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乙女譚  作者: 毛野智人
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(八)

 エレウシスの地には、重い雨が降り注いでいる。

 オリュンポスからの来訪者を遠ざけようとするかのように、デメテルの居るという神殿の周りでは特に烈しい雨音が立つ。

 虹の女神であるイリスにとって雨は自身に縁のある現象だが、この降りようでは虹が出るには程遠い。デメテルを説得することができれば、雨は上がり、陽が射し、空に虹がかかるだろう。

 イリスは雨滴に紛れて神殿の内部に進入した。

 神殿内は暗く、点在する松明たいまつの灯りが揺れている。

 イリスは意を決して神殿内を見て回る。

「デメテル様、どちらにおいでですか。ヘラとその夫ゼウスの遣いで参りました。どうかお目通りをお許し下さいまし」

 ゼウスの名を出した途端、松明の炎の揺れが強まった。瞬時に強い殺気が空中を伝わる。イリスはびくりと緊張し、神殿の奥を見た。すると、松明の陽炎かげろうに朦朧と女の影が浮かび上がる。それは怒れる地母神に相違ない。

「イリスか。遠路遥々はるばるよう参った」

 重苦しい声音は、イリスの記憶するデメテルのそれとはかけ離れている。恵みをもたらす女神の優しさは欠片もなく、凶荒の苦しみを突き付ける畏怖の対象に変容してしまったようだ。

「デメテル様。お久しゅうございます」

 イリスは恭しく頭を下げ、自身の目的を果たそうとデメテルに対峙する。

「どうかオリュンポスへお戻り下さい。貴方様のご不在により、大地はすっかり荒れ果ててしまいました。かように何の恵みも実りもない世界では、生きることは苦しむことと同じ意味になってしまいます」

「生きることが苦しいなどと、何と当たり前のことを申すのか」

 イリスの訴えをデメテルは一蹴する。

「私はずっと苦しんできたのだ。あの愚弟の悪行に。増長し、何もかもを征さんとする者が側にいる中で、コレーだけが私の心の居所であったのだ。私にとって唯一の恵みは我が愛しき娘に他ならぬ。それを奪われたまま奴の近くへ戻れる筈がなかろう」

 その眼からどれだけ涙を流したのだろう。嘆き疲れ、涙も涸れ果ててしまったかの如き暗い色の双眸を見て、イリスはそれ以上の訴えを躊躇う。しかし今は、役目を果たさねばなるまい。デメテルの強圧に負けて何の交渉もできなかったなどと報告するわけにはいかない。

「私の主、ヘラもまたゼウスの行動に悩まされている一人です。きっと貴方様の苦しみも分かち合うことができましょう」

「あの女はただ嫉妬に駆られて悩んでいるに過ぎぬ。私の懊悩など解りはしない」

「しかし、同じ女であり、母であるのですから、何かお役に立てましょう」

「女だの母だのと一括りにされるのは心外だ。私とあの女とではたちが違い過ぎる。何せ、誰であろうと何であろうと無理矢理にでも己の意志の下に従わせようとするのがお前の主だからな」

 イリスは反論したい気持ちをぐっと堪える。確かに、デメテルの言うことも一理あった。ヘラはゼウスとの婚姻のときからしてゼウスに勝手を許さなかったほどだ。その上ゼウスが浮気を働けば、徹底してその相手を罰する。己を蔑ろにされることが許せないのだ。対してデメテルはゼウスの勝手を撥ね付けることができずに耐えてきた人だ。忍耐と高慢という、言わば女の対極の性質を持つ二者である。並べられるのは気に入らないと感じるのも致し方ない。

「我が苦しみは、愛娘を奪われたことによるもの。奴が誰とむつもうと知ったことではない。その時点でお前の主とは相容れぬであろうよ。誰に何をしてもらおうとも、この絶望は癒えはせぬ。私の望みは娘が無事に我がもとに帰ること。それだけだ」

 固い決意を前にイリスは何とかして交渉材料を見つけようと足掻く。

「しかしペルセフォネ様も良いお年頃でございましょう。近頃はもうすっかりお美しい女神とおなりです。そろそろ何方どなたかとの婚姻を考えられても良いのではないでしょうか?」

 イリスの咄嗟の論及にデメテルは眉間に皺を深く刻む。

「お前まであのような蛮行を擁護するのか」

「…申し訳ありません。私とて、ゼウスのやり方を寛容しているわけではございません。女心というものをあまりに無視していますもの」

 今回のゼウスの企みにはイリスも眉をひそめざるを得ない部分がある。確かにハデスは結婚の相手としては申し分ない格の持ち主だろうが、二人を結婚させるなら、正しい順序を経れば良いではないか。果たして、略奪婚のようなことをさせる必要があったのか。その点に関しては、デメテルに同情する。

「そうであろう。私としてもコレーが然るべき相手と結ばれるのは構わぬ。ただしそれには、あの娘の心が伴っていなければならぬ。真に相手を恋い慕うというのであれば、手放すことも認めよう」

 愛する人と結ばれて欲しい、という母として当然の願いだ。

「しかしあのように乱暴に連れ去り、無理矢理に妻にせんとする者を我が娘が愛するとは到底思えぬ」

 デメテルは娘を想い、顔をおおった。

「――ああ、私の乙女コレー。暗く冷たい地の底でどんなに心細い思いをして泣いていることか」

 大地の全ての実りを絶ち、人間に神殿を作らせ篭城するという大胆な叛逆に出ているデメテルだが、全ては我が子を失った母の悲しみ故のことだ。ゼウスに対する怒りよりも、娘を奪われた悲しみと苦しみの方が強い。元々はゼウスの自身への不徳を堪え忍んでいた人だ。恐らく、ペルセフォネが地上に戻りさえすれば、ゼウスに対する怒りも取り敢えずは鎮めてくれるだろう。

「それでは、ペルセフォネ様のご帰還をなくして、デメテル様がオリュンポスへお帰りになる気はないと…そうおっしゃいますか?」

「然様。大地の恵みが恋しくば、コレーを地上に帰せ。天空に御座おわす全能の君にはそう伝えるが良い」

 答えは実に単純明快であった。つまりは、理不尽な働きを取り消して全てを元通りに戻せということだ。地上に広がった被害を考えれば、ペルセフォネを連れ戻すだけで解決するなら容易いことだろう。

「畏まりました」

 デメテルの命令に、イリスは恭順した。

 その頃のエレウシスは、重い雲の垂れ込める曇天であった。


 イリスの報告を受けて、ゼウスは当初は難色を示した。

「折角あのハデスにつがいができたというのに、今更戻せと言うのか」

 新しい玩具を取り上げられる前の子供のように渋る大神に、ヘルメスが苦笑しつつ言い聞かせる。

「しかしこれ以上何の実りもないままでは、人も動物も飢えて死に絶えてしまいます。それに我々神々とて、死にはせずとも生きる楽しみがなくなってしまうのです。天空の頂点に座せる者として、ゼウスよ、どうか賢明なご判断をなさいませ」

 ヘルメスの進言にゼウスは渋々頷き、デメテルの要求を受け入れた。

「早速だがヘルメスよ、冥府へ赴いてハデスにその旨を伝えて参れ」

「御意」

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