(六)
目の前の乙女があまりに珍妙な面持ちをしていたので、ハデスは困った顔を向ける。何故連れてきたのかと執拗に訊かれたから、こちらとしても悩んだ末に打ち明けただけなのに、そのように反応されても困ったものだった。ただし、言ってしまったことに悔いはなかった。ペルセフォネを美しいと思ったのは本心であったからだ。嘘も偽りもハデスは好まぬ。秘することは認めるが、欺くことは認められない。故に、黙ることが許されぬなら乙女の美しさを讃える言葉を口にしてしまった方が良いと思った。
「何を仰っているのか、意味が解りませんわ」
眉根を寄せて乙女が言う。
「今まで他の殿方からも美しいとお褒め頂いたことはあります。しかし、貴方のような暴挙をはたらいた方はおりません。それが私を攫う理由にはならないでしょう」
まあ、そうだろう。ハデスだってそう思っていた。ゼウスに唆されたときには、そのようなことをしてはならないと自戒していた筈だ。
「私も同意見だ。このようなことが許される筈のないことは承知している。だが、否、だからこそ、私自身もよく解らない。貴方を見るだけで十分だったものを、何故こうして側に連れ帰ってしまったのか」
「理由もなくこのようなことをするなどと、更に質が悪いというもの。私は貴方に対して恐怖を感じます」
ペルセフォネは自身の肩を掻き抱いたままだが、双眸は屹としている。生き抜かんとする者の目だ。か弱い乙女でありながら、必死で自分を守ろうと、権力には屈すまいとする心の芯が通っている。ハデスはその姿さえ、美しいと感じずにはいられない。
「存外にはっきりと物を申すのだな」
「いくら位の高い方であろうと、無礼者に変わりはありませんので。遠慮は不要でしょう」
手厳しい指摘だ。だが、正当な主張でもある。
「ここまで無断で連れてきてしまったことは大変申し訳ないと思っている。それもこのように闇の深いところだ。地上の恵みは一切ない。デメテルの恩恵に囲まれて育った貴方にとっては、さぞ心細いことだろう」
ハデスはこちらを睨む眼から乙女の全像へと焦点を転じた。
肩が微かに震えている。
死者の世界には生者の温もりは必要ない。冥界の冷たさはペルセフォネの身体に容赦なく触れ、心さえ脅かすに違いない。
冥府の王は自身の双肩に掛かる外衣を脱ぐと乙女の細い肩の上へそれを被せ、寒そうな身体を包んでやる。ペルセフォネは目を丸くしてハデスを凝視した。
「何を…」
「寒かろう。ここには暖の取れるものが僅かしかないのでな」
暖まる必要のない者ばかりの世界に温度を保つための道具はない。死者のためにも植物等の恵みがあることにはあるが、地上のものとは全くことなり、実体や熱量に欠けた仮初めのものに過ぎない。ハデスの纏っていた外衣は冥府に下る前から愛用しており、言うなれば地上製であった。故に、温もりが逃げずに済む。
「…貴方は、寒くないのですか」
ペルセフォネの問いにハデスは努めて素気なく答える。
「私はもうすっかりこの冷たさに慣れ切ってしまっている。今更寒いなどと不平は言わぬよ」
「今更、ということは、寒さをお感じにはなるのですね」
ハデスはペルセフォネの炯眼に驚く。何気ない言葉の端から真実を読み取られてしまった。
「私も光の届く世界で生まれ育ったからな。無論、死んでもいないので、寒さは知っている。しかし貴方よりはずっと長くここにいるから、貴方よりも寒さには慣れている。故に今は貴方の方がそれを使うべきだと判断した」
理知的な物言いができたことに、ハデスは安堵した。ペルセフォネに関わってからというもの、何か平生の自分とは違ってしまい、困惑していた。やっといつもの通りになっただろうか。
ペルセフォネは思案深げにハデスの話を聞いている。先程よりは警戒心が和らいでいるようだ。
「ずっと長く、ここで。他に寒さの解る者はいるのですか?」
「残念ながら私独りだ。冥界にいるのは死者ばかり。貴方の相手になる者は用意できない」
「そのようなつもりで訊いたのではありません…!」
ペルセフォネが窘めるように否定したので、ハデスは勢いに圧されて思わず、すまないと呟く。呟いた側からはたと疑点が浮かぶ。では、どのような意味の問いだったのか。
ハデスから審理するような視線を受けると、ペルセフォネは顔を背けてしまう。再び厳しい口調に戻り、ハデスに問うた。
「…それで、私はいつまでここに留め置かれるのです」
「さて、どうしたものかな。冥界に一度足を踏み入れた者は二度とは地上に戻れぬ掟だ」
「まさか永遠に出られないと仰いますの? 私の意思に反して連れて来られたというのに?」
「すまぬ。しかし理にはそう簡単に逆らえぬ。私の力をもってしても、貴方をこのまま帰して無事に済む保証はないのだ」
神もまた理法の一部であるが故に、世界を生成する原理に従わねばならぬ。世界の存在の原初に空間が生じた瞬間から、神々はその命運を決められている。即ち、原理の一端であり、極致であり、表象であり、様相である。
ハデスは死に関する原理を担っている。死んだ者は甦らない。それが理だ。従って、冥府に到達した者もまた、光ある世界へ戻ることは許されない。その理を司る神自身がそれを曲げてしまえば、世界の均衡は大きく崩れるだろう。
「強引に連れて来てしまったが、貴方は決して虜囚ではない。客人としてもてなそう」
ハデスが合図をすると、饗応のための皿が運ばれてくる。
ペルセフォネが上体を起こしている寝台の周囲には松明が並べられた。仄明かりが灯り、乙女の近くだけ暗闇が和らぐ。
「これで少しは落ち着かれるだろうか」
突然の厚遇にペルセフォネは困惑しているが、ハデスはとりあえず怯えていないのを察して良しとした。
「色々と用意はさせたが、所詮これらは隠世の品々。御身の寂しさを紛らすための見せかけに過ぎぬ。そのことを忘れるな。特にそこに並ぶ食物は、口にすることを勧めない」
「何故です?」
「冥府のものを食べた者は、永遠に我らの客人となる。地上へ帰る望みを持ち続けるならば、手を出すべきではない」
「妙な助言を下さるのですね」
「何のことだ」
「だって、無理に連れて来たのは貴方だというのに、私を帰したいのですか?」
ハデスは口を噤む。
恐らく、帰したくはない。側で言葉を交わすことを覚えてしまったら、そうできなくなったときに辛くなる。しかし、目の前の乙女は帰りたがっている。ならばその想いを押さえ付けることはハデスにはできない。力尽くで側に置きたいわけではないのだ。そうしたとて、ペルセフォネはハデスが焦がれたような生き生きとした表情は見せてくれまい。ハデスは生命の輝きに満ち溢れた美しさを愛でたのだ。だからこそ、彼女がそう在ることのできるようにしたい。
しかしこのような考えはペルセフォネには理解されないだろう。先程は美しいと褒めて困らせてしまった。ならば知られないままで良い。彼女が再び笑ってくれるときが来るならそれで良い。
「何か他に必要になれば遠慮なく申すが良い」
ハデスは身を翻し、乙女の許を去る。外衣を纏っていないというのに、常闇の冷たさを苦と感じないのが不思議だった。