(四)
寒い。
ペルセフォネは身体の冷えを感じ、目を醒ました。
ゆっくりと上体を起こして辺りを窺う。
目を開けて驚いたのは、辺り一面の暗さだ。陽の光が全く届いていない。その光景の異様さに背筋が震える。一体ここはどこだ。暗闇ばかりで一寸先に何があるのかさえ見えない。
ここは、ペルセフォネが生きていたのとは全くの別世界だ。
「目覚めたか」
突然の声にペルセフォネは、ひ、と甲高い悲鳴と共に息を吸う。
何も見えない闇の中では自分一人の存在しか感知できなかった。
恐る恐る背後を振り返れば、周囲の闇よりも一層の真っ暗闇を纏った男がいた。
ペルセフォネはこの男に見覚えがある。
気を失う前、ニューサの野でニュンペ達と遊んでいたとき、この男が突如として現れ、ペルセフォネを強引に連れて行ったのだ。
そのときのことを思い出し、ペルセフォネは身震いした。自分の腕で肩を抱く。
おぞましい。
確か自分はあの男に身体を抱えられたのだ。母に大切に守られ、男と言葉を交わしたことも数えるほどしかない。触れられたことなどある筈もなかった。
「貴方は一体何者なのです?」
嫌悪感と恐怖心を露にしてペルセフォネが尋ねた。
「私はハデス。この冥界を領する者だ」
闇は乙女の恐怖すら呑み込むような荘重な声で答えた。
ハデス、というその名に聞き覚えはある。
オリュンポスでも随一の力を誇るゼウス、ポセイドンの兄だ。弟達が地上と天空を統べるのを承諾し、冥府の支配を引き受けたと聞いている。この世界の支配権が三つに分けられてからも、ゼウスとポセイドンは度々領地を巡って争いを起こすことがあるが、そういうときに兄であるハデスが出てきたことはない。それは実力のなさの故だろうとペルセフォネは漠然と思っていた。争っても勝ち目がないから出てこないのだと。
しかし、この人は決して弱くなどない。一目見てペルセフォネは直感した。
オリュンポス山での会合でゼウスやポセイドンに会ったことがあるが、彼らは如何にも強大な力を手にしているという感じの佇まいだった。大神であると誰の目にも明らかだった。だが目の前にいるハデスからは、力の大きさが感じ取れない。どれくらいの実力があるのか、把握できない。それは彼が無力だからではない。――隠している。力の片鱗は感じ取れる。ただ、その背後にどれだけの力があるのか見えない。その全容は大きかろうが、どれほどの大きさなのか解らない。大洋ほどか、天穹ほどか、如何ほどなのか見えぬ。まるでこの闇のようだ。そこに彼がいるのは辛うじて目視できるが、この空間が一体どうなっているのかは見当がつかない。
得体の知れない相手を前にして、ペルセフォネの身体は更に緊張した。
「そなたはデメテルの娘か」
母の名を聞いてペルセフォネは泣きそうになる。母は今頃どうしているだろう。心配して泣いているに違いない。
ペルセフォネの表情を肯定と取り、ハデスは問いを重ねた。
「名は何と申す」
「…何故貴方に名乗らねばならないのです。それに、母の名をご存知ならどうせ私の名前もお判りでしょう」
この人の望む答えなどくれてやるものか、という思いがペルセフォネの中に沸々と沸き上がっていた。母といた平穏な世界から無理矢理引き剥がされ、こんな暗闇に押し込まれて。そんな強硬なことをする男の言いなりになどなりたくない。
ペルセフォネの反抗を意に介さず、ハデスは淡々と話を進める。
「ではコレーと呼ばせてもらうがよろしいか」
その名にペルセフォネは瞠目し、固まってしまう。コレーは乙女を意味する名前だ。ごく身近な人達からもそのように呼ばれていたが、何よりそれは母が自分を呼ぶときの名前なのだ。
「…嫌です」
寂しさの中から声を絞り出し、肩を抱く腕に力を込めて身を縮める。
「貴方にその名で呼ばれたくありません」
「ならば何と呼べば良いのか」
「ペルセフォネ。それが私の名前です」
ペルセフォネはハデスを睨みつける勢いで見つめた。それに対するハデスの視線は冷めている。まるでペルセフォネの反応に興味がないかのようだった。ハデスのその態度が気に入らなくて、無礼な振る舞いを止められない。本来なら位の高い者の言葉を待つのが必定だが、何も言われないのに耐えられず、自ら尋ねてしまう。
「ここは冥界なのですね」
「そうだが」
「何故私がこのようなところに連れて来られたのでしょうか? 私の母は大地の神。私も母も冥府とは何の関係もない筈ですが」
自分よりいくらも若い乙女の追及にハデスは無反応だ。ただ黙って乙女の前に立っている。一体何を考えているのか、全く解らない。
ペルセフォネが沈黙に焦れて苛立った頃、やっとハデスが返答した。
「それは、答えかねる」
呆れた。待たされて聞かされた答えが、回答不能の通告だとは。
「理由もなく連れて来たと仰いますか? 突然このような仕打ちを受けて、それでは納得できません」
暗くて、寒くて、怖い。こんなところからは一刻も早く逃れたいのに。母の居る地上へ。大地の恵みが溢れる世界へ。
「私か母に何か恨みでもおありなのでしょうか? でしたらこのようなことはせず、直接訴えて頂きたいのですが」
「そのようなことは断じて無い」
ペルセフォネの問いにハデスは首を振る。元々翳のある表情に、ほんの少し、焦りと狼狽が見えたような気がした。その隙を逃さず、ペルセフォネは詰め寄る。
「ならば他にどのような理由からだというのです?」
ハデスは尚も口を噤む。対するペルセフォネはしぶとく視線を外さなかった。本心の見えないこの男から何か一つでも具体的な答えを吐き出させたい、とむきになる。
膠着状態はしばらく続いた。両者とも、身じろぎ一つしない。
終に、退くことを知らぬ小娘の視線に圧され、冥府の主が折れた。
ハデスは観念したように呟く。
「貴方が美しかったからだ」
——何を、言ったのか。
ペルセフォネは一瞬で怒りも恐怖も忘れてしまった。
発せられたのは自分の予測のどこにもない言葉であり、この場にあまりにも不釣り合いな言葉だった。
やはり、この人は解らない。ペルセフォネはそう思った。