の映像が流れている。
「まったく呑気なもんだよ」
アユムは、ディスプレイの向こうで生クリームをたっぷり載せたパンケーキを口いっぱいに頬張るフラウを見てつぶやいた。
「こっちは、わけのわからないことになってるっていうのに……」
「ん? なんだおまえ、フラウから何も聞いてなかったのか?」
頬杖をついてふて腐れるアユムに、白兎はサングラスを上げると閉じた瞳を向けて訊いてきた。
「そうだけど?」
それに半目で答えて、アユムは頬を膨らませた。
「そうならそうと早く言え。まったくフラウの奴、勝手に送り込んでおいてインフォームドコンセントもしてないとか。危うくこいつを問答無用でギアにするところだったぞ」
なんかさらっと怖いことを言って、白兎は慇懃なお辞儀とともに自己紹介を始めた。
「俺は盲目白兎だ。役目は、そうだな、主にギアの支援ってところか。イメージ的には魔女の使い魔みたいなもんかな」
そして、両腕を広げると白兎は周囲を見回して続けた。
「で、ここはギアと世界を繋ぐ中枢。世界の裏側だ」
「世界の裏側ねぇ?」
怪訝な瞳を向けて首をかしげるアユムに白兎は言葉を続ける。
「ユグドラシル。人間はそう呼んでるな」
世界を意味する樹の名前に、アユムは改めて周囲を見回した。
ディスプレイには、どれも衛星写真のような映像が映し出されている。あるものは都市部を、またあるものは森林や海など、それは地球の至る場所を映しているようだった。そして、その隅には年月や時刻が表示され、その中には過去や現在だけでなく、未来を示す数字もあった。
「ここは世界の中心であり裏側、そして運命を紡ぐ場所でもある」
そう言って白兎は指を鳴らす。すると幾つもあったディスプレイは消え、その後ろにあった無数の歯車が顕わになる。それは球の内部のように周囲を覆い尽くし、ある場所では新しい歯車を継ぎ足しながら、またある場所では組み合わせを変えながら、何重にも連なり動き続けている。
「……運命を紡ぐ……」
その呑み込まれるような光景に、アユムは思わずつぶやいていた。
「あそこを見てみろ」
白兎は腕を組んだままそう言って、片耳で右上方を指し示した。
そこには、錆びついたように回ることなく軋むだけの歯車があった。そして、それを中心として噛み合わさった大小様々な歯車も同じように軋み震えていた。
盲目白兎は静かに告げる。
「あれが死……」
その言葉とともに、中心にあった歯車が澄んだ音ともに砕け散る。
「そして転生だ」
散った破片はそれぞれが小さな歯車となり、周囲に流れ星のように広がって別の歯車へと繋がっていく。そして、砕けた歯車に繋がっていた歯車たちは、何事もなかったように動き始める。
よく見れば、歯車の破砕と再接続は至るところで星の瞬きのように起きていた。そんな動きの中、アユムは周囲の歯車を頻繁に組み替えている歯車があることに気がついた。
その視線に、白兎はニヤリと口を歪めて言う。
「あれが自ら歯車を巻く者――ギアだ。ギアは運命の歯車を自ら組み替え、世界のあるべき姿を自ら変える」
ほかとは違う能動的なギアを見ながら、アユムは兎の言葉を自分の言葉で言い換える。
「それって、運命を自分の思い通りに変えられるってことなのか?」
「そう言ったつもりだが?」
白兎はアユムの疑問に、不思議そうに首と耳をかしげた。
そんな兎にアユムはさらに問い掛ける。
「生死さえも?」
「もちろん」
事も無げに白兎は答えて話を続けた。
「そして、おまえにはギアになる資格がある」
「資格? 僕に? なんで?」
立て続けの疑問に、白兎は首と耳を横に振って言う。
「理由は知らん」
「知らんって……」
呆れるアユムに、白兎はため息をついて肩と耳を落とした。そして小さな声で面倒臭そうにつぶやく。
「そんなことはナンバー0に訊いてくれ」
また知らない言葉に、アユムは質問を口にしようとして、しかし兎は耳を突きつけてそれを拒んだ。
「それよりも、だ。現に、おまえはここにいて俺と話をしている。それが重要だ。それこそが資格を持つ者、世界の声を聞くことのできる者の証。資格のない者は、ここを認識することも俺を理解することもできないからな」
そして白兎は、のぞき込むように閉じた瞳を向けてアユムに問い掛ける。
「どうする? おまえが望めば今すぐギアにしてやるぞ?」
迫りながら言う白兎に、アユムは困った表情を浮かべて黙り込んだ。
兎はさらに迫ってアユムに言う。
「死ぬのは怖かっただろ? あんな思いもギアになればしなくていいんだぞ?」
詰め寄る兎に、アユムはソファーの背に追い詰められながら訝しげに尋ねた。
「なんか、話がうますぎないか?」
その言葉に白兎の動きが止まる。そして含み笑いを浮かべると、胸を張って口を開く。
「よく気付いたな。まあ、多少の代償はある」
その言葉に、アユムは苦虫をかみ潰したような顔をする。
おまえもフラウのこと言えないじゃないか。
そう思いながらも、アユムは訊いて欲しそうにしている白兎にしょうがなく尋ねた。
「で、その代償は?」
「記憶だ」
即答する兎に呆れながらアユムは言った。
「あれですか? これはいわゆるアブダクションってやつですか?」
「あのな、おまえ。俺様のことを馬鹿にすると、本当に記憶を無かったことにするぞ」
「ひっ!」
こめかみに青筋を浮かべながら拳を握りしめて言う白兎に、アユムはとっさに頬の痛みを思い出し、冷や汗を浮かべながら頬を押さえてソファーにうずくまる。
そんなアユムに、白兎はため息とともにソファーに腰掛けると説明を続けた。
「まったく、その逆だよ。忘却ができなくなるんだ」
「え、それだけ?」
拍子抜けした様子のアユムを一瞥すると、白兎は腕を組んで俯きながら話を続けた。
「ああ、記憶することが運命によって義務づけられるからな。ただ、それだけがギアの代償だ」
そして大きく一度息を吐くと、アユムに顔を向けてもう一度問い掛ける。
「さあ、どうする?」
「僕は……」
アユムは俯いて今までのことを思い出す。いずれも現実離れしたことばかりで、夢だと言われればそちらの方が現実味がある。でも、何かがアユムの胸につかえていた。
そして、三秒が経過した。
「はい。時間切れー」
「は?」
軽く手を打ち鳴らして告げる白兎に、アユムは驚き顔を上げた。しかし、そこに白兎の姿はなく、左側から聞こえた風音に視線をやれば、白い何かが自分へ向かって迫ってくる。それは見覚えのある動きで、ドリルのように高速で回転しながらアユムの顔面に突き刺さった。
「うぼげばぁあああ!」
そして、アユムはつい最近口にしたばかりの悲鳴を上げながら、フラウの映るディスプレイへと吸い込まれていった。
◆
「お帰りなさい。少し早かったわね」
フラウの声に目を開ければ、アユムの目の前には透明なバケツに入ったカラフルなパフェがあった。
そこへとスプーンを突き刺しながら、彼女は口についたクリームを上品に拭う。
バケツの周りには肉の無いステーキ皿や空の器があり、目の前のパフェも既に三分の二は無くなっていた。
アユムは自分の前に置かれていたイングリッシュマフィンのモーニングセットを見て、まだ朝であることにため息をついた。
「それで、白兎の奴は元気だった?」
「酷い目に遭いましたよ」
そう言ってアユムは、サーモンの載ったマフィンにかじりつく。塩気の利いたサーモンと、こんがり焼けたマフィンのほのかな甘味が口の中に広がって、一気に安堵が胸の中にも広がった。
渇いた喉をオレンジジュースで潤すと、アユムはフラウに尋ねた。
「あれは、いったい何なんですか?」
「説明されたでしょ?」
「されましたけど……」
納得いかないといった表情でアユムはマフィンを口にする。
「でも、その様子だと答えられなかったみたいね」
バケツをつつきながら言うフラウに、アユムは不機嫌な顔をして、
「答えるも何もありませんよ。考えてる最中に殴られたんですから……」
そう言って手にしたマフィンを一気にすべて平らげた。
「そうね。でも、大切なことほど答えは既に決まっているものよ」
フラウは微笑んでパフェのイチゴを一個、口の中へと放り込む。そして話を続けた。
「まあいいわ。取り敢えずユグドラシルの存在さえ認識してくれれば」
「食べながら話さないでください」
イチゴを頬張りながら話すフラウをたしなめて、アユムはハムとチーズが載ったマフィンに手を伸ばして一かじりする。
「ねえ、アユム。目を閉じて耳を澄ませてみてくれる?」
「なんですか、いきなり」
食べている最中にもかかわらず言ってくるフラウに、伸びたチーズを口の中へとたぐり寄せながらアユムは答えた。
フラウはアユムの口元をじっと見つめ、
「食べながら話さないの」
そう言って、チーズの切れたマフィンをアユムの手から奪い取る。そして、代わりとでも言うようにパフェのリンゴをフォークに刺して、彼の口へとねじ込んだ。
マフィンはあっという間にフラウの開いた大口へと消え去り、アユムは身代わりとなったリンゴを仕方なく味わいながら「マフィンとリンゴじゃ割が合わないよな」と思いつつも目を閉じた。
視覚が遮断されると、リンゴの舌触りや甘味がより鮮明に感じられる。そして、微かに残ったハムとチーズの味にアユムは少し悲しくなった。
それらが消えると、することが無くなったアユムは、いつものように世界の声に耳を澄ませてみた。すると、そこには今までよりも鮮明で美しい音色が広がっていた。
アユムは驚き、その広がりに自分自身を重ねるように委ねてみる。それは色の無い水面のように穏やかで優しく、しかし明らかな存在を示すように澄んだリズムを刻んでいた。
安らぎに満ちた世界をもっと感じようと意識を伸ばしていくと、アユムはそこに何か断続的な軋むような濁った音が混ざっていることに気がついた。
「あれ? なんだこれ? なんか嫌な音がする」
「それがノイズよ」
「ノイズ?」
目を閉じたまま尋ねるアユムに、フラウはハムとチーズのおいしそうな匂いをさせながら答えた。
「機関の連中が持ってる機関員の証――グラムの牙が発する雑音よ」
「あの、僕のマフィンを食べながら話さないでくれますか?」
こめかみをひくつかせながらアユムは言って、ふと思いついたことを口にした。
「じゃあ、これから離れれば……」
そこまで言って、アユムはノイズが大分近くにあることに気がついた。距離にして三十メートルくらいだろうか。
「……フラウさん?」
アユムの表情に、フラウは口を上品に拭うと伝票を手にして立ち上がる。
「ごちそうさま。じゃあ、さっさと行くわよ」
その声にアユムが目を開けてテーブルの上を見ると、さっきまで残っていたはずのフラウのパフェもアユムの飲みかけのオレンジジュースも、すべてがきれいに無くなっていた。
◆
「アユムはノイズに集中して、その進行方向を教えてちょうだい」
アユムの手を取りながら、フラウは立ち止まることなく歩いていく。その先には高いビルが建ち並ぶ商業区の中心があった。
アユムは少し物足りないお腹をさすりながらも、目を閉じて音に集中することにする。
それは、こちらが歩くのと同じ速度で、しかし確実に近づいていた。
「真っ直ぐこっちに向かってきます」
「わかったわ」
フラウは右へとアユムの手を引いていく。
その後も二人は、ノイズが方向を変えて追ってくるたびに相手を巻くように方向を変えては進み続けた。あるときは裏道を通り、あるときはビルの屋上を飛び渡り、またあるときは狭いトイレの窓をくぐり抜けて、休むことなく人の気配を避けて歩き続ける。
そして三時間後。
二人は人気のない袋小路に追い詰められていた。
「なんでこうなるんですか!?」
「さあ、なんでかしら?」
冷や汗を浮かべて言うアユムに、フラウは他人事のように首をかしげた。そして突然、満面の笑みを浮かべると、アユムを見下ろしながらこう言った。
「やっぱり囮になってくれる?」
◆
そこはアーケード通りだった。左右には遠くまで飲食店が立ち並び、お昼時ということもあって多くの人が通りを楽しそうに歩いている。
そんな中、顔を赤くして時折後ろを振り返りながら、アユムはフラウとともに人混みのまっただ中にいた。
フラウは目だけで周囲を見回しながら、後ろで不安そうにしているアユムに前を見つつ話しかけた。
「そんなにアレが気になるの?」
その言葉にアユムはさらに顔を赤らめると、俯いて小さな声で尋ねる。
「あれで、本当に大丈夫なんですか?」
そう言ってアユムは、チラチラとワンピースに隠れたフラウのお尻へ視線を送る。
フラウは視線からお尻を隠すように少し振り向いて、眉根を少し寄せながら聞き返した。
「もう、どこ見てるのよ? 何? 私の使い魔が信用できないの?」
「だって、あんな……」
そこまで言ってアユムは耳まで赤くする。そして、つぶやくように続きを口にした。
「あんな黒兎にパ、パンツを被せただけで……」
「ん? なーに? 聞こえなーい」
フラウはアユムの前に一歩出て立ち止まると、耳に手を当てながら大げさな仕草で訊いてきた。それに対してアユムは、無言で赤い顔のまま彼女を睨み返す。
そんな彼にフラウは笑顔を見せると、
「大丈夫よ。なんせ私のパンティーなんだから」
と、自慢げにワンピースの裾をつまんで少し持ち上げた。
「ちょっ!? やめてくださいよ!」
慌てて大声を出したアユムに周囲の視線が集まる。しかし、フラウは落ち着いて裾を上げたまま、周囲に軽くお辞儀をした。それだけで周囲の人は何事もなかったように、元の流れへと戻っていく。
再び誰もが自分の世界へと戻っていく中、フラウはアユムの顔を両手で挟むと、自分のほうへ向けて言った。
「それに、現にノイズの動きは鈍ってるんでしょ?」
半ば無理矢理唇をとがらせながら、アユムは不満げにフラウに答える。
「まあ、それまで迷いなく向かってきていたのが、たまに止まったり、僕たちから離れるような動きを見せるようにはなりましたけど……」
視線を逸らしながら言うアユムに、フラウは彼の両肩を叩きながら「上出来。上出来」と言って頷いた。そして、右手の人差し指を立てると、
「でも、念には念を押しとかないとね」
そう言って一軒の店を指さした。
それは、食欲をそそるニンニクの香り漂う餃子専門店だった。
「あそこで、昼食にしましょ」
フラウに手を引かれながら、アユムはわけがわからないといった表情で人形のように引きずられていく。しかし、そのお腹は彼女に賛成するかのように、ぐるぐると鳴き声を上げていた。
◆
ニンニクたっぷりの餃子を満喫した二人は、その後も続けて香ばしい煙と甘いタレの匂いをさせる鰻屋、そして炭火焼きが自慢の焼き肉店をはしごした。
そして焼き肉店を出ると、フラウは店でもらったガムを噛みながら、
「いやー、食べたわねー」
そう言って満足そうに出てもいないお腹を軽く撫でた。
フラウは軽い足取りで通りへと戻っていくが、アユムはその後ろで気持ち悪そうにしながら、とぼとぼと重い足取りでついていく。
「いくらなんでも食べす、うっ……」
そこで何かが逆流しそうになって、アユムは慌てて口をふさいだ。そんな彼を横目で見ながら、フラウは「だらしないわねー」と言ってアユムの背中を何度も叩く。
「や、やべてくだぱい」
口を押さえて少し涙目になりながら、アユムはフラウを恨めしそうに見上げた。
自分の三倍は食べていたはずなのに、なんでこの人は平気なんだ?
その光景を思い出しただけで少し気持ち悪くなって、アユムは考えるのをやめた。
するとフラウが急に立ち止まって、疲れたようにため息をついた。
やっぱり彼女も無理してたのかと視線を向ければ、
「ちょっと喉が渇いたし、食後のデザートにしましょ」
そう言って、アユムを残して入り組んだ人の流れを軽やかにすり抜けていく。
その先には色とりどりのジューサーが並んだ、おしゃれな店があった。
その、いわゆるジューススタンドで彼女は何かを注文すると、行きと同じように障害などないかのように足取り軽く戻ってくる。しかし、フラウとすれ違った人たちは、必ず何か嫌な顔をして彼女のほうを振り返っていた。
アユムは、迫り来る彼女とともに膨らむ嫌な予感をひしひしと感じながら、彼女が手にした二つのコップに視線を向けていた。
フラウはアユムの前まで戻ってくると、その少し黄色みがかった液体入りの大きなコップを、なぜか顔を背けながら差し出してくる。しかも、両手を伸ばして二つとも。
その瞬間、アユムは反射的に鼻をつまみながら訊いていた。
「なんれすか? それ」
フラウは顔を背けたまま、腕を精一杯に伸ばして答える。
「ドリアンジュース。搾りたてだって」
「僕はいりません」
そう言ってアユムは、ジュースを手で押し返そうとする。
「私のジュースが飲めないって言うの?」
酔っ払いが絡むように言って、フラウはアユムを睨みつけた。それに対してアユムは、ジュースと視線から逃れるように背を向け、断りの言葉を口にする。
「そんな罰ゲームの王様みたいなもの、理由もなく飲めません」
するとフラウは、アユムの首に腕を回して背後から抱きしめた。そして、ドリアンジュースを顔の前に差し出して楽しげに言う。
「そう言えば、ノイズはどうよ?」
「調子はどう?みたいに言ってもノリませんよ」
コップを顔の前からどけながら言うアユムに、フラウはさらに体を密着させて、逃がさないとばかりに、ますます酔っ払いのように絡んでくる。
「ノリが悪いわねー。そんなことだと彼女に振られるわよ?」
「今は関係ないでしょ!」
そう言って逃げようとするアユムの耳元で、フラウはすかさず囁く。
「いいから、ノイズは?」
「ひっ!?」
短い悲鳴とともにアユムは肩を縮めると、離れようとしないフラウに大きなため息をついて目を閉じる。そしてノイズの位置を確認すると、疲れたように淡々と答えた。
「こっちとは、まったく関係ないほうへ行ってますよ」
「つまり、そういうことよ」
アユムから体を離してフラウは言った。
「え? どういう……」
彼女を追うようにして振り向けば、フラウはアユムの胸にコップを押しつけ、そのまま話を始める。
「追っ手は私の匂いを頼りに追いかけてたのよ。機関の奴等は今の私をギアの反応では追えないはずだし、視覚的に見失いやすい裏道やビルの中を通ったりしたのに迷わず追ってきた。まあ、音って可能性もあったけど、こんな人や機械が多い場所だと痕跡としては弱いしね。それに、よく考えたらあいつ人狼だったし……」
そして一気に説明すると、フラウはウィンクをしながらアユムに言う。
「わかった?」
「……まったく、それならそうと」
ため息をつくアユムに、フラウはもう一度コップを押しつける。
アユムは臭いに顔をしかめながらも、諦めたようにコップを手に取った。
「じゃあ、これで仕上げ。行くわよ?」
そう言ってフラウはコップを掲げる。それにアユムも続いて、二人は目を合わせて頷くと、
「「せーの!」」
同時にコップの中身を口の中へと流し込んだ。
◆
「さすがにあれは少しきつかったかも……」
公園のベンチで溶けたアイスのようになりながら、フラウは空を見上げて愚痴をこぼした。
木々に囲まれて日陰にはなっていたが、それでも陽の当たる地面は白く陽炎が揺らめいている。
「それに、気のせいか体が火照って……」
そう言ってフラウがワンピースの胸元をつまんで風を送っていると、その前に人影が現れて何かを差し出した。
「はい。フラウさん」
それは袋に入ったアイスだった。袋には「女王の気品。マンゴスチン」と書かれている。
フラウはじっと袋を見たまま大きく息をつくと、人影を見上げた。そして、袋を差し出したままのアユムを見て、もう一度大きく息をつく。
「溶けちゃいますよ?」
心配そうに言うアユムに、フラウは既にベンチで溶けながら視線だけを彼に向けて言った。
「アユム、食べさせて」
「はい?」
「たーべーさーせーてー」
いきなり駄々をこねるフラウに、アユムは疲れた表情で彼女の隣に座ると、袋からアイスを取り出して差し出した。
「はい、どうぞ」
「ありがと」
短く言って、フラウはアイスを口いっぱいに頬張った。そして、口内の冷たさに耐えるように目を閉じると、こめかみを押さえながら何故か楽しげに「くぅーっ」と唸って拳を握りしめた。そして、
「さすが女王様! ひと味違うわね!」
と、やけにテンション高く幸せそうに目を輝かせた。
「ソウデスネ。ジョオウサマ」
顔を背けながらアユムは小さな声でつぶやいて、大きなため息を吐き出した。
すると隣でパンと手を叩く音がする。振り向いてみれば、フラウの顔がやたらと近くにあった。
「ねえ、アユム」
「な、なんですか?」
溶けたアイスに濡れたフラウの唇に目を惹かれながら、アユムは少し横へ動いて距離をとる。
「マンゴスチンってなんか……」
囁くようにそう言って、フラウはアユムのほうへと体を寄せた。
開いた距離が縮まって、濡れた唇が艶やかに光る。
「……卑猥、じゃない?」
「は?」
少し熱のある息にフラウの顔をよく見れば、鼻の頭はほんのり赤く、その目はとろんと下がっていた。
なんか、酔ってる!?
アユムは色気を振りまくフラウを見ながら、頭の片隅で思い出す。
そう言えば、ドリアンで酔うことがあるってどこかで聞いたような……。それにあのジュース、腐ったタマネギの臭いに混じって何か発酵したような臭いもしたし……。
アユムが考えを巡らす間に、フラウは彼の肩に自分の肩を寄せると、その耳元に口を寄せて唇をゆっくりと動かした。
「ねえ、マンゴスチンって言ってみて?」
「ひっ!? ちょっと、フラウさん!?」
戸惑うアユムを楽しそうに見つめながら、フラウは彼の二の腕に胸を押しつけるようにして、もう一度囁く。
「だ・か・ら、マンゴスチン」
顔を赤くして、しきりに胸を気にするアユムに、フラウは彼の視線を追うように顔を動かすと、意味ありげに小さく笑って言った。
「中身が気になる?」
「違います!」
「じゃあ何? そんなにじろじろ見て」
怪しげな瞳を向けて言うフラウに、アユムは意を決して言い放った。
「臭いんですよっ!」
フラウは目を見開いて驚いた表情を浮かべ、
「うわー、さいてー」
冷たい声と見下す視線をアユムに向けて、彼から体をサッと離した。
そしてアユムの手から溶けかけのアイスを掴み取ると、残ったアイスを一気に頬張り勢いよく噛み砕いて飲み干した。
残った棒を綺麗に舐めて、フラウはそれでアユムを指しながら「さいてー。まじさいてー」と呪文のように呟き始める。
一気に冷めた空気に顔を引きつらせながらも、アユムは少しほっとして話題を変えようと目の前の魔女に話しかけた。
「臭いのことは置いといて、一つ聞いていいですか?」
「か弱い乙女心を傷つけておいて何よ?」
アイスの棒を向けながら、少し怒気を含んだ低い声でフラウは言う。
アユムは気圧され後ずさり、
「……ごめんなさい」
本能に従って素直に謝っておくことにした。
それを見たフラウは棒の先を納めると、
「まあ臭いのはお互い様だしね。いいわ。何?」
冷めた口調で言いながらも、フラウはアユムの話を聞こうとベンチに座り直した。
彼女の言葉に自分も臭うのかと気になりつつ、アユムは取り敢えず話を続ける。
「その、フラウさんはどうしてギアになったのかなって……」
アユムの質問に、フラウは何を訊いているのかと不思議そうに首をかしげた。
「前にも言ったでしょ? 彼の死を否定するためよ」
「いや、そうじゃなくて、えーとですね、ユグドラシルに初めて行ったときの話とか、フラウさんは兎の問い掛けにどんな答えを出したのか、とか……」
唇にアイスの棒を当てて聞いていたフラウの視線が、次第に何かを考えるように上を向き、瞳を閉じて彼女は言った。
「知りたいの?」
その声は何かを突きつけるように硬く、アユムは姿勢を正すと真面目な声でそれに答える。
「はい」
見下ろすような視線でフラウはアユムを見つめると、空へと視線を戻して照りつける太陽に目を細めた。
「そうねー」
その声に先ほどの硬さはなく、でも、どこか悲しげにアユムには聞こえた。
◆
それは、のどかな昼下がりのことだった。
フラウは、自宅の庭先にある小さなテラスで紅茶を飲んでいた。
日差しは穏やかで、時折吹く風は緑の香りを含み、小鳥のさえずりが耳に心地好い。
ただ少しだけ、フラウは上空を行く雲の流れが早いような気がしていた。
「いつになったら戻ってくるのかしら?」
ふと漏れた言葉に自分の弱さを感じて、フラウは自嘲気味に笑った。
そんな彼女の栗色の長髪を風が優しく撫でていく。
すると大きく厚い雲がやって来て、テラスを日陰で覆い始めた。それとともに、荒々しいエンジン音も聞こえてくる。それは家の近くで止まると、ドアを閉める音を雷のように響かせる。そして、次には規則正しい足音を鳴らし始めた。
「…………」
フラウは、いつしかその音に耳を澄ませていた。
それは彼を自分の元から連れ去った音。二度と聞きたくないと思っていた音だった。
それが今、彼を待つ自分の元へ再び来ようとしている。
そのことに、フラウの胸は静かに鼓動を早くする。
何の用だろう?
ざわつく予感を無視するように、彼女は渇いた喉を潤そうとカップを口に近づけた。その手は微かに震え、唇に触れた紅茶は既にすっかり冷めていた。
そして、知らせを告げる鈴の音が玄関から聞こえ、
「ミズ・フラウ・オリハタ」
自分の名を呼ぶ声がする。
フラウは一気に紅茶を飲み干すと、すっかり曇った空を見上げて玄関へと向かった。
◆
開けた扉の先にいたのは一人の老兵だった。
「フラウ・オリハタさんですか?」
「はい」
フラウの返事に老兵は彼女の瞳をじっと見つめる。そして肩から提げた鞄から一通の封筒を取り出すと、目を伏せながらそれを差し出した。
封筒には少し厚みがあり、裏側には差出人として彼の名前が書いてある。
フラウは何も言わず、その場で封を開けた。
その中にあったのは、一枚の手紙と傷つき歪んだIDタグ、そしてシナモンスティックのように細く干からびた一本の指だった。
封筒の中を見つめたままのフラウに、老兵は一言「残念です」と告げると深々と頭を下げる。そして姿勢を正して敬礼すると、踵を返して車へと戻っていった。
玄関で俯いたままのフラウを残して、車のエンジン音が遠ざかっていく。
空に広がった雲は厚みを増して暗くなり、ポツリポツリと雨を降らせ始めていた。
◆
台所のテーブルに置かれたオレンジの下で、読み手を失った手紙が風にはためいている。
玄関は開けっ放しで、台所の裏手にあるバスルームからは水の流れる音がしていた。
そして、水の溜まっていくバスタブの横で、フラウは右手に握った果物ナイフに映る自分の顔を見ていた。
これは誰の顔だろう。
表情の無い見たこともない他人に、フラウは呆然とそう思う。
右手首にはIDタグがボールチェーンで巻き付けられ、そこには彼の名前が刻まれていた。
カケル・オリハタ。
唇だけを動かして、フラウはその名を口にする。
口から入った空気が鼻から抜けるたび、血の臭いに混じって懐かしい彼の味が口の中に広がった。
彼の指を口の中で転がしながら、フラウは彼が自分の体の中へと染み込んでいくような安心感を覚えていた。
私を彼の所へ……。
祈るように想い、フラウは一気に指を飲み込んだ。そして、自分の手首に刃を当てる。
「!?……」
その瞬間、フラウは金属の冷たさとともに何かが聞こえた気がして手を止めた。
それは歌のような金属にも似た澄んだ音で、頭に響いて冷たく心を振るわせる。
本当に死んだら彼に会えるの?
ふと心に浮かんだのは、そんな今となっては意味の無い疑問だった。
でも、それはフラウの心に不安の波を生み広がっていく。
もし、天国なんて無かったら?
辛いことも悲しいこともない、そんな都合のいい場所が本当にあるの?
辛いことや悲しいことのない場所で、本当に幸せや嬉しさを感じることができるの?
もし、その先に何も無かったら?
もし、今あるものがすべてだとしたら?
もし、……。
もし、……。
もし、……。
もし、……。
フラウは未だに来ない時を思い浮かべる。
次第に消えていく意識のなかで、辛いことも悲しいことも感じなくなって、家族の記憶も彼との思い出も消えて、何もかもが私の中から失われて、そして私さえも消えて、私が存在したことさえも消えて……。
その先にあるのは?
フラウは考え、思い、想像し、そして恐怖に心を震わせた。しかし、それでもフラウは想像することをやめなかった。
もし、天国も死後の世界もなくて、ただ忘却の彼方に消えてしまうとしたら、その先にあるのは何?
その先に……、いったい何が、あるの?
思考の先へと、想像の底へとフラウの意識が落ちていく。
そして、フラウの手からナイフがゆっくり滑り落ちる。
バスルームに金属の鋭い音が響き渡り、それはフラウの頭で何かと共鳴するように反響を繰り返した。
フラウの心が震え、軋み始める。
「あぁ、ああ、あああああぁああぁあアアアアァアアアァアアァアアアアアアアアアアアア!!!」
彼女は頭を抱え、そして逃げるように家を飛び出した。
◆
吹き荒れる風と叩きつけるような雨の中をフラウは走った。
失いたくない。
その想いだけが今の彼女を突き動かしていた。
塗りつぶされる恐怖から、迫り来る不安から、そして彼の温もりを奪おうとする世界からフラウは逃げた。
町の通りを、林の中を、どこまでも続く草原を、増水した小川の中を、誰にも届かない叫び声を上げながら彼女はただただ走り続ける。
そしてフラウは、一本の大きな木に全速力でぶつかって気を失った。
それは、彼と初めてキスをした丘に立つ、あのいわく付きのオークだった。
◆
「結局、猫じゃなかったら、いったい何なのよ……」
オークの幹に背を預けながら、そよ風に揺れる葉を見上げてフラウはつぶやいた。
気がつくとすっかり雨は止んでいて、空には満月を中心に澄んだ星空が広がっている。
教えてくれるって言ったのに……。
ため息とともに目を閉じれば、彼の笑顔が浮かんでフラウの頬を涙が一条落ちていく。
失いたくない。
今確かにあるこの想いを抱きしめるように、フラウは自分の体を強く強く抱きしめた。
やっぱり嫌ッ! 失いたくないッ!
「そんなに死が嫌ですか?」
それは冷たく落ち着いた声だった。
いきなり降ってきた声に頭上を見上げれば、枝の上に梟のような黒い影が乗っている。しかし、その頭には細長い葉っぱのようなものが一本生えていた。
「……何?」
フラウの声に、黒い影は音もなく彼女の前に舞い降りる。
月明かりに照らされたそれは、小さな赤黒いシルクハットを頭に載せた片耳の黒兎だった。
黒兎は後ろ足だけで直立すると、手のような前足で帽子を取って、フラウへ丁寧なお辞儀を披露する。
「お初にお目にかかります。私は片耳黒兎と申します」
丸見えになった兎の頭には、帽子の載っていた部分に千切れた耳の名残があった。それは赤黒く蠢き、脈動する傷口にフラウは思わず目を逸らす。
黒兎は気にすることなく頭に帽子を戻すと、細い体を抱いて俯く彼女へ話を続けた。
「フラウ様。貴殿をお迎えに上がりました」
自分の名を呼ばれて、フラウは兎に視線を戻す。
「……私を?」
「はい。あなたは資格を有されておりますので」
兎は頷きフラウに答え、フラウは兎の言葉を繰り返す。
「資格……」
「はい」
「…………」
再び黙るフラウに、黒兎は首をかしげて言った。
「フラウ様。もしかして貴殿は……」
そして少し疑うような表情をして言葉を続ける。
「死を望まれていたのですか?」
兎の言葉にフラウは怯えるような怒るような表情を浮かべ、
「そんなわけないでしょ!? 死なんて嫌に決まってるじゃない! なんで死なんてあるのよ! 誰も死ぬ必要なんて無いのにッ!」
吐き出すようにまくし立て、力任せに拳でオークを殴りつけた。
木は揺れ数枚の葉が落ちてくる。
その間から覗く彼女の視線は鋭く黒兎を睨みつけ、しかし、兎は落ち着いた表情のまま彼女に答えた。
「そうかもしれません。でも、そうではないかもしれない」
「何が、言いたいのよ?」
怒りで拳を傷つけて、フラウは感情を踏みつけるように問い掛ける。しかし兎は平然と、首を振って自分の使命を口にする。
「わたくしは何も。ただ、あなたをお誘いに来ただけですので」
怪訝な視線を突きつけるフラウに、黒兎は再び恭しく頭を下げた。そして、どこか試すような口調でフラウに問い掛ける。
「来られますか? 死を忘れた世界の裏側へ」
死を忘れた世界。
その言葉にフラウは、あの歌声のような音を耳にする。
そして小さく笑い声を漏らすと、右手を伸ばして黒い兎に答えを返す。
「いいわね。さっさと連れて行きなさいよ。その世界の裏側とやらへ」
「そうですか。ならば参りましょう」
黒兎は頷き、音もなくフラウに近づき手を取った。
「ようこそ。ユグドラシルへ」
そして彼女の目の前でマントを翻すように大口を開けると、彼女を一瞬でその中へと呑み込んだ。
◆
「まあ、そんな感じよ」
話し終わると、フラウは自嘲気味な笑顔を浮かべた。
「彼は今、どこにいるのかしらね」
ゆっくりと雲が流れる空を見上げて彼女はつぶやく。
「わからないんですか?」
「世界中を旅して探してるんだけどね」
遠くを見つめるフラウの視線を追いかけるように、アユムも空を見上げた。
「でも、そんなことしなくてもギアの力を使えば……」
不思議そうに言うアユムに、フラウは疲れた口調でため息混じりに答える。
「そのはずなんだけどね」
「ダメ、なんですか?」
横を見れば、アイスの棒と一緒に彼女は首を横に振って話を続けた。
「死んではいないはずなんだけど、どうやっても会えないのよね」
「ギアを使っても?」
「そう。ギアを使っても。例えば、彼が自分の家に帰ってくるという運命をギアの力で組むじゃない? そうすると、どうなると思う?」
フラウは先生が生徒を指すように、アイスの棒をアユムに向ける。
「……彼、カケルさんでしたっけ、が家に帰ってくるんじゃないですか?」
そう思うでしょ?とアイスの棒を振りながら彼女は続けた。
「でも、実際には家が解体されちゃって彼は帰ってこないわけ」
「家が解体……?」
話を飲み込めていない様子のアユムに、フラウは苦笑を浮かべる。
「もう、びっくりしたわよ。ギアを組んだ翌朝、ベッドの上で目を開けたら突き抜けるようなきれいな青空が、目の前一杯に広がっているじゃない。どうやら手違いが重なって数件隣の解体工事をうちと間違えたらしいんだけど……。本当に、あのときは清々しい朝だったわー」
最後のほうは棒読みだったが、彼女は再び空を見上げながらそう言った。
「なら、その解体をなかったことにすれば……」
「それは無理。運命って言うのは認識という歯車の積み重ねなの。一度認識されて歯車がはまったら、それを外すことはできないのよ。世界を壊すでもしない限りはね」
そういうものなのかと思いながら、アユムは別の疑問をフラウに投げかける。
「じゃあ、ナンバー11でしたっけ、そいつがやったって、どうしてわかったんですか?」
「兎に、ギアになると忘れることができなくなるって聞いたでしょ?」
アユムは白兎を思い出して、顔を引きつらせつつも頷いた。
「……ええ。そんなことも言ってましたね」
フラウはアユムの様子に苦笑を浮かべながらも話を続ける。
「各ギアの見たことや行動は、すべてユグドラシルに記録されるの。で、兎に訊いてみたのよ。私の邪魔をしてるのは誰かって」
「それで教えてくれたんですか?」
彼女は肩を竦めると、ため息をついて言った。
「そう。彼の場所は教えてくれないのにね」
フラウも兎にはいい思いをしていないのか、アイスの棒を強く握りしめると眉間に皺を寄せる。
「ユグドラシルの眼が使えても、探す手間は変わらないっての!」
空に向かって文句を言うフラウの拳からは木の折れる音がして、アユムは黙って苦笑を浮かべながら、それを見ていた。
「まあ、いずれにしてもナンバー11に直接会って聞き出せばわかることよ」
そう言ってフラウは立ち上がる。そして、折れたアイスの棒をゴミ箱に放り捨てるとさっさと歩き出した。
「待ってくださいよ!」
その後を追おうと立ち上がって、アユムは自分が手にしていた小さな袋の存在を思い出す。
液体の入ったその袋には「バキバキ君きゅうり味」と書かれていた。
◆
「いやー、パンティー効果抜群ね」
山の入り口に立って、フラウは夕暮れに沈み始めた町を見ながら胸を張る。
「まあ、そうですね……」
事実を否定することもできず、アユムは取り敢えず同意しておくことにした。
人狼のノイズは、まだ町の中にあった。でも、今は追いかけるような動きはなく、何かを待っているかのように同じ場所で止まっている。
その不気味な雰囲気から目を逸らすように、アユムは山の入り口へと目をやった。そこには真っ直ぐに続く石段がある。この石段を登り切れば、そこには墓地が山の中腹当たりから頂上にかけて棚田のように広がっているはずだ。
祖母の墓を思い出しながら、アユムは石段へと一歩を踏み出して言った。
「行きましょう」
「そうね」
アユムの後に続いてフラウも石段を登り始める。しかし、数段登ったところでアユムの動きが止まった。
急に止まったアユムの横を通り過ぎてフラウが尋ねる。
「どうしたの?」
「……フラウさん……」
しかし、その視線はフラウを見ていなかった。アユムは町の方へと振り向きながら血の気の引いた白い顔をしている。
「見つかっちゃったか。じゃあ……」
落ち着いた声で言うフラウに、アユムは助けを求めるように顔を向けた。その目の前でフラウは両手を腰に当てて、
「今度はブラね!」
ためらいなくワンピースをたくし上げようとした。
「うわぁあああああああ!」
アユムは慌ててワンピースを押さえつける。
「何やってんですかッ!」
「何って、次の囮を……」
「今さら意味ないですよ!」
「そう? それは残念」
あっさりワンピースから両手を放すと、今度は左手でアユムの手を取ってフラウは言った。
「じゃあ、アユム。あいつの位置を見失わないように気をつけてちょうだい」
そしてフラウは加速する。アユムを引きずるように一気に石段を半ばまで駆け登ると、今度は急に木々の生えた斜面へと方向を変えた。
「うわっ、ちょっ、フラウさん!?」
「下手に喋ると舌噛むわよ!」
前を見たままフラウはさらに加速する。その動きは直線的ではなく、木々を避けながら複雑に蛇行を繰り返すものだった。絶え間なく変わる方向に酔いそうになりながら、アユムは自分の手を握るフラウの左手に光るものを見つけた。
それは薬指にはめられた指輪で、よく見ると緑の光で文字列が幾つも浮かんでいる。
《永続閉紋:獣の本質:駆動中》《永続閉紋:衝撃を喰らう鳥:駆動中》《永続閉紋:限界の超人:駆動中》《永続閉紋:距離の無い糸:駆動中》《永続閉紋:距離のある針:駆動中》《永続閉紋:見えない翼:駆動中》
文字列は車輪のように次々と流れては消え、それは繰り返し何度も現れ続ける。
もしかして、これがギア?
アユムが直感的にそう思った直後、腕が不意に上へと引っ張られた。
「へ?」
足下から地面の感触が消えて下を見れば、そこには草木の無い抉られた山肌が見える。
「!!!!!!」
丁度石段があった山の入り口の反対側。十メートルほどの幅を持った崖を二人は跳んでいた。
アユムは吸い込まれるような光景に声も出せず、ただフラウの手を握り直して彼女の背へと視線を向ける。そこにはうっすらと透明な翼のようなものがあって、夕焼けの色を映して浮かび上がる羽の温かさに、アユムは思わず息を呑んだ。
すごく、きれいだ。
しかし、そう思ったのも束の間、目の前には再び木々が現れ、二人は雲の上に降り立つように地面へと優しく着地する。そして再び森を走り出す。
◆
山の周囲を三分の二ほど回ったかといったところで、辺りはすっかり暗くなっていた。空には雲が幾つも流れ、今は月を覆って夜の闇をより深くしている。
明かりの無い森の中をフラウに引かれて走りながら、アユムはその変化に気付いて声を上げた。
「フラウさん!」
ほとんど何も見えない山の中を迷いなく走りながら、フラウは淡く漏れる指輪の光の中、アユムへと視線を向ける。
さっきまで石段のほうへと向かっていたノイズが方向を変えて、自分たちのほうへと一直線で速度を上げて向かって来ていた。
アユムは、緑の光に浮かぶフラウのどこか楽しげな瞳に武者震いを覚えつつ、わき上がる感情に乗せて言葉を放つ。
「真っ直ぐ来ます!」
フラウは口の端を上げると前を向き、今度は枝の上へと跳躍した。そして、蛇行する動きに枝と地面という上下の動きを加え始める。
「何してるんですか!? 早く逃げないと!」
速度を落とすような動きにアユムは声を上げ、しかしフラウは不敵な笑みを向けるだけで何も答えない。
二人とノイズの距離はみるみる内に縮まり、そして、そろそろ山を一周しようかという頃、アユムは後ろで葉を揺らし草を刈るような鋭い音を耳にする。
やばい、追いつかれた!?
とっさにアユムはフラウの手を強く握った。すると、フラウは振り向いて楽しげに笑顔を向ける。
大丈夫だから。
そういう表情を浮かべるフラウに、しかしアユムは背筋に冷たいものを感じながら、彼女を信じて、その手をしっかりと握り直した。
後ろを見れば、闇に小さく光る目が二つ浮かんでいる。それは、まるで糸で繋がっているかのように、自分たちの後ろで一定の距離を保ってついてくる。
やっぱり、もうダメだ!!
アユムがそう思って目を閉じた直後、その耳に風を切る音がやけにはっきりと聞こえた。それはフラウの左側、自分と彼女が手を繋いでいる方向から一気に近づいてくる。
とっさに目を開ければ、さっきまで後ろをついていた光は無く、横へと視線を向けたその先、目と鼻の距離にそいつはいた。
「フラウさん!?」
五本の赤い線が、アユムとフラウをなぎ払うように闇に走る。
「アユムっ!」
振り向いたフラウはアユムを抱き寄せ後ろへ跳んだ。しかし、闇から固まりのように現れた人狼の腕は、逃さないとばかりに二人へ伸びる。
「え?」
しかし、そこでアユムが上げたのは悲鳴ではなく驚きの声だった。
◆
「ぐっ……。貴様、いったい何をした?」
野太い声で人狼は唸るように言った。
流れる雲の合間からは月が顔を出し、その真円から静かな光が降り注ぐ。
木々の影がはっきりと浮かび上がる中、狼の毛に覆われた巨躯が宙に現れた。
「あなたには見えないでしょうね」
静かな声でフラウは言うと、アユムのほうへと視線だけを向けて右手を挙げる。その指の間には針が一本あり、そこから非常に細い何かが伸びていた。
フラウが右手を軽く後ろへ引くと、それは月明かりを照り返すように蜘蛛の巣にも似た光景を至るところに浮かび上がらせた。
森を描いた絵画を切り裂くようにあらゆる方向へと直線が飛び交い、蜘蛛の巣に絡まるように人狼が、四肢と胴体そして首を、その直線によって拘束されている。
「…………」
目の前の光景に呆然とするアユムを横目に、フラウは得意げに人狼へと話しかけた。
「言っとくけど、無理に動いたら全身ギロチンよ。糸のない操り人形になりたくなかったら、動かないことね」
その言葉に人狼は唾を吐き捨てると、吠えるように言い返す。
「グラムの牙に魔女の情けは不要! 亡霊なんぞと違って、我らはグングニルの下、自らの命を懸けて一つの生を全うするのだ! 死こそが生の証! ひと思いに殺せ!」
人狼の叫びにフラウは大きくため息をつくと、蔑み睨むような鋭い視線を人狼に向ける。
「まったく暑苦しい。あんた、バカじゃないの? いい? あんたの生き様なんか、私の知ったことじゃないの。私は死が嫌いなだけ。特に目の前で死なれるなんて冗談じゃないわ」
それだけ言うと、フラウはアユムに目配せをして人狼に背を向けた。
「おい! どこへ行く!!」
人狼の空気を引き裂く怒声に、フラウの後を追おうとしたアユムの足がすくんで止まる。
しかし、その手を強く引いて、フラウは振り向くことなく墓地へと向かう。
そして、背後の人狼へと軽く手を振りながら彼女は言った。
「それに私、中身じゃなくて下着を追いかけるような男に興味ないの」
その直後、アユムは背後で膨れる殺気とともに何かが切れる音を聞いた。しかしフラウは、それでも気にすることなく歩き続ける。
「き、貴様! あとで必ず後悔するぞ!」
満月の下、多分に動揺を含んだ狼の遠吠えが虚しく響いた。