(九)
ハデスは努めてペルセフォネに会わないように過ごした。
呼ばれることなど当然なかったが、自ら訪ねることもしなかった。
――矢張り、連れて来るべきではなかった。
彼女の怒りや寂しさを間近で感じて、ハデスの後悔は深まった。自分のいる世界は生者のものではないのだ。こんなところに在っては、彼女の本来の輝きも薄れてしまう。陽の当たる地上で、色とりどりの実りに囲まれ祝福されながら在るべきだ。ゼウスのような強引さは自分は持ち合わせていない。密やかに、生けるものの輝きの影に沿うだけの存在だ。だからせめて、彼女が再び輝けるように尽力しよう。
「ハデス様」
黙考を臣下の声が遮る。
「何だ」
不機嫌とも上機嫌ともつかぬ声でハデスは答えた。
「天上よりご使者がいらっしゃいました」
「使者?」
「ヘルメス様でございます」
ヘルメス。ゼウス直属の使者。ペルセフォネに関することか。
「通せ」
臣下が恭しく退室した後、程なくしてヘルメスが姿を現す。相変わらずの美丈夫だ。自信に満ち溢れた居住まいは父親でもあるゼウス譲りだろう。
「お久しゅうございます。ハデスよ」
「ああ。久しいな。いつ以来であったろう」
「さて。巨人族との戦いが終わって以来でしょうか」
「そのようなこともあったか」
ハデスは遠い日のことともつい先日のこととも感じられる戦を思い出し、嘯いた。ハデスは勿論、兄弟であるゼウス側の一員として戦った。結果としてはゼウス側の完勝に終わり、これによりゼウスの支配は安定したが、その内容にハデスは哀愍の念を抱いている。
そもそもゼウスが天上の頂点に座しているのは、他の者からその覇権を奪い取ったからだ。かつてこの世界を治めていたのはウラノスとガイアの間に生まれたティタンの神々であった。その筆頭であり自身の父であるクロノスにゼウスは戦いを挑んだ。その戦自体にはクロノスに呑み込まれてしまったゼウスの兄弟達を救い出すためという名分があったが、その後が問題だった。勝利を獲てから、ゼウスは敵対していたティタン神族を暗い冥府の更に奥底にある奈落へと閉じ込めてしまったのだ。自身の権力を高めるためのこの措置はティタンの母であるガイアの不興を買うことになる。怒れるガイアは我が子を救い出すため自身が産んだ巨人達を嗾けてゼウスに対して反乱を起こす。こうして巨人族とオリュンポスの神々との間で烈しい戦闘が繰り広げられた。
その際、ハデスは自身が所有する姿を見えなくする鎧をヘルメスに貸し与え、それによりヘルメスは巨人ヒッポリュトスを仕留めるのに貢献した。その多くがゼウスが人間の女アルクメネとの間にもうけた子ヘラクレスにより射殺されるなど、ゼウス陣営の圧倒的な強さの前に巨人らは皆倒れた。我が子をゼウスに殺され続けたガイアは狂乱の果てに最恐の怪物テュフォンを産み出し、戦闘は激化した。地上はこの戦いのために形を変えるほどだった。しかしそれでもゼウス側の力が勝り、テュフォンをエトナの山に封じることで長きに渡る戦いは終焉を迎えた。
権勢を欲する者の傲慢が、我が子を愛おしむ母の我執に火を点け、両者の衝突に周囲を巻き込んで混迷を極めた一件であった。願わくば二度とそのような争いには関わりたくないし、起きて欲しくもないというのがハデスの本音である。故に、自ら過去の戦績を口に出すことは避けている。
「それで、ヘルメスよ。此度はゼウスから何を頼まれて来たのだ。誰ぞ英雄が死んだとも聞かぬ今に冥界へ用があるとすれば、ペルセフォネのことであろうが」
腹の探り合いは不要とばかりにハデスは自ら結論を急かす。
「流石はゼウスの兄君。お察しの通りです」
ヘルメスは微笑みでもって答えた。
「ペルセフォネがこちらに来てからというもの、母親のデメテルの怒りが鎮まりませんので。そもそも強引なやり方をしたゼウスも悪いのですが、どうもデメテルの心中を軽んじていたようです」
「つまり、ペルセフォネがここに居ることで何か弊害が起きているのだな?」
「ええ。デメテルはオリュンポスを去り、エレウシスに建てた自身の神殿に籠ったきり出てきません。そのために大地は枯れ、荒廃の一途を辿るばかりです。大きな戦いの末にようやく地上が安定したというのに、このままではそれも崩れてしまいます」
「それで、デメテルはどうすればオリュンポスに戻って来るのだ?」
「我が子を地上に戻すことを条件に」
ハデスはガイアの乱心を想起する。このままでは、同じ轍を踏むことになりかねない。自分が産み落とした子はどうあっても大事にしたいものだろう。デメテルもまた、そうした母の心を持っている。それに、何より母の許に戻るのが娘にとっても最善のことなのだ。
「相解った。ペルセフォネはデメテルへ帰そう」
ハデスが了承すると、ヘルメスは驚いたようだった。
「何かおかしいか?」
「…いえ。きっとご理解頂けるものとは思っておりましたが、存外に返答がお早かったので。こちらとしてはお話が早くて助かりますが、貴方はそれでよろしいのですか?」
「ああ。丁度私も、彼女を帰すべきだと考えていたところだったからな」
ハデスは溜息交じりに自嘲する。本来の自分なら決して仕出かさない愚行に走った報いだ。全ては元通り、在るべき状態に戻すのが良いのだ。
「――ヘルメス様?」
唐突な乙女の声にはっとし、ハデスは広間の扉を見遣る。
ペルセフォネが遠慮がちに開けた扉に身を寄せて玉座を窺っていた。
「おお、コレーではないか! 無事で何よりだ」
ヘルメスは美しい乙女に再び見えたことを歓んだ。その様を見て、ハデスの心を縛る鎖の締め付けが強くなる。果然、親しみを込めて彼女を「コレー」と呼べるのは光差す世界の者達なのだ。自分はそこには入れない。別に、入りたいわけではない。入るべくもない。それが事実だ。
ハデスは冷徹な王の声で乙女を招く。
「貴方の迎えだ。もっと側近くまで寄るが良い」
ペルセフォネは頷き、おずおずとヘルメスの横に立った。
「どうしてヘルメス様がこのようなところへ…?」
「ゼウスの伝令でな。そなたを連れ戻すようにとハデスにお伝えするために参ったのだ」
ヘルメスの言葉にペルセフォネは美しい榛色の目を見開く。
「…では、私は地上へ帰れるのですか?」
「そうだ。愛しい母上にも再会できる」
「お母様——お母様はお元気でしょうか?」
ヘルメスは苦笑した。
「お元気とは言い難いな。そなたを失ってからというもの、すっかり変わり果ててしまわれた」
「そんな…」
「だが、そなたが帰ってくればきっと元のお優しい母上に戻られよう。我らオリュンポスの一同皆がそう願っておるよ」
実りのない大地。ハデスはもう久しく本物の実りを見ていない。実りがないということは、地上がこの暗い冥府と同じような貧寒に晒されているということだろう。それはいけない。地上を生きる喜びも楽しみもない、そんな世界にしてはいけない。生きながら実りのない虚しさを味わうのは自分だけで良い。
「ヘルメス。一刻も早くデメテルの娘を帰したい。どのような手筈になっている?」
先を急かすハデスをヘルメスが宥める。
「お待ち下さい、ハデスよ。私もこのように直ちに交渉が済むとは思わず、準備が整っておりません。どうか次の日の出まで待って頂けませんか。その頃に私がデメテルをエレウシスより連れ出して参ります」
「では私はこの娘を冥界と地上との境まで連れて行こう」
「お手間を取らせて申し訳ありません」
「私にも非のあることだ。デメテルには直に謝らねばならぬ」
ゼウスの口車に乗せられたとはいえ、ペルセフォネを無理矢理冥界へ連れてきてしまったことは紛れもない事実である。突然に我が子を手元から奪われ、母であるデメテルはどんなに辛かったか。その辛苦の反動をガイアとの戦いで見ているハデスは自身の行動を深く反省した。
「ペルセフォネ」
「はい」
ハデスに呼ばれ、大地の女神を母に持つ乙女は不安げな表情で答える。
「帰り支度を整えなさい。地上に日が昇る時刻が近くなったら、迎えに行く」
言いつつハデスがペルセフォネを見遣ると、その視線には何か言いたげな雰囲気がある。
「…はい」
ハデスが何か、と問う前に、結局ペルセフォネは頷いた。