(七)
ペルセフォネは膝を抱え、ハデスに貸し与えられた外衣に包まっている。
冥界では客人として丁重に扱われているものの、そもそもが馴染みのない世界なのだ。心が休まることはあまりない。誰かと話したくても、冥界の者達は皆どこか虚ろで、声をかける気が削がれてしまう。
独りで、黙って過ごすのは辛い。誰かと心を通わせて笑い合っていたことがどんなに幸せだったか。
――あの人も、そうだったのだろうか。
暗い冥界に鎮座するようになってから、誰かの想いに触れる機会があったのだろうか。それとも、独りで只管に冥府の主としての役目を果たしてきたのだろうか。
ペルセフォネは真っ暗闇を纏った男のことを思う。初めて会ったときはただ恐かった。突然に抱え上げられ、何を考えているか全く読み取れなかった。間近で相対したときにもペルセフォネが今まで接してきた者達とはあまりに違っていたので、戦慄さえ覚えた。底知れぬ深い闇を前にしているかのようだった。しかし、言葉を交わしてみると、その印象は少し変わった。多分、彼はペルセフォネのことを憎んでいるのでも怨んでいるのでもない。
美しい、と言ったのだ。ペルセフォネのことを。それは恐らく本心からの言葉だと思えた。彼は不言でいることはあっても、虚言を弄することはない。あの長い沈黙から、少なくともペルセフォネはそう見ている。それに、ペルセフォネを気遣って衣を貸してくれた。自身も寒さを感じるだろうに、幾分も格下のペルセフォネを優先してくれた。
だから、きっと、ハデスはそんなに恐くない。
そう思うのに。あれから、ハデスはペルセフォネに会いに来ていない。今なら少しは心を通わせることができそうな気がするのに。
――会いたい。
それは独りで放っておかれた寂しさから発しただけの想いかもしれなかった。母親から、大地から、取り巻く全ての者から愛されていた乙女が突如として孤独に放り込まれて、我が身の可愛さから寂しさを紛らわしてくれる誰かを求めただけの浅薄な欲求かもしれなかった。それでも、確かにペルセフォネの心にはハデスが思い浮かんだのだ。
ペルセフォネは寝台から足を下ろす。床面から石の冷たさが足裏に伝う。
闇色の衣を掻き合わせ、そろりと部屋を抜け出す。もう目が随分と闇に慣れてきた。暗い中でもほんの少しだけ先を見通せる。辺りを窺いながら、どちらの方向に進むべきかも解らぬまま歩を進める。
きょろきょろと余所見をしつつ歩いていたので、曲がり角に差し掛かったとき正面に誰かいることに気付けなかった。まともにぶつかってしまい、ペルセフォネは悲鳴をあげる。何事かと目を上げれば、青白い顔をした有翼の人物がこちらを見下ろしている。
「誰だお前は」
男は冷たい視線でペルセフォネを睨みつけ、徐にペルセフォネの顎を掴んだ。
「何をするのです! 無礼な…!」
ペルセフォネは抵抗したが、男の手はびくともしない。そのまま顔を近付けられ、まじまじと観察される。
「お前、生きているな。しかも、不死なる者だ。何故、このような場所にいる?」
「私は、デメテルの娘でペルセフォネと申します。訳あってしばらくの間、冥王ハデスより客としてこちらに迎えられ、世話になっているのです」
「ああ、お前か。冥王がご執心の娘というのは」
男は興味を失ったようにペルセフォネを解放した。
「あの堅物がわざわざ地上まで出向いて強奪してきたというから、どれほど妖艶な美女かと思ったが、期待が外れたな」
「なんてことを…」
ペルセフォネが不快感に眉を顰めると、男は嗤った。
「だってそうだろう? 奴は色恋沙汰とはまるで無縁だったのだぞ? 死者の世界には生をもたらす恋など必要ないと思っている。弟とは違って、いつだって理屈で自分を律してきたような男だ。それが突然女のために理性に反した行動に出たのだ。奴の真面目くさった顔しか拝んだことのない者にとってみれば、そこまでさせた者の顔が気になるというものじゃないか。それなのに、死者よりも死に忠実な冥府の王に恋の火を点けた相手がこんな小娘とは…驚く他あるまい」
男の言葉にペルセフォネは困惑した。
ハデスはペルセフォネに恋をしている? だからここまで連れてきたのだと?
「そんな、こと。あの方は一言も…」
「言わなかったのか。それもまた奴らしい。大方、悲しむお前の顔を見て我に帰ったのだろう。それで好いた者をこれ以上悲しませない道を選んだ、というところか。連れてきたところで、弟のように愛を囁いたり抱いたりできる質でもないだろうからな」
ペルセフォネは赤面する。ずっと母に守られてきたからか、男女の情交には疎い。冥界に来てからは触れられもしなかったが、まさかあのハデスがそこまでの想いを抱いていたというのだろうか。変化を見つける方が難しい、あの表情の下に?
有翼の男は目を眇めてペルセフォネを眺める。
「お前はまだ冥界に囚われてはいないな。衰えてはいるものの、全身に生気が満ちている。奴に何か助言をされたのか?」
「こちらのものは食べるな、と」
「そのようなことは隠しておけば良いものを。熟正直な男だ。正直すぎても何の得もなかろうにな」
それはペルセフォネ自身も不思議に思った。連れて来た目的もよく解らぬまま、ハデスに地上へ帰るための助言をされた理由が見えなかった。しかしこの男の言う通りであれば、ハデスはペルセフォネが帰りたがったから、その意思を尊重して自身の目的を達さない方を選んだということだろうか。けれど、そうしたのは、何故だ?
「人が死ぬとき、幸福な顔で眠りにつく者を何人も見てきた」
唐突に男は話し始める。
「彼らの傍らには、その死を惜しんで涙を流す者達がいた。何故その者達が泣いていたか解るか?」
ペルセフォネは首を振る。
「彼らは互いに愛し、愛されていたからだ。自分のことを差し置いても他者を大切にしたいと、互いに想い合って生きていたのだ」
「何故そのような想いを持てるのですか?」
「人は死ぬ者達だからだ。誰にも等しく死が訪れる。死は生との別れだ。死がある故に、生きることの意味が強まる。善き死を迎えるために、善き生を送るのだ。その実践が他者を慈しむということらしい。そうして誰かを愛したことのある者は、死を迎えるときに良い人生だった、と振り返り、穏やかに死んでいけるのだ」
「よく、解りません」
「元より永遠の運命にあるお前には解らんだろう。だが、死の間近にある奴は知っているのかもな」
さて、と男は話を切り上げ、ペルセフォネから離れる。
「私はそろそろ行かなくては」
「どちらへ…?」
「これから死ぬ者の魂をこちらへ運ばなくてはならぬ」
そこでペルセフォネはああ、と納得する。
「貴方はタナトスですね?」
「如何にも。デメテルの娘よ、冥王に会いたければその突き当たりの扉を開けるが良い。今は天界よりの使者が謁見中だが、恐らくお前に関する話だろう。ついでに臨席してやれ」
「ありがとうございます」
ペルセフォネは死の神タナトスを見送ってから、ハデスに会うために玉座のある広間を目指した。